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おいしい料理とアート 価値があるのはどっち?

マイケル・ブースの世界を食べる 更新日: 公開日:
Photo: Kitamura Reina

素材の彩りから盛りつけまで、近ごろアートな料理が花盛りです。 でもやっぱり味が大切なのでは。筆者がたどり着いた答えは……。

料理は果たしてアートなのだろうか? レストランとギャラリーの境界はここ最近いっそう交錯し、とけてゆく一方だ。同世代で名の知れたシェフの中には、自分を芸術家だと思いたい人もいるらしい。かつてスペインの前衛的レストラン「エル・ブリ」を率いたフェラン・アドリアは料理人として初めて、ドイツの国際美術展「ドクメンタ」に参加した。フランス人シェフのピエール・ガニェールは『料理、このアートの神髄』なる本を共著で出している。イタリア・モデナの三ツ星レストラン「オステリア・フランチェスカーナ」のマッシモ・ボットゥーラによる極めてコンセプチュアルな料理は、もっと深遠な意味をつきつけてくる(彼自身、優れた現代美術コレクションを所有してもいる)。

確かに食べ物は、芸術の「対象」であり続けてきた。洞窟壁画の狩猟風景、ローマ時代のフレスコ画に見る饗宴、ルネサンス期にアルチンボルドが野菜や果物で描いた肖像画、オランダ絵画黄金時代の画家たちによるみずみずしい魚や果物の静物画。20世紀初めにはイタリアの未来派が調理から食べることまでをパフォーマンスアートにしようと試みたし、パンでできたダリの寝室も思い浮かぶ……。いやあれは夢だったろうか。

とはいえ、レストランという枠の中で食べられる芸術作品をつくろうとするシェフたちの熱意はわりと歴史が浅く、その分少なからず物議を醸している。彼らのドヤ顔は小ばかにするにはもってこいで、私もついやってしまう。かの男たちは(自分の料理をアートだと主張するのは決まって男だ)、全世界から注がれるメディアの視線や様々な賞、食に関するシンポジウムへのひっきりなしの講演依頼で自己愛を膨張させ、ときにお金と引き換えに人のおなかを満たすという自分の仕事を忘れているように思える。芸術家どころか、我こそが世界を救う慈愛の神、とでも言いたげなシェフまでいる。

料理にしかできないこと

アートの定義はいつも問題になるが、話を進めるためにもここはひとつやってみよう。思うにアートとは、人間や社会のある側面を映し出し、考えや感情を表現する。物語を生むことさえある。料理にそれができるだろうか? 味の記憶が幼い頃のノスタルジーを呼び起こすような、プルースト的な効果はまあある。伝統的な料理の脱構築が、面白い議論を呼ぶこともあるだろう。しかし、もっと知的な営みとなるとどうだろうか。できるというシェフもいるが、私は疑問だ。

ここで比べずにいられないのは、世界的なランキングに名を連ねるシェフが抱く芸術家としての野心と、素材を料理に変える日本料理人の謙虚さだ。後者は芸術性やメッセージにとらわれすぎず、おいしく美しい料理をつくることに満足している。彼らにとって仕事とは、何より客に喜んでもらうことなのだ。もちろん、食器や部屋の装飾、何より自然や季節への目配りを通して、日本料理は芸術や物語を感じさせる。腕も目も利く職人の仕事の中でも、極めて緻密(ちみつ)な懐石料理は、いかなる感覚でも芸術的であり、真の「装飾美術」といえるのではないか。それも口に運ぶ前のほんの数分しかもたないような、無常な作品だ。

料理人は客の喜ぶ顔だけ見ていればいいと、中傷したりおとしめたりするつもりはない。美しい一皿の価値が絵画や彫刻より劣るなんて、誰が言えるだろう。最近訪ねたロンドンの有名なギャラリーで、ごみの山や油のプール、使い古しの寝袋でできたインスタレーションなど現代アートを見て回っていたら、おなかが減ってきた。やっぱり私が求めているのは料理なのだ。(訳・菴原みなと)