えっ 最低時給15ドル
黒のカットソーとジャケット姿で米シアトル中心部のオフィスに現れた彼は、IT企業幹部のようだった。労働運動家、デービッド・ロルフ(46)。全米に広がる「ファイト・フォー・フィフティーン(15への闘い)」の立役者のひとりだ。米国ではもはや労働運動がすたれてしまったかと思いきや、最低賃金を日本の倍の時給15ドル(約1650円)に引き上げようという動きが勢いづいている。
米国労働運動界の新星と呼ばれるロルフ。ロサンゼルスにいた1990年代、家のドアを一軒一軒ノックして勧誘する昔ながらの手法で、在宅介護労働者7万4000人を一気に組合に入れた。その実績をひっさげて、米北西部の中心都市シアトルにやってきた。サービス従業員国際労働組合(SEIU)の現地トップに就いて、低賃金労働者のストライキやデモを支援。「最低賃金15ドル」を2013年市長選の争点にした。
なぜ15ドルなのか。ロルフは「働き手を鼓舞できる数字なのだ」と言う。大胆な上げ幅だからこそ、メッセージがはっきりして世論の支持を得たとみる。賛成派の市長が当選し、ロルフは市が設けた委員会の共同議長に。経営側も流れに抗しきれなくなった。シアトルがあるワシントン州のレストラン協会は以前、州のわずかな最低賃金引き上げにも反対した。しかし、最高経営責任者のアンソニー・アントンは「私たちは現実的になった」と話す。交渉のテーブルについた経営側は、時間的な猶予を求めた。
14年、全米に先駆けて「時給15ドル」の最低賃金が条例に。大企業だと3年で15ドルに達する一方、中小企業は7年かけて少しずつ引き上げる。連邦レベルの最低賃金は、日本(全国平均で時給798円)とほぼ同じ時給7.25ドル(約800円)。シアトルの雇い主は、その2倍以上の給料を払わなければならなくなる。
製造業の没落とやせ細る中間層
時給15ドルを求める動きは、12年にニューヨークでファストフードの従業員がストライキを起こしたのが始まりだった。ストやデモが全米に広がり、シアトルに続いてニューヨークとカリフォルニア両州がこの春、最低賃金を時給15ドルに段階的に引き上げると決めた。職種限定も含めると3州と24都市で15ドルへのアップが決まり、これだけで計1000万人規模の賃金が上がるとの試算もある。
日本ではこの20年近く平均賃金が下がり続けている。最低賃金の上げ幅は毎年十数円が精いっぱいで、政府が目標に掲げる「時給1000円」は遠い。一方で、米国の平均賃金は上がり続け、画面下に紹介したランキングでも世界2位につけている。しかし、牽引役はハイテクや金融業界に勤める人たちで、働き手の中では少数派だ。全労働者の42%は、時給15ドル未満という調査もある。
「真ん中」を支えてきた働き手がやせ細る米国。背景には、製造業の没落がある。自動車最大手ゼネラル・モーターズ(GM)発祥の地、ミシガン州フリント。40年前に約8万あったGM関連の職は、業績不振などで約1万まで減った。全米自動車労組(UAW)の現地トップ、ジェラルド・カリエムは「自動車工場なら時給29ドルになるが、増えるのはサービス業の低賃金層ばかりだ」と話す。住民の4割は貧困ラインを下回る年収しか得ていない。
大統領選で吹く共和党トランプ・民主党サンダース旋風は、沈みゆく中間層の不満の表れなのだと、シアトルのロルフは言う。「賃金が上がらず苦しんでいる間に、高層ビルが建ち、株価は上がった。その怒りに突き動かされている」
最低賃金引き上げに副作用?
