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画期的な抗がん剤オプジーボ 英国はなぜ日本の半額以下か

World Now

画期的な抗がん剤として、世界中で注目を集める「オプジーボ」。小野薬品工業とBMSが共同開発したバイオ医薬品だ。がん細胞の表面にあるPD-L1というたんぱく質は、人体の免疫細胞のたんぱく質PD-1と結びつき、免疫細胞の攻撃を防いでいる。オプジーボはがん細胞のPD-L1よりも先に免疫細胞のPD-1と結びつき、免疫細胞ががん細胞を攻撃できるようにする。肺がんの場合、投与した患者の約2割に効果があるとされる。

日本では年間3500万円に及ぶと試算された薬価の高さが問題となり、今年2月、一気に半額に引き下げられた。それでも、100ミリグラム約365000円と、高額であることに変わりはない。

これに対し、英国ではオプジーボの表示価格が日本の半額以下に抑えられている。なぜ、こうも安いのか。

からくりの裏側をのぞくと、オプジーボを製造販売する製薬企業と、その代金を支払う公的医療との熾烈(しれつ)な攻防が垣間見える。

重視するのは「費用対効果」

「我々は限りある財源の中で、最善の医療を選ぶのが仕事。決して命に値段を付けているわけではない」。英国立医療技術評価機構(NICE)で、新薬の使用を推奨する審査を行う総責任者マインダート・ボイセンは、そう話す。

日本では臨床試験で効果が確認された新薬は、原則としてすべて公的医療での使用が認められる。だが、英国では薬効が確認されても、NICEの推奨がなければ事実上、公的医療では使えない。

その審査で何より重視されるのは「費用対効果」。高いカネを払うに足る効き目が十分あるかが問われる。そして、判断基準となるのが「QALY(質調整生存年)」と呼ばれる概念だ。

製造販売元である米製薬大手ブリストル・マイヤーズスクイブ(BMS)は、「1QALYあたり5万ポンド(健康余命を1年延ばすのに必要な追加費用が約700万円)以内」というNICEの基準をクリアするため、すでに2回、オプジーボを日本の半分以下の表示価格から、さらに大幅値下げする提案をした。

だが、NICEは昨年10月の2度目の中間報告で、肺がん治療でのオプジーボ使用について「値下げを考慮しても、1QALYあたりの追加費用は73500ポンドで、推奨基準に満たない」との見解を示した。「効果の割には価格が高すぎて推薦できない」というわけだ。厳しい評価の背景には「患者の命に対し国が支払うカネは合理的な範囲内に限る」という乾いたリアリズムがある。

長引く審査の影響で、英国(イングランドとウェールズ)の肺がん患者の大半は、いまだにオプジーボを使えない。日本ではすでに201512月から使用が始まっている。

NICEの判断が遅れればその分、オプジーボで延命できたかもしれない患者が亡くなっていく」。慈善団体「ロイ・キャッスル肺がん財団」のロレイン・ダラスは患者利益の代表として、NICEの委員会でそう訴えてきた。だが、自らの発言力の限界についてこうも話す。「私たちは会議室の中で最も重要なメンバーではありません」

NICEのボイセンも「我々の役割は、企業と公的医療との交渉を助けること」とし、委員会が実質的に両者の駆け引きの場となっていることを隠さない。

英国の公的医療が薬価にこだわる背景には、財源の問題がある。企業や個人の支払う社会保険料を主な財源とする日本やドイツに対し、英国では大半が税金だ。医療費は国家予算で決められ、総枠の厳守が求められる。患者利益代表のダラスさえ、「抗がん剤の費用が膨らみ過ぎれば、他の病気の患者に回せるお金が減る。バランスが大事」と話すほどだ。

