砂漠に医者を集めるドバイ
年間7800万人と、世界一の国際線旅客数を誇るドバイ国際空港から車で15分。かつては砂煙舞う土漠だった広大な敷地で、医療特区「ヘルスケアシティー」の開発が進む。特区内には約160の病院や診療所が並び、59カ国から集まった1000人以上の医者が働く。
その一人が、独ハノーバー医科大学非常勤教授のオーストリア人、ウベ・クリマ(52)だ。患者への負担を最小限に抑えた心臓手術を得意とし、経歴には数々の受賞歴が並ぶ。富裕層向け診療所BRメディカルスイーツに約40人いる「看板医師」の一人だ。
クリマがドバイ行きを決めたのは7年前。大学からの派遣で働いていたシンガポールの病院に突然、「ドバイで人生を変えませんか」と電話がかかってきた。「大学では馬車馬のように働いてもサボっても、給料は変わらない」。そんな硬直的な環境に嫌気がさしていたこともあり、2年のつもりで家族と移り住んだ。
現在の報酬は、手術代を病院と分け合う完全成果主義で、40~70%が手に入る。手取りはドイツ時代の2~3倍に増えた。「ドバイに家も買った。もう戻るつもりはない」
名医の一本釣りと医療ツーリズム
日本では今のところ、言葉の壁もあり、「カネ」や「やりがい」を理由に海外流出する医者は目立たない。だがグローバル化が進む中、国際的には「より稼げる国」への移動が活発化している。患者が国境を越えて治療を受ける「医療ツーリズム」も広がりを見せる。
この動きに目をつけたドバイ政府は、金融や貿易、観光に続き、「医療」を次なる成長の柱にしようとしている。美容整形を中心にサウジアラビアなどの周辺国やインド、ロシアなどから患者を集め、2012年の約11万人から20年までに50万人に増やす計画だ。特区内では外国資本だけで医療施設を開くことができ、ドバイの医師免許もとりやすい。
この診療所を含め、21の医療施設を傘下に持つ医療グループ「NMCヘルスケア」は、実績ある医者を「一本釣り」するスカウトを十数人抱える。国際ビジネス開発部長ラジャン・バララマン(40)は「専門分野で名が知られていて、定年間近だったり、収入に不満を抱いたりしていそうな欧米の医者を探し出している」と明かす。特区で働く医者の出身地のトップ3は米、英、独が占める。
医療グループ「メディクリニック」で働くマジン・アルジェビーリ(51)は、英国人の消化器内科の専門医だ。長年働いた英国の国民保健サービス(NHS)に見切りをつけ、5年前にやってきた。
相次ぐ転職相談
英国時代、病院内に炎症性腸疾患の専門班を作ろうとしたが、予算と場所を確保できずに頓挫した。内視鏡でがんを取り除く技術を学ぼうと、日本での研修を希望したが、これも認められなかった。「公費で医療を賄う思想は素晴らしいが、制約がひどすぎる」
現在は、内視鏡手術の研究拠点を立ち上げる準備を進めている。予算の心配とは無縁だ。「機材はすべて最新のオリンパス製でそろえた。価格?知らない。欲しいと言ったら手配してくれた」
収入は固定給と成果報酬で、多いときで月14万ディルハム(約390万円)にのぼる。額面は英国時代の3倍になったうえ、ドバイには所得税がない。うらやむNHSの元同僚らからは、転職の相談が相次ぐ。「履歴書がどんどん送られてくる。先月は6人、その前月も4人と面接した。NHSからみんな逃げだそうとしているようだ」
だが、すべての医者が彼らのように成功するわけではない。患者が集まらず、数年で帰国する医者もいる。収入につながるため、簡単に手術をしてしまう傾向もあると、現地の医者は指摘する。
それでもヘルスケアシティーの拡大は続き、ドバイには数年以内に22の病院が新設される予定だ。最高経営責任者(CEO)のベダー・ハレブ(38)は「ベストの中のベストの医者を、世界中から集めたい」と自信を見せる。
医者が逃げ出すルーマニア
時給1レウ(25円)――。ルーマニアのブカレスト国立大学付属救急病院の胸部外科医、アンドレイ・ドブレア(31)が、時間外労働で受け取る賃金だ。「手術をしてもしなくても、時給は同じ。ペットボトルの水さえ買えない額さ。冗談としか思えないよ」。正規の労働時間は週40時間だが、忙しい週は残業時間も同じくらいになる。これだけ働いても、月収は会社員の平均給料程度に過ぎない。
ドブレアは2010年から1年間、英国で働いた。月収はルーマニア時代の10倍程度の3000~4000ポンド(約41~55万円)だった。専門医の資格を取るために帰国したが、再び国外に出ることを考えている。「医者不足で困っている母国を出るのは罪悪感があるけど、自分の技術に見合った報酬が欲しい。とても難しい選択だ」