景気回復で失業率が下がった今、オバマ政権が気をもむのは賃金だ。ホワイトハウスを間近に望む執務室に経済政策の司令塔、大統領経済諮問委員会委員長のジェイソン・ファーマンを訪ねた。毎月の雇用統計の発表前日、彼は大統領執務室でオバマにレクチャーしている。「大統領はいつも、賃金はなぜもっと早く上がらないのか、我々に何ができるのか、と問う。これは彼が経済について何年も持ち続けてきた疑問です」。政権は連邦の最低賃金を時給10.1ドルに上げる法案の成立を議会に求めた。ただ、共和党の反対で通りそうにない。
慎重派は、最低賃金を引き上げれば雇用そのものが減ったり、物価が上がったりするという「副作用」を強調する。Part2でインタビューを載せた経済学者タイラー・コーエンも「引き上げは得策ではない」という立場だ。
ただ、実際に「時給15ドル」を決めたのは近郊にアマゾンやマイクロソフトといった世界企業を抱えるシアトルをはじめ、米国でも裕福な地域だ。少しずつ引き上げるなど、悪影響を和らげる工夫も凝らしている。シアトルではすでに最低賃金を上げ始めたが、地元の大学の調査で目立った副作用は出ていない。
「影響が出るのはこれから」との見方もある。シアトルにあるワシントン政策センターの副会長、ポール・グッピーは「15ドルになって困るのは、初めて職を得る機会を奪われる若者と、民族的な少数派ら弱者たちだろう」と話す。
ほかの州や都市の最低賃金も、17~23年に15ドルに達する。平均賃金で世界の先頭を走る米国で広がる「社会実験」。長く縮み続けた中間層を再び取り戻すきっかけにできるのか。大胆ではあるが、したたかさもうかがえる試みの成否に、賃金が長く停滞を続ける日本はもっと注目してもいい。
「幸福で債務は返せない」
経済学者タイラー・コーエンに聞く
世界を大きく変えているのは情報技術(IT)です。ITのスキルのある専門家や、彼らを指揮できるマネジャーは、世界を相手に稼ぐことができます。ただ、こうした高収入が期待できる層は全労働者の15%ほどでしょう。
もし、あなたが普通の働き手、つまり残りの85%だと、将来は明るくありません。賢いソフトや、新興国の低賃金の働き手と競争しなければなりません。平均的な人の賃金は増えません。
2011年に起きた「ウォール街を占拠せよ」運動では、大企業経営者や金融機関幹部の超高額報酬が批判され、「1%対99%」に焦点が当たりましたが、それは問題の一部です。これからは稼ぎの多い上位15%と、貧しくなっていく「その他」の分断こそが切実な問題です。
中間層は消えていきます。日本も欧州も米国に比べれば格差は小さいですが、ITとグローバル化が人々の賃金に及ぼすストーリーは米国と同じです。日本はITで成功している企業が少ないだけ、賃金の面では米国よりも不利です。
私は法律で最低賃金を上げても、中間層は取り戻せないと思います。雇い主は雇う人の数を減らしたり、少ない時間で成果を出すよう迫ったりするでしょう。労働条件がよくなるとは思えません。
私は賃金については悲観していますが、人々の幸福については楽観的です。特に日本がそうです。犯罪が少なく、食事が安く健康的でおいしいなど、生活の質が高い。賃金が減ることは、必ずしも不幸になるということではありません。
ただ、やっかいなのは、幸福では債務を返せないということです。国が年金や医療制度を維持し、債務を返済するには、やはり円やドルが必要なのです。特に巨額の債務を背負う日本は、困難を伴うでしょう。結局はインフレか大増税なのかもしれませんが、魔法の杖はありません。生産性を上げるしかないのです。
Tyler Cowen 1962年生まれ。米ジョージ・メイソン大教授。著書に『大停滞』『大格差』『エコノミストの昼ごはん』など。
アジアで稼ごう
ソウルから南に特急列車で約30分の水原(スウォン)は、世界遺産にも登録された城郭が残る街だ。韓国の電機最大手、サムスン電子の本社がある企業城下町でもある。
東京ドーム37個分の広さがある研究開発団地で働く青木雄一(42)は、次世代携帯電話の研究にたずさわる。2011年までNECに勤めていたが、古巣の職場が事業部門ごと別会社になったことをきっかけに転職した。NECの平均年収は700万円ほどだったが、サムスンはそれを超える年収額を提示してきた。「世界一の電機会社で働きたい」という気持ちもあった。
青木の職場にはインド人が多く、中国、ロシア、日本、ベトナム、シリアなど世界から人材が集まってきている。会社の補助が出て職場近くのマンションに格安で住める。研究所の食堂の利用はタダだ。業績のいい部署は、年収の50%の臨時ボーナスも出る。「なにより高額な機器やソフトウェアが使えて研究の環境がいい」と話す。
ネット上では、サムスンの年収について、平均1億200万ウォン(約940万円)と推測する数字が飛び交っている。研究所内では、社の規則でお互いの給料は秘密になっているというが、青木は、「そんなものなんでしょうね。ただ、退職金や年金のことも考えれば、日本と韓国のどちらで働くのが得かはいちがいに言えませんが」と話す。