NICEの存在が薬の価格決定に与える影響は、極めて大きい。企業が自主的に決められるはずの表示価格さえ、NICEの費用対効果基準を意識して、低めに抑えられる。さらにNICEの実際の審査でも、費用対効果を厳しく査定され、大幅な値下げを迫られる。英国の医療経済コンサルタント、キース・トーリーは「薬の費用対効果に徹底的にこだわるからこそ、英国の公的医療は製薬会社に強気の価格交渉ができ、大幅に薬価を下げられる」と分析する。

パリの医療経済コンサルタント、モンデール・トウミも、「英国の値下げ交渉は容赦ない。ドイツの公的医療が要求する値下げ幅は510%、フランスは2030%程度だが、英国は平気で50%以上のディスカウントを求めてくる」と話す。

長引く審査の影響で、英国(イングランドとウェールズ)の肺がん患者の大半は、いまだにオプジーボを使えない。日本ではすでに201512月から使用が始まっている。

NICEの判断が遅れればその分、オプジーボで延命できたかもしれない患者が亡くなっていく」。慈善団体「ロイ・キャッスル肺がん財団」のロレイン・ダラスは患者利益の代表として、NICEの委員会でそう訴えてきた。だが、自らの発言力の限界についてこうも話す。「私たちは会議室の中で最も重要なメンバーではありません」

NICEのボイセンも「我々の役割は、企業と公的医療との交渉を助けること」とし、委員会が実質的に両者の駆け引きの場となっていることを隠さない。

オプジーボを巡るNICEの審査は、早ければ9月中にも最終判断が下される。NICEは現在、BMSに対し、オプジーボの使用を「薬の効果が特に見込めそうな一部の患者」に限定することを提案している。その分、薬の費用対効果が高まるからだ。

「新薬の使用を認める決断を遅らせ、企業に薬価を下げさせ、さらに対象患者数を絞る。そのいずれもが、公的医療費の節約につながる」と、トウミは言う。

QALY」を武器に薬剤費の抑制を目指す英国のやり方が、公的医療費の伸びを抑え、持続可能性を高めることは確かだろう。日本でもQALYを薬価に反映させる取り組みが始まりつつある。

だが、そこには代償もある。7月中旬、英国製薬企業の業界団体ABPIは「主要な10種類のがんのうち9種類で、英国の患者生存率は欧州平均を下回る」「英国の国民1人あたりのがん治療費は欧州平均の4分の3に過ぎない」という調査結果を公表した。英国のがん治療成績の悪さは、医療関係者の多くが認めるところだ。ABPIの広報責任者リチャード・トーベットはこう指摘する。「製薬会社にとって、英国の公的医療は確かにてごわい交渉相手だ。しかし、コストの削減が過ぎると、多くの患者が必要とする薬を使えず、治療成績も下がる。これらはコインの表と裏の関係なのだから」

跳ね上がる薬価の公費負担

薬価の決め方で英国と日本の大きな違いは、前者では製薬会社が最初に価格設定を行うのに対し、後者では、終始政府が主導することだ。

東京大薬学部特任准教授の五十嵐中によれば、日本でオプジーボの価格が跳ね上がったのは、政府の当初設定した薬価が、患者数の少ない悪性黒色腫のみへの使用を想定していたことなども大きい。承認後に患者数の多い肺がんに適用拡大され、販売量が大幅増。「製薬会社がもうけすぎ」との批判で、急きょ価格を半分に引き下げざるを得なくなった。

英国では、近年NICEで審査された新薬の2割近くが「価格に見合った効果がない」として公的医療での使用を認められていない。一方、日本では承認されたすべての新薬の使用を認めている。

日本で薬代の自己負担率は原則3割だが、自己負担に上限を設ける「高額療養費制度」があるため、薬が高額化するほど公費の負担は跳ね上がる。標準的な収入で体重65キロの人がオプジーボを使用した場合、薬代の総額は年間1897万円に達するが、自己負担額はおよそ68万円。残り1829万円は公費だ。

