PKO政策の限界浮き彫り
国会では天皇陛下の生前退位を認める特例法が成立し、改正組織的犯罪処罰法が成立した。陸上自衛隊の派遣先だった南スーダンの状況を巡って国会論戦が続いていたことが、遠い昔のように思える。
国連平和維持活動(PKO)の南スーダン派遣団(UNMISS)に派遣されていた陸自は5月末に完全撤収し、2012年1月から続いていた自衛隊派遣が終了した。
UNMISSには60カ国以上から計約1万6000人の軍人、警察官、専門家らが派遣されているが、11年7月の任務開始以来、50人(今年5月末時点)が殉職している。状況からみて、現在世界に展開している16の国連PKOの中で最も危険度の高いものの一つだが、そうした厳しい状況下で、自衛隊が一人の犠牲者も出さずに任務を完了できたことは本当に良かった。
しかし、私は、今ここで約5年半に及んだ南スーダンへの陸自派遣を批判的に総括しておかなければ、日本は二度と国連PKOに自衛隊を派遣できなくなるのではないかと感じている。1992年施行の国際平和協力法に基づいて自衛隊を国連PKOに派遣するようになって以降、今回の南スーダン派遣ほど、日本のPKO政策の限界が浮き彫りになった任務はなかったと言っても差し支えないだろう。
端的に言って、日本の国連PKOへの参加は、派遣されている自衛隊員の練度や規律の正しさでは世界最高水準にあるものの、制度設計の点では国連の基準からも世界の紛争の現実からも遠くかけ離れている。
武力紛争は新たな様相
よく知られている通り、日本のPKO政策は、国際平和協力法で定めた以下の「参加5原則」に則る形で実施されている。
(1)紛争当事者間の停戦合意の成立
(2)紛争当事者が日本の参加に同意していること
(3)特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること
(4)上記の原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には撤収すること
(5)武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること
世界で最初の国連PKOは1948年に設置されたパレスチナの国連休戦監視機構という軍事監視団であり、その後、56年の第二次中東戦争などにもPKOが展開された。これらのPKOは、主に国家間紛争において停戦合意した紛争当事者の監視を任務としており、日本政府が92年に定めた5原則とは、こうした国連の伝統的PKOの運用原則を踏襲したものであった。
民間人虐殺が頻発
ところが、日本が伝統的PKOの運用原則を踏襲して国内法を整備した90年代初頭の時点で、世界各地の武力紛争は既に新しい様相を呈し始めていた。これら「新しい紛争」の多くはアフリカで発生し、国連PKOの在り方を大きく変えるきっかけとなった。
「紛争当事者間の停戦合意」「紛争当事者の受け入れ同意」「PKOの中立性」といった伝統的PKOの原則に決定的な打撃を与えた紛争は、ルワンダ政府と反政府勢力が戦ったルワンダ内戦(90~94年)だった。94年4月、停戦監視のためにルワンダに駐留していた国連PKOの目の前で、政権側が主導する大量虐殺が始まった。だが、「中立」の原則に固執した国連PKOは紛争当事者になることを恐れ、武力行使を躊躇(ちゅうちょ)しているうちに約3か月で推定80万~100万人の市民が虐殺されてしまったのである。
90年代から2000年代初頭にかけてのアフリカでは、ルワンダ以外でも紛争が多発した。20件近い紛争が同時進行であった年もあり、そのほぼ全てが内戦だった。内戦の原因は様々だが、冷戦時代に米ソ両陣営からの支援でかろうじて命脈を保っていたアフリカ各国の抑圧的政権が、米ソからの支援停止(削減)によって衰え、国内の反体制派が武装蜂起したケースが多かった。
ソマリアやコンゴ民主共和国(旧ザイール)の内戦のように、国家(政府)による統治が全面崩壊し、複数の非国家主体(武装勢力)が入り乱れて戦うこともあった。前線を挟んだ武装集団間の戦いというよりも、治安秩序の全面崩壊と形容するのが妥当な状況であり、無軌道な武装勢力の戦闘員による民間人虐殺や集団レイプが頻発した。