ルーマニアで、医者の国外流出が止まらない。1990年には5万9000人の医者がいたが、2014年末までに2万2000人がいなくなった。英国やフランス、ドイツなどが主な行き先で、20~30代の若い医者が目立つ。
ルーマニア医科大学前学長のバジル・アスタラストアイエ(66)は「病院には定数の半分の医者しかいない。このまま流出が続けば、医療は崩壊する」と危惧する。
EU加盟後に医者流出激化
医者流出が激化したのは、07年のEU加盟以降だ。EU圏内で自由に働けるようになり、より高い収入が得られる国への移住が本格化した。04年にEUに加盟したポーランドでも、同じ問題が起きた。収入の低い中・東欧の若手医師がより収入の高い西欧諸国に移り、西欧諸国のベテラン医師は更なる富を求めてドバイや米国など、より稼げる国へ――という構図が浮かび上がる。
医者不足と収入の低さは、患者が「贈り物」の名目で、賄賂を渡す悪習にもつながった。13年のEU世論調査では、ルーマニア人の28%が「医者に賄賂を渡した経験がある」と答えた。医者の収賄は禁錮刑だが、首相のビクトル・ポンタ(当時)は昨年、あぜんとするような提案をした。「賄賂を合法化し、所得税を徴収する。医者を収賄容疑で捜査するよりその方が合理的だ」。提案はさすがに否決されたが、問題の深刻さを浮き彫りにした。
一方で政府は、医者の給与を3年連続で25%ずつ引き上げることも約束した。実現すれば、医者の給与は倍増する。ただ、昨年は公約が守られたが、今年は財源不足を理由に見送られた。
例え給料が2倍になっても、EU先進諸国の水準には遠く及ばない。専門医の労働組合長フロリン・キルクレスクは「医者はお金だけで動くわけじゃない。ほとんどの国では、医者の給与はトップクラス。金額よりも、医者としてのプライドの問題なんだ」と話す。
カネよりも
実際、ポーランドでは医者の収入を倍増したところ、国外流出のペースは劇的に下がった。「国外に出た医者も、本音では自国の患者を診たがっている。ある程度の収入が保証されれば戻ってくる」
しかし、ルーマニアが抱える問題は、医者の待遇だけではない。医科大学前学長のアスタラストアイエは「医療機器の不備や病院の非衛生さなど、あらゆる領域に及ぶ」と話す。GDPに占める医療費支出の割合はフランスやドイツが10%を超える中、ルーマニアは5.5%とEUの中で最低だ。
研修医のバレンティン・ディノ(28)によると、同期の3分の1は既に海外で働くという。彼らが国外に出た理由はいずれも、カネよりも「ルーマニアでは最先端の医療技術を身につけらない」という焦りからだった。ディノも「数年間は海外で経験を積みたい」と話す。
国力に限界のあるルーマニアがいくら医療費を増やしても、最先端の医療を導入するのは難しい。ならば、より専門的な知識や技術を求め、海外に出る動きを食い止める術はないのではないか。
キルクレスクに疑問をぶつけると、「君の考えは正しい」という答えが返ってきた。「だが今は、少しでも多くの医者を引き留めるために、最善を尽くすしかない。目の前に、医者を求める多くの患者がいるのだから」
現代のブラックジャックとは
手塚治虫の代表作「ブラック・ジャック」は、医者という仕事の本質を見事にえぐり取っている。
ブラック・ジャックは無免許の凄腕外科医で、患者に法外な治療費を請求する。「命と健康、体にはカネを惜しまない」という人は多く、優れた医者は公的医療の枠から離れれば、巨額の富をつかめる可能性があることを示している。
一方で彼は、懸命に生きようとする人や愛する者の命を救おうとする人に、時に無償で手術を請け負う。「医者の最大のやりがいはカネではなく、患者を救うことそれ自体にある」という真実を体現する存在でもある。
多くの国々で、医療サービスを市場経済に任せず公的に管理することで、医者に支払うカネを抑えてきた。医者側がそうした規制を受け入れたのは、ある程度の収入が保証されていたからだ。「誰もが平等に質の高い医療を受けられる」という公的医療の目標が、自身のやりがいや倫理観と一致していた点も大きい。
だが、「医者とカネ」を巡る微妙なバランスは崩れつつある。グローバル化の影響は医者にも及び、海外でより高収入を得られる道が開けた。先端医療の価格は上がり続けており、公的医療ではカバーしきれなくなりつつある。
最先端の医療を実践できず、「誰もが平等に」という理念も実現できないとなれば、自国の公的医療に尽くす理由は乏しくなる。
一方で、超高齢化・多死社会を迎えた先進国では、「高度な治療よりも高齢者の生活を地道に支える医者が欲しい」という新たなニーズが生まれている。
医療を巡る環境が激変する中、医者とカネの関係はどう変わるのか、これからの医者に求められる能力や資質とは何かを考えていきたい。