公費の財源は国民一人ひとりが支払う保険料と税金だ。2014年度の国民医療費は40.8兆円だが、自己負担で賄われるのはその約1割。国民1人当たりの税・保険料負担は28万円で、うち2割ほどを薬剤費が占める。今後も、高齢化と、新薬をはじめ医療技術の高度化で、国民医療費は急増し、25年には54兆円に達するとの推計もある。

政府は薬剤費の抑制のため、来年度から英国と同様にQALYなどの概念を導入して費用対効果の悪い薬は値下げする方針。準備の一環として、1QALYあたりいくらまでなら支払ってもよいか、という世論調査を実施する予定だ。

「途上国の薬局」インド 上がる薬価に反発も

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7月下旬、インドに広がった貿易交渉への反対運動。薬の値上げへの不安を訴える人たちも集まった Photo: Nishimura Koji

「途上国の薬局」と呼ばれる国がある。インドだ。安価なジェネリック薬(後発薬)を開発し、貧しいアフリカの国々などに輸出。エイズなどに苦しむ途上国の多くの人命を救ってきた。

「私たちは、薬の値段がいかに人の命を左右するか、身をもって知っている」。インドの首都ニューデリーのNGOで働くルーン・ガンテ(51)は、そう言う。1999年に患者団体「デリーHIV(エイズウイルス)陽性者ネットワーク」を創設。薬の価格の引き下げなど、治療環境の改善を求めてきた。

ガンテがHIVに感染していると診断されたのは、97年のこと。だが、先進国の大手製薬会社が売っていた抗HIV薬は、年間1万ドル(約110万円)もした。当時はインドの世帯の9割以上が、年収5000ドル(約55万円)以下。ガンテを含む多くの人にとって、1万ドルもする薬は存在しないも同然だった。「医者も『いい物を食べ、運動して、祈れ』と言うだけですよ」。エイズを発症し、なすすべなく死んでいく友人も何人もいた。

だが、その状況は劇的に変わる。2001年、インドの製薬大手シプラが年間350ドル(約38500円)の薬を発売。03年にはガンテも自費で投薬を始められた。「分かりますか? 薬の値段で、世界が変わったんです」

シプラが安価な薬を開発できた背景には、インド独特の特許制度があった。シプラの薬は欧米の製薬会社が開発した物質を使っていたため、欧米の法制度では特許侵害に当たる可能性が高い。しかしインドは当時、物質を独占的に使う特許を認めていなかった。「当時の制度で、できることをやった。手の届く価格で薬を患者に届けることが使命だった」。シプラの最高財務責任者ケダール・ウプアディー(40)は、そう説明する。

インドではこの制度の下、先進国の薬のコピーをつくって自国で売り、欧米で特許が切れた後に後発薬として売り込むビジネスが拡大。97年、年間30億ドル(約3300億円)ほどだった製薬業の生産高は10年で3倍になった。

しかし、事情は変わってきた。

後発薬よりも独自開発の先発薬に強いメーカーが多い欧米日は、こうしたやり方を「開発投資へのただ乗り」と厳しく批判。譲歩を迫られたインドは、95年の世界貿易機関(WTO)加盟を受け、05年についに物質特許を認めた。

これで、インドでコピー薬をつくるのは難しくなった。日本貿易振興機構(JETRO)ニューデリー事務所・知的財産権部長の菅原洋平(40)は「05年以降、インドでの医薬品の特許の取得件数が多いのは、欧米の大手。一部に独自の特許制度が残っているが、知的財産権を守ろうという意識は決して低くない」と話す。

インドメーカーの立ち位置も変わってきた。互いの競争が激しくなり、先発薬より効果が高かったり、飲みやすかったりする付加価値の高い後発薬の開発が必要になった。技術力も上がり、先発薬を手がけるメーカーも出てきた。

