【吉田都】「こんな私でごめんなさい」の思い、いまもどこかに

どうして、私だけこんなにサエないんだろう。
20代の吉田都は、英国のバレエスタジオの鏡の前でため息をついた。
バレエは、椅子に座り獣肉を食す西欧の宮廷文化が生んだ身体芸術だ。鏡の中では誰もが、踊るために生まれてきたと言わんばかりの肉体を誇示していた。それに比べ、ここにいるのは顔も体も、どうしようもなく日本人。ああ、いやんなるなあ。
「仮に、脚を1本外して、眺めたとしましょう」と、今年44歳になる「バレエ界の至宝」吉田は説明してくれた。「向こうのトップダンサーの脚ならどこから見てもまっすぐ。私の脚は、あっちから見てもこっちから見ても曲がっているんです」
だけど……できることをやるしかない。若い吉田は鏡の自分にそう言い聞かせて稽古を始める。筋肉が熱を帯びる。もっと鋭く、もっと軽やかに。踊れば嫌なことも忘れられた。バレエはいつも味方だった。
劣等感にまみれた日本娘は、どんなきっかけで「やれる」と思えるようになったのか。「いえ、自信なんて今もありません。がけっぷちを必死で走り続けているだけ」
誤解のないよう申し添えておきたい。その才気は若いころから輝いていた。バレエ学校時代の吉田の稽古を見た英ロイヤルバレエ団創設者が「こんなに詩情を感じさせるフェッテ(脚を振り出す旋回)は見たことがない」と驚いたほどに。
つまり「自信がない」はいかにも吉田らしいつつましさ、恥じらいの表現なのだ。そして、どんな絶品にも「つまらないものですが」「お粗末さま」と添える、日本の伝統的「もてなし」にも通じる。その、少々クラシックな日本的美徳の味わいが、彼女のバレエのたおやかさを下支えしてきた。
吉田は、東京郊外の、バレエとは縁の薄い家に生まれた。父は税務署に勤め、母は専業主婦。2歳違いの姉が1人。公務員の父は定刻に帰宅し、みんなそろって夕食を取る、そんな家庭だった。
小学校時代は人見知りで引っ込み思案。外遊びのほうが性に合った。広い所に出ると駆け回り、高い所があるとよじ登った。「背よりも高い郵便ポストを、跳び箱のように跳び越えてました」
バレエを本格的に始めたのは、9 歳だから、早いほうではない。「リトミック(音楽教育法のひとつ)を習っていたのですが、トウシューズへのあこがれが捨て切れなくて」
学年が進むと、レッスンは急激に厳しくなった。けれど、そこからが吉田の時代だった。難しいステップであればあるほど意欲がわいた。休めと言われるとムッとした。
日本人論の古典とされる「菊と刀」の中で著者ルース・ベネディクトは、日本人の自己訓練=修養は米国人のような「自己犠牲」と「抑圧」を伴わない、と意外の感を込めて書いている。吉田はバレエを「修養の道」と定め、突き進んだ。理想は天空から見えない糸で釣られるイメージ。泰西名画の天使のように。
舞踊評論家で東京女子大教授の佐々木涼子はいう。「10代のころから技術は群を抜いていた。ただ、表情がぶっきらぼうで、もう少し愛想というか、取り繕うものがあってもいいのにと思っていました」
バレエだけを食い入るように見つめていた少女。だが、運命に流されるように、英国でのプロ生活を続ける中で、見られることをいやおうなく意識していく。
英ロイヤルバレエ団は、表現に自立と個性を求める。「ミヤコの表現したいものは何なの」
自分はどんな人間なんだろう。私だけの表現って何。悩むうちにも公演はやってくる。日本人であることから逃げられないなら、今の自分の精いっぱいを観客に見てもらおう。それが吉田の選んだ答えだった。
「こんな私でごめんなさい、とずっと心のどこかで思いながら、舞台に出ていました」
観客の前に立つ本番の舞台は、吉田を別世界へ解き放ってくれた。
練達の極みにいながら「こんな私で」の謙遜と含羞を秘めて踊る吉田のスタイルは、「私を見て」という自己主張の強い西欧のダンサーたちの中に入ると、かえって目立った。小さなバレリーナは観客たちの視線を吸い寄せていった。注目は驚きに、驚きは称賛に変わり、やがて喝采に包まれるようになった。
「バレエは舞台の上だけで成立するものじゃない、お客様の『気』をいただいて、一緒に作っていくものだということが、少しずつ分かってきたんです」
求道的で精密な吉田のバレエは、「他者からの視線」を受け止めることで「もてなし」の膨らみと深さを加えていった。
その、温かく柔らかい広がりは、友人、仲間にまで及んだ。
名パートナーの1人、イレク・ムハメドフはこう表現している。「ミヤコと踊ること、それは雲ひとつない青空の下で踊るのに似ています。一緒に踊る者をエネルギーに満ちあふれさせ、心地よさと自由を感じさせます」(文芸春秋刊「MIYAKO」から)
吉田は、日本人であることの限界を自分で引き受け、芸術的な味わいに変えただけでなく、スターバレリーナには不可欠な個性に高めた。
公演の後、同胞から「日本人であることを誇りに思う」と賛辞を浴びたことも一再ではない。
ロンドンで証券会社に勤めていた國澤秀夫(48)は、91年、初めてみたバレエが、たまたま、吉田主演の「白鳥の湖」だった。以来、吉田のバレエの虜となり、日本に戻ってからも、彼女の踊りを見るべく英国へと飛んだ。「若い日本人の女の子が、英国人を熱狂させている。感激したし、自分もがんばらないと、と勇気づけられました」
佐々木教授は「吉田さんの踊りは、無我の境地。能のような高度な精神性を感じさせ、それでいて静かな明るさがある」と評する。
けれど、当の吉田は、いまも「こんな私でごめんなさい」を心のどこかに残しつつ、踊っている。
「私の脚も、一方向だけまっすぐに見える角度がある。お客様には、いつもそちらから見ていただけるように、気をつけています」
自分にどんな「力」が備わっているのか。何が強みなのか。編集部が用意した10種類の力から「独断」で選び、順位をつけてもらった。
「大きな決断をして動いた記憶はないんです。ローザンヌのコンクールの時も先生に『受けてみたら』と言われて、今年は私の番なのか、と」
国際コンクールで賞を獲得して、英国留学が決まったが、半年は英語に悩まされたという。「当時、アジア人は私1人。重要な連絡や変更を聞き漏らさないよう、常に緊張していました。稽古が癒やしでした」
1年の留学期間が終わったら、日本へ帰るものだと思っていたら、ある日、校長室へ呼ばれ、英国のバレエ団からの入団要請が来たと告げられた。これは、運のよさも後押しした。「オーディションがあったらしいのですが、まだ言葉がよく分からない時期で、気づかなかったんですよ。申し出には正直、戸惑いましたが、入団が決まった学生たちは泣いて喜んでいましたし、日本の先生や親の勧めもあって」
集中力は、スタジオでの稽古の段階から全開にしてきた。「『どれくらいやれるのか、見せてもらう』という目が常にありますから」