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ミロ、ピカソ、ダリゆかりの地を「聖地巡礼」カタルーニャで触れた巨匠たちの記憶

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左からミロ、ピカソ、ダリ
左からミロ、ピカソ、ダリ

芸術における「20世紀スペインの3大巨匠」、ミロ、ピカソ、ダリの創作活動に大きな影響を与えた地域がある。スペイン・カタルーニャ州だ。3人のゆかりの場所を訪ね歩くと、彼らが残した作品がますます魅力的に見えてきた。(朝日新聞文化事業1部・礒井俊輔)

新型コロナウイルスの影響で運休していた成田―マドリード便が2024年10月に再開した。“情熱と太陽の国”へは直行便で約15時間、コロナ前には年間68万人の日本人観光客がスペインを訪れていたという。

中でもバルセロナは芸術の街と称され、バルセロナを州都とするカタルーニャ州は、日本でも有名な「20世紀スペインの3大巨匠」、ピカソ、ミロ、ダリのゆかりの地である。これらの芸術家を知るために、ピカソ美術館やミロ財団、ダリ劇場美術館を訪れる人は多いだろう。

一方、カタルーニャ州内には作家の足跡が残る郊外の施設も多数あり、それらの施設に訪れることは、作品そのものを鑑賞することと同じくらい彼らの芸術の理解につながることがある。

カタルーニャに行くなら、観光ガイドにあるように「ピカソ美術館」「ミロ財団」「ダリ劇場美術館」も訪ねてほしいが、さらに深掘りして見てほしいスポットがある。東京都美術館(上野公園)で開催しているミロ展を機に、カタルーニャ州政府観光局の招待を受けて※)、世界的な芸術家たちに迫る「マス・ミロ」、「ピカソ・センター」、「ダリの生家」を訪ねた。

ミロが療養した別荘

バルセロナから地中海沿いに車で1時間半ほど南西に進んだカタルーニャ州タラゴナ県には、ジュアン・ミロが60年以上にわたって繰り返し訪れた農村・モンロッチ(Mont-roig)がある。カタルーニャ語の「赤(roig)」と「山(mont)」が組み合わさった地名の通り、山肌は赤みを帯び、モンロッチに向かう高速道路からは一面に広がるオリーブ畑を見ることができた。

モンロッチの位置=Googleマップより

ミロは「私の作品はすべてモンロッチで着想を得たものだ」という言葉を残している。1893年にバルセロナに生まれたミロは、1911年、長期療養を必要とするチフス熱を患い、医者のすすめで両親がモンロッチに購入したばかりの別荘で療養生活を送った。

モンロッチにあるミロの家族の別荘「マス・ミロ」
モンロッチにあるミロの家族の別荘「マス・ミロ」

自然に囲まれたモンロッチの土地で病気から回復したのち、父親の強い反対を押し切って画家になる決意を固める。以降1976年まで、フランスに亡命していた一時期をのぞき毎年夏の時間をこの別荘で過ごした。「モンロッチは私に衝撃を与えた最初の場所で、常に回帰するところ。他の場所にいる時、私はいつも、モンロッチと比べています」とミロは語っている。

ミロの作品「ヤシの木のある家」
マス・ミロのすぐ近くにある農家を描いた「ヤシの木のある家」(1918年 国立ソフィア王