イスラム教国パキスタンの最大都市カラチに「女子サッカーの母」と慕われている人物がいる。2003年に同国初の女子サッカークラブ「ディヤ」を設立し、教え子の社会進出を支援するサディア・シェイフ(45)だ。
7月の土曜の朝、「ディヤ」が練習するグラウンドにサディアを訪ねた。12歳から24歳までの12人が、身軽なスポーツウェアに着替えてピッチを駆ける。クラブ員を「家族」と呼ぶサディアは「人種、宗教、貧富の違いを問わないサッカーグラウンドで、彼女たちはハートを鍛えている。私は自立を願う娘たちの味方になりたい」と話した。クラブ名の「ディヤ」はウルドゥー語で「灯火(ともしび)」。「パキスタンの女性に灯りを」との思いを込めた。
この国で女性を取り巻く環境は厳しい。「パルダ」と呼ばれる女性隔離の制度が根強く残り、10代で親が決めた男性と結婚して家庭に入るのを当然とする風潮がある。公立学校は男女別学が原則で、女子の初等教育の就学率はいまなお66%にとどまる。女子への教育の必要性を訴え、過激派に銃撃されたノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイの事件は記憶に新しい。
父親の仕事の関係で10代をドバイで過ごし、「サッカーの美しさに恋をした」と語るサディアも、父親の無理解に苦しんだ。「男尊女卑そのもの。父のような男性への反発から女子サッカークラブをつくったようなもの」と振り返る。
クラブの運営は容易ではない。女性が運動できる施設の確保が難しい。メンバーのほとんどはユニホームや道具をそろえることができない貧困層だ。娘が屋外で運動することを嫌う親も多い。サディアは本業の体育教師に加え、家庭教師や体育指導者の副業で得たお金で道具代や遠征費用を捻出し、教え子の家庭を訪ねて親と話し合う。
働きながら大学に通うルクサール・ラシード(24)は「サディアが『娘の安全は私が保証する』と両親を説得してくれた。私もいずれサディアのような指導者になりたい」と言う。教え子の多くが学校や公的機関に職を得て巣立っていく。その数は2000人を超えた。
「スポーツのおかげで今の私がある」
スポーツを通じて社会の課題を解決する施策は開発支援の新たな手法として注目される。直接投資やインフラ建設などと比べ効果が見えにくく、実効性を疑う声もあるが、リーダーの育成や女性の地位向上で一定の成果も生み、アジアやアフリカで実践例が増えている。
「スポーツのおかげで今の私がある」と語るのは、10年にパキスタンが初めて女子サッカー代表を編成したときの主将、サナ・マフムード(27)だ。
大学1年だった07年、首都イスラマバードと近郊のラワルピンディを拠点に結成された女子サッカークラブ「ヤング・ライジング・スターズ」でサッカーと出会う。男女共学の私学で、男子に交じりあらゆるスポーツに挑戦していたサナは「ひと夏の思い出で終わるはずのサッカーが私の人生を変えた。多様な人々に会い、視野が広がり、自分の殻を破ることができた」と言う。
代表チームの初めての強化合宿には、「女子がスポーツを理由に1カ月も休学する先例はつくれない」と猛反対する学部長を振り切って参加した。多民族・多言語の国のあらゆる地域や階層から集まったチームメートとの友情を通じ、自分の国についてより深く知った。
サナはその後、奨学金を得て米国に留学。国際開発学の修士号を取得し、現在は国際NGOで働くかたわら、現役選手として活躍する。自分が後に続く女性たちのロールモデルになれればと、各地の学校で講演活動にも励む。
いま思い描くのは、女性が日常的にスポーツに親しむ社会の到来だ。「女性は運動なんかしなくていいという風潮をなくしたい。スポーツは健康に良いだけでなく、自尊心を育てるものだから」
1980年代に当時の軍事政権が進めたイスラム化政策でパキスタンのスポーツ振興は大幅に後退し、今も政府の支援は乏しい。それでも女子サッカーは、関係者の努力で、予選を勝ち抜いた16チームが全国選手権を争うまでになった。
野球を通じて人を育てる
世界最貧国の一つに数えられる西アフリカの内陸国ブルキナファソ。世界銀行によると、一人当たりの国民総所得(GNI)は690ドル(2014年)で、人口の4割が一日1.9ドルの貧困ラインを下回る生活を送る。
そのブルキナファソから2人のプロ野球選手が生まれた。日本の独立リーグ球団、高知ファイティングドッグスのサンホ・ラシィナ(18)と新潟アルビレックスのザブレ・ジニオ(20)だ。
2人に野球を教えたのは、ブルキナファソ野球連盟の要請を受けて、JICA(国際協力機構)が08年に派遣した青年海外協力隊員だ。JICAはスポーツが途上国の開発支援に役立つと考え、1965年以降、88カ国に延べ3671人、約30種目のスポーツ隊員を派遣してきた。独立リーグとはいえプロ選手の誕生は、そうした支援が実を結んだ形だ。