このような特徴を備えた新しい紛争では、紛争当事者の武装勢力は離合集散を繰り返すため、彼らから「停戦合意」や「受け入れ同意」を取り付けることが事実上不可能な場合が多い。「中立」に固執していたのでは、民間人虐殺を防ぐことも難しい。
私はPKO問題の専門家ではないが、アフリカの武力紛争の取材を続ける過程で、停戦監視を主任務とする伝統的な国連PKOの限界を目の当たりにすることになった。
国連の原則も変わる
そこで国連は、アナン事務総長(当時)のリーダーシップの下で、90年代後半からPKOの運用原則の徹底した見直しを重ねてきた。2000年3月には国連内に「国連平和活動検討パネル」が設置され、同年8月に「ブラヒミ・リポート」と呼ばれる報告書が発表された。
この報告書は、「紛争当事者の受け入れ同意」「PKOの中立性」「自衛以外の武力不行使」など伝統的PKOの原則が依然として重要であることを確認する一方、強力な交戦規則の設定や中立概念の修正など「より柔軟で弾力的な原則の適用」を国連に求めた。
現在の国連PKOの運用原則を理解するうえで重要なのは、国連PKO局が08年1月に作成した包括的政策文書「国連平和維持活動 原則と指針」(通称・キャップストーン・ドクトリン)である。
キャップストーン・ドクトリンは、「紛争当事者の受け入れ同意」や「PKOの公平性」といった運用原則の重要性を指摘した。ただし同時に、必ずしも全ての紛争当事者の同意が必要なわけではないことや、中立に固執するあまりPKOが止まってはならないことなどを強調し、民間人保護などの必要性が生じた場合には武力行使も躊躇しない考えを打ち出している。日本が四半世紀前に定めた「5原則」に固執し続けている間に、世界の武力紛争の様態は劇的に変化し、日本がかつてモデルにした国連の原則も、現実に合わせて大きく変容したのである。
現実を直視しない日本
南スーダンで展開中のUNMISSは11年7月に発足した当初、国連安保理決議によって「国家建設」のための任務のみが付与されていた。同年同月にスーダンから分離独立した時点の南スーダンの治安状態は一応落ち着いていたからである。
しかし、その後、南スーダンの治安情勢の悪化を受け、UNMISSは新たな安保理決議に基づいて「文民保護」に任務を拡大した。強力な武力行使による「平和の強制執行」を任務としてはいないものの、文民保護のための一定の武力行使が国際法上認められるようになったのである。それは国連が、先述した新しい紛争に対応した原則に則って、PKOの任務を拡大した結果に他ならない。
日本政府は11年時点では、四半世紀前に定めた「5原則」の順守は可能であると判断し、自衛隊をUNMISSに派遣した。だが、案の定というべきか、南スーダンには四半世紀前の「原則」に固執していたのでは対処できない現実が待っていた。
どこまでも国内法の原則に忠実であるならば、停戦合意が崩壊している南スーダンから自衛隊は撤収しなければならない。だが、世界60カ国以上が血を流す覚悟で任務に臨んでいる状況下で、日本だけが即座に撤収することは国際政治の常識から言って困難であり、撤収するにしても周到な準備と一定の時間を要する。とはいえ、派遣の原則を根本から見直すのは、日本の政治状況や世論をみれば容易ではない。
そこで、政府が選んだ道は、どんなに内戦が激化しようと「戦闘」を「衝突」と言い換えることや、戦闘の事実を記した文書を表に出さないこと。すなわち、「詭弁(きべん)」や「隠蔽(いんぺい)」によるその場を凌ぎだった――。南スーダンへの自衛隊派遣を巡って起きた一連の騒動を要約すると、そういうことではないだろうか。
安倍政権のそうした対応を批判するのはたやすい。しかし、「詭弁」や「隠蔽」の根源を突き詰めると、紛争の現実や国連の基準から遠くかけ離れた日本の自衛隊派遣・運用基準に行き当たる。こうした「世界との乖離(かいり)」に正面から向き合おうとしない点では、リベラル・左派勢力も同じだというところに、日本の問題の深刻さがあるように思う。