このように巨額の開発資金を使って独自性の高い薬を出す立場になれば、特許の保護期間は長い方が有利になる。インド製薬業連合の事務局長ディリップ・シャー(76)は「今の規定の20年より長く必要だとは思わないが、インド企業にとっても特許の保護は重要」と言う。

そんな中で、市民の間では安い薬が手に入らなくなるという不安が広がる。

RCEPはいらない!」。南部の都市ハイデラバードで7月下旬、農家や医療関係者など約500人が、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)に反対するデモを繰り広げていた。

RCEPは日中韓やインドなど16カ国の経済連携。特許を巡るルールづくりの議論も進んでいる。

デモに参加したNGO「国境なき医師団」のリーナ・メンガネイ(41)は「私たちの活動で使う抗HIV薬の8割以上は、インド製。RCEPの問題は、日本などが知的財産を特許で独占する制度の強化を求めていること。おかげでインドから後発薬が出るのが遅くなれば、医療支援に悪影響が出る」と訴える。

インドへのWTOの影響を研究してきたジャワハルラル・ネルー大学教授のビスワジット・ダール(59)も「WTOの協定に従った結果、インドでは特に抗がん剤などで明らかに価格が上がった。特許保護が今より強まれば、同じような問題が世界に広まるだろう」と指摘する。

インドの後発薬の輸出先は、欧米日を含め100カ国以上。先発薬の特許の保護期間が長くなれば、後発薬が出るまでの期間も延び、世界中の消費者たちが影響を受けるというわけだ。

先進国側は、新薬が特許で守られないと、1品目につき1000億円にものぼる開発資金が確保できないと訴えている。だが、ダールはこう反論する。「彼らは巨額の費用を示して高価格を正当化するが、詳細は明らかにしない。特許保護の強化が必要だというなら、まず実際の費用を開示するべきだ」

政府の支払能力が追いつかない どの国も価格抑制は必至だ

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photo:Ohta Hiroyuki

モンデール・トウミ(医療経済学者)

薬というのは、奇妙な商品です。

例えばあなたが車を買う場合、どんな車を買うか決めるのも、お金を支払うのも、買った車を使うのもあなた自身です。だけど薬の場合、あなたがどんな薬を飲むかを決めるのは、あなたではなく医師です。そして、薬代の大半を支払うのは国家です。貧富の差に関係なく国民の健康を維持し、国力を高めるため、米国をのぞく大半の先進国は公的医療制度を整備し、公費で薬代を賄っている。患者の自己負担は一部です。

現代の大きな問題は、薬の技術革新による価格高騰に、国の支払い能力が追いつけないことです。公的医療の財政基盤を維持するために、どんな国家も薬剤費の抑制に取り組まざるを得ません。

英国は費用対効果の考え方を徹底することで薬代を抑えていますが、背景には個々の患者の健康よりも国家全体の利益を優先する「集団主義」がある。個々の患者を重視するフランスや日本で、そのまま受け入れられるとは思えません。

日本の薬価が高い理由は、製薬が国の有力産業であり、高い薬代を払ってもそれに見合う投資効果があったからでしょう。革新的な新薬には企業の利益を割り増しする仕組みがあるのも、その表れです。国の財政規律がゆるく、薬剤費の支出増を国債などで賄えたことも大きい。

しかし、こうした状況は変わりました。今や売れる薬の大半は米国発のバイオ薬品で、国が払う薬代は海外に流れるばかり。国の借金も永遠に続けることはできない。日本も自らに合った形で薬剤費の抑制に取り組む必要があります。

すでに薬価の見直しを2年ごとから1年ごとに短縮する方針が決まり、費用対効果の手法も一部取り入れようとしている。お金が乏しくなれば、効率的に使わざるを得ない。その方法を学ぶのに、そう時間はかからないと思います。

 Mondher Toumi  1953年仏・マルセイユ生まれ。製薬企業副社長を経て2008年、医療経済コンサルティング会社「クリエイティブ・スーティカル」設立。13年エクスマルセイユ大教授。