円安もあって、韓国では平均的な職種の給料もいまや日本に迫る。名古屋市で居酒屋チェーンのネットサイトなどをつくっていたウェブデザイナーの加藤仁士(31)は13年、交際を始めた韓国人女性の帰国に伴い、ソウルに来た。服飾を扱う日本向けショッピングサイトの製作者として韓国企業に就職。月給は手取りで170万ウォン(約16万円)だった。「給料のことは考えずに韓国に来たのですが、同じ仕事で金額は日本と大きくは変わりませんでしたね」。名古屋時代の月給は18万~21万円だったという。
東南アジアで豊かに暮らす
ただ、物価も日本と差がなくなってきたと感じている。「外で昼飯を食べると800~900円はする。日本の方が外食チェーンが充実していて、安上がりかもしれません」
一方で、韓国では若者の就職難が深刻だ。14年の大卒者の就職率は54.8%にとどまる。そこで、韓国政府は職にあぶれた若者たちが日本を含めた海外で職に就けるよう後押ししている。
入社までの研修費用は韓国政府が持ち、本人には支度金約20万~40万円が、雇用企業には約20万~30万円が支給される制度が13年にできた。日本向けの枠は昨年まで200人で、今年から500人に増やした。事業の一部を支援するパソナ・コリアの担当者キム・テヒョンは「韓国で高賃金を得られなかった層が日本に流れ込み、日本人と競合する構図です」と話す。
かつては、「海外で暮らしたい」という憧れにも似た気持ちで日本を出る人もいた。だが最近では、東南アジア諸国の賃金水準が上がってきて、「それなりの給料をもらって、より豊かに暮らす」というスタイルが若者を惹き付けているようだ。
タイのバンコクで働く榎本浩一(35)は、日本の人材紹介会社の営業などを経て、13年にタイへ。「市場として成長している国で働きたかった」と話す。バンコクで就職した日系企業での年収は300万円前後。日本時代より減った。だが、取材で訪ねた彼の自宅は、プールとジムがあり、ロビーにコンシェルジュがいるコンドミニアム。家賃は約11万円の2LDKで、「十分貯金もできる」という。
日本貿易振興機構(ジェトロ)がまとめた14年度のアジア各都市の賃金比較がある。OECDの統計で平均年収が日本を超えたとされる韓国のソウルでは、中間管理職(課長クラス)の月給が3439ドルだ。これが、香港では3832ドル、シンガポールで4362ドルに達している。
世界の給料ガラガラポン
日本の賃金は、減り続けている。
OECDの統計によると、フルタイムで働く人の平均賃金は1997年の459万円をピークに下がり続け、2014年には400万円を割り込んだ。主要国で、これだけ長く賃金が上がらないのは珍しい。
他国の例も見てみよう。厳密な比較は難しいが、同じOECDが、各国の通貨の購買力をもとに計算した統計を出している(下のグラフ。単位は2014年時点の米ドル)。それによると、日本のフルタイム労働者の賃金水準は00年以降、ほぼ横ばいだ。一方、韓国は上昇を続けて07年に日本に並び、今や上回る。
経済の停滞とデフレが続いた日本は、国内総生産(GDP)が伸び悩んできた。ただ、GDPや企業の利益は平均賃金のように減ってはいない。生産性が上がっても、その分け前が働き手に分配されにくくなっているのだ。
日本総合研究所調査部長の山田久は「市場の力も、組合の力も、どちらも中途半端になっている」と指摘する。
転職市場が発達した米国なら、賃金カットすれば働き手が逃げていくので賃金は下がりにくい。市場の力で、伸びる産業や賃金が高い産業に、人が移る。
欧州では、産業別に労使が職種ごとの賃金を決めて労働組合が賃金を守る。
日本は職を失うと再就職が難しい。組合も企業別で弱い。そのため賃金よりも、雇用が優先される。その結果、「失業率は上がりにくいけれど、賃金は下がりやすい」ことになったというわけだ。
平均賃金が上がり続けている米国でも、高所得層が全体を大きく押し上げ、普通の働き手には果実が回っていない(02面)。一方で、中国やインドなどの新興国は、賃金労働者が次々に生まれている(05面)。国際労働機関(ILO)によると、13年に世界全体で賃金は2%増えたが、その半分は中国一国の賃金上昇によるものだった。
米ニューヨーク市立大学の経済学者、ブランコ・ミラノビッチは、ベルリンの壁崩壊からの20年間で、世界の人々の所得がどれだけ増えたかを調べた。すると、「超リッチ層」(世界の所得上位1%)と、「新興国の中間層」(上位30~60%)はともに所得が6割以上増えていた。
これに対し、先進国の中間層にあたる人々(上位10~20%)の所得は1割以下しか増えていなかった。
ミラノビッチは「産業革命以来となる、賃金のガラガラポンが起きている」と語る。中間層がやせ細っているのは先進国に共通の現象だが、賃金が下がり続ける日本に、打つ手はあるのか。悩みもがく国々を回り、考えた。
(江渕崇、小山謙太郎)