私のON
北海道サハリン事務所は、1998年に道とロシア・サハリン州が調印した「友好・経済協力に関する提携」に基づき、2001年に開設されました。北海道庁からの2人と地元の北洋銀行からの1人に加え、現地スタッフが働いています。日本から知事や民間の企業・団体の方などがこちらを訪れる時に、関係するサハリン州の各機関と調整し、必要に応じて通訳や交通手段を手配したり、訪問先に同行したりして、サポートするのが主な仕事です。
気候が似ているため、ビジネス分野では、建材や防雪・除雪関係の製品を扱っている企業がよく来られます。サハリン州だけではそれほど大きな市場規模ではありませんが、こちらで良いパートナーを見つけて、大陸部の方まで販路を広げている企業もあります。官民が一緒になって見本市に出展するなど、私たちも道内企業のため、可能な限りのお手伝いをしたいと考えています。
私は北海道旭川市の出身です。東京の大学を卒業した後、2年ほどぶらぶらしていた時期があり、その間に3カ月ほど韓国に滞在し、海外に興味を覚えるようになりました。韓国語は日本語に近いので、その3カ月間で現地の友人の会話にも入れるようになりました。もともと言葉は好きな方で、ロシア語も独学で覚えました。
道庁職員になってから、外務省ロシア課に2年間出向し、モスクワの日本大使館でも勤務しました。モスクワと比べてサハリンは、日本を身近に感じてくれていますし、田舎らしい優しさというか、何か頼めばすぐ聞いてくれるようなところがあります。こちらの人は考え方がゆったりしていますが、いざとなると応用力を効かせて、問題を解決してくれるのです。日本人のように事前に細かい計画は立てないけど、アクシデントがあった時には、最も合理的な方法で、素早く対応しようとする。そういうのは感心します。
私がこちらに来て学んだのは、相手のロシア人を信じることです。どうせ最後には何とかなるんだから、と。相手が「決まってない」というなら、待つしかない。心配しても仕方ない。鷹揚(おうよう)というか大雑把になりましたね。
実は、私の祖母はここで生まれ育っています。日本領の樺太だった1932年に生まれ、1948年に北海道へ引き揚げました。私が子どものころ、寝るときに布団の中で、樺太の話をよくしてくれました。戦後、日本に引き揚げるまでの間、実家の半分をソ連軍に接収され、将校の家族と一緒に住んでいた時期もあったそうです。学校は朝鮮人、ロシア人、アイヌの子どもたちと一緒で、祖母もロシア語は話せたようです。祖母にとって樺太の生活はそれなりに楽しかったようですね。ロシア人の悪い話は聞いたことがありませんでした。サハリン事務所への赴任が決まった時、祖母の生地に近づけるのでうれしかったです。
私のOFF
週末はよくスキーに行きます。職場がある市のオフィス街から10分ほど歩くと、スキー場へのロープウェーに乗れるんです。これほどの規模の都市で、街中から歩いてスキーに行けるところは、そうないですよね。雪質も北海道とあまり変わらないくらい良いですよ。こっちの方は、ゲレンデのコースから外れたバックカントリーを滑るのが好きですね。私も北海道で生まれ育ったので、子どもの時は体育の授業でスキーをしていましたが、もう10年以上も滑っていませんでした。こっちに来て、スキーが楽しいものだと気づきました。
現地の方と釣りにも行きます。朝早くから夕方まで、山に囲まれた大自然の中で、きれいな空気を吸って、釣れると友人たちとウォツカを飲んで。ぜいたくな時間の使い方を覚えましたね。日本では休日が休みになっていなかった。
今年から平日の週2回、市内にある韓国文化センターで韓国語も習っています。サハリンには様々なバックグラウンドの人たちが住んでいますが、日本統治時代に本土や朝鮮半島から来て、そのまま島にとどめられた韓国・朝鮮系の人たちが多くいて、この方たちについて興味がありました。仕事を終えた人たちが学べるようになっているはずなのですが、なぜか始まりは午後5時なので、なかなか間に合いません。
こちらは単身赴任で、自宅は築50年は経っているアパート。ソ連時代に、同じ規格で大量に造られたタイプの建築ですね。トイレが流れなくなるのは当たり前で、電灯はすぐ切れるし、断水や停電もあります。慣れるしかないですね。外国で生活するということは、それに尽きるのではないでしょうか。(構成・浅倉拓也)
Daisuke Abe
あべ・だいすけ/1982年、北海道出身。道庁職員として外務省出向などを経て2017年から北海道サハリン事務所に勤務。
北海道サハリン事務所の前に立つ阿部大祐さん。市中心部だが背後にはスキー場が見える
ユジノサハリンスク
ロシア・サハリン州の州都で人口は約20万人。日本統治時代は豊原市として栄えた。郷土史博物館や州立美術館など日本時代の建物も一部だが現存している。