しかし、支援の内実は単純ではない。野球はボール一つでプレーできるサッカーに比べ道具にお金がかかるし、アフリカではプロ選手になるという将来の道筋が描きにくい。札幌大を卒業後、ブルキナファソの初代「野球隊員」となった出合祐太(33)は「子どもが野球にかまけて働かない。その分の金を払ってくれるのか」と親に怒鳴り込まれたという。
そもそも最貧国で野球を教えることが国際協力になるのだろうか? 野球の普及が思うように進まず、出合自身にも迷いがあった。
2020年東京五輪を目指せ
そんな出合の目を覚ましたのは、自分を慕って野球を続ける首都ワガドゥグの子どもたちだった。「この国で野球を極めようとすることはとても難しい」と伝えたとき、教え子たちは「どうしたら環境を変えられるのか。道具が足りないなら、作り方を教えてほしい」と尋ねてきた。そのまっすぐな問いに「最初からあきらめているのが問題なのだと気がついた」と出合は言う。当時10歳のラシィナは「知らないことを教えてくれるのがうれしかった。もっと野球を知りたかった」と振り返る。
いま出合は「野球を通じた支援とは、自分で環境を変えられる人材を育てることだ」と考えている。「できないと思っていたことができるようになるのがスポーツならではの経験だから」
2年間の派遣期間中に、出合は「ブルキナファソ野球を応援する会」をつくり、野球道具を現地に送るほか、有望選手を日本に招待するなどの支援を続けている。「まいた種が花咲くところまで見届けないと国際協力を果たしたことにならない」と思うからだ。今年はクラウドファンディングで約390万円を集め、ガーナの選手2人を含む12人を約1カ月招待した。
出合と選手たちが目指すのは、野球競技の復活が決まった2020年東京五輪への出場だ。
国技というソフトーパワー
ソウル市の中心部、大統領府にほど近いビルに「世界テコンドー連盟」の本部はある。
廊下には世界の要人たちの写真が並ぶ。2009年に韓国を訪れた際に名誉黒帯を受けた米大統領オバマが、前大統領の李明博と並んで拳を突き出している。道着姿でほほ笑む国連事務総長、潘基文の写真もあった。
連盟事務局長の楊鎮芳(58)の名刺には「教授」とあった。「前はテコンドー学科で教えていたんです」。韓国では30余りの大学にテコンドー学科がある。立派な学問なのだ。
テコンドーは世界でも存在感を増している。連盟の支部がある国や地域は206。楊によると、競技人口は1億だ。
韓国で伝統武道といわれるテコンドーだが、名前が決まったのは1955年。およそ半世紀で、どうやってここまで広がったのか?
72年、中央道場としての役割を持つ国技院ができた。73年に連盟ができ、その後、88年のソウル五輪で公開競技にする活動が始まる。それを成し遂げると、00年のシドニー五輪から正式種目となった。
韓国政府はテコンドー振興法をもとに、今も国技院を通して師範を海外に送っている。14年には、「韓国を越え、世界の人たちの肉体的、精神的な成長の原動力となる」ことをうたい、国立テコンドー院をつくった。面積は東京ドーム約50個分にあたる。ここ数年のテコンドーに関する予算は年100億ウォン(約9億円)前後だ。
日本の柔道に学ぶ
ただ、韓国政府や研究者は、テコンドーの世界化の原動力は連盟であり、その「中央集権化」が大きな役割を果たしたとみる。連盟事務局長の楊は、日本の柔道の動きをよく見ていたと語る。「柔道がスポーツとして世界に広がるにつれ、日本だけのものではなくなった。国際柔道連盟での日本の力も衰え、トップを出せなくなった。そこから学んだ」。指導者になるには実質的に韓国で審査を受ける必要があるのも、影響力を保つことにつながっている。
ソウルから車で南に1時間弱の安山市。中小零細企業の工場が多く、人口約76万の1割を外国人労働者が占める。
6月の平日夜、仕事を終えた外国人労働者たちが、市の中心にある外国人住民センターに集まった。道着に着替え、「ハナ、トゥル、セッ」(いち、に、さん)と、準備体操を始める。
テコンドーを通して韓国をもっと知ってもらい、外国人同士の交流も増やそう。そんな目的で08年から、この教室は始まった。師範は金教煥(57)ら3人がボランティアで務める。
いま教室に登録している外国人は120人ほど。これまでに1160人がここで学んだ。自分の国に帰って道場を開く人も増えている。インドネシアやフィリピン、中国などに15の道場ができた。
師範の金は「母国で仕事になると思えば、やる気も変わる。将来は100の道場ができればいいと思っています」。小さな地方都市にあるこの教室の名前は「世界テコンドー・アカデミー」だ。
インドネシア人のユリ・アシャリ・プトゥラ(27)は、韓国で働くのは2回目。前回は出稼ぎが目的だった。今回も公的な入国許可の理由は労働だが、実は本当の目的がある。
「テコンドーの4段を取ること。故郷のスラバヤで道場を開きたい」。たどたどしい韓国語で、こう話してくれた。