その学生は、世間話には興味がなかった。
「先生は『金正日将軍の歌』を聞いたことがありますか?」。彼は尋ねてきた。「あります」。私は慎重に答えた。「どう思いますか」と、また聞かれて、私は固まってしまった。
馬鹿正直に答えては話にならない。彼は北朝鮮の平壌科学技術大の学生だし、私は彼の教師だ。学生も教師も囲われた敷地に隔離され、授業から活動から?時間監視されているのだから。
「私たちアメリカ人には国歌があるの」。私は答えた。「その歌は、あなた方にとっての国歌のようなものだと思うから、敬意を持ってるわ」
他の学生たち2人は硬い表情で黙り込んでいる。1人がたまらずサッカーの話題を持ち出したが、彼は続けた。「国会って、どういうものですか」
「どの国会?」。私はうろたえた。「アメリカ合衆国議会のこと?」「どこでもいいんです。先生はアメリカ人だから、アメリカの仕組みを教えてください」
私は深呼吸をして、知る限り一番簡単な説明をした。アメリカは50の州から成り立ち、各州の人々が上院と下院の議員を選出する。大統領も選挙で決め、大統領と議会は法案を通すために務めを果たす。つまり、決断をくだしているのは一般市民である、というようなことだ。
「僕は、決断すべきなのは大統領だと思うんですが」。彼は食ってかかってきた。「本当は彼こそが権力を持っているんでしょう、違いますか?」
この手の議論は控えるよう助言されていた。彼は私を陥れようとしているのかもしれないし、下手をすると、私が彼を厄介なトラブルに巻き込むかもしれない。
私は慎重に口を開いた。「この大学は学生のためにあるのであって、学長のためではないでしょう。私たちの国も同じで、国は大統領のためでなく、国民のためにあるの。大統領は国の顔で、実際の力は国民のものということなの」
私が説明したのは、民主主義についてだ。表情は読み取れなかったけど、彼は感謝の言葉を述べ、席を立った。
その日の夕方、彼の真意がなんなのか、高まる不安について助手と話をした。誰に聞かれているかわからないから、授業の相談をしているように見えることを願いつつキャンパス内を歩き回った。「彼は私たちの情報を引き渡して、何らかの報酬を得る任務を負っているのかもしれない」。私はそう口にした。
「でも、もしそうじゃなかったら?」。こう助手は言った。「彼がもし、純粋に知りたいだけだったら?」
後者の可能性に、2人とも身を硬くした。もしも私たちが、彼の疑問をかき立ててしまったのだとしたら。彼が、これまで得てきた知識は、すべて嘘(うそ)かもしれないと考え始めていたとしたら……。
次の日の夕食時、近くに座っていた1人の学生が身を寄せてきて、私に話しかけた。「昨日先生と話していた、僕のルームメートなんですけど……。あいつは先生と同じです」「私と同じ?」。私が聞き返すと、彼は言った。「そうです。あなたと同じように考えてるんですよ」
その夜は、不安と恐怖で寝つけなかった。彼は私たちを陥れて報告しようとしていたのではなく、のどから手が出るほど情報に飢えていたのだ。
ある日の授業で「はかない」という単語を教えた。「若さとは、はかないものだ」という例文を復唱させようと考えたが、学生たちを待ち受ける「闇」を思うと、その考えを振り払った。
あれから何年か経った今、彼らの顔が浮かんでくる。私は母親のような感覚に襲われる。私はあの時、英語を教えていたけど、あの子たちは外の世界を何も知らなかった。彼らが授業のことや、私を思い出して、疑問を持ち始めていたら、なんて想像したくもない。
教室に入ると「おはようございます! キム教授、調子はどうですか」と大声で呼びかけてくれた私の学生たちが暗く冷たい収容所に放り込まれていたら、と考えるのは耐えられない。そんなことを考えて、今も寝つけないでいる。(キム・スキ、抄訳 菴原みなと)©2017 The New York Times
Suki Kim
ソウル出身、ニューヨーク在住の小説家、ジャーナリスト。北朝鮮での覆面調査を行い、その体験をつづった『Without You, There Is No Us』を出版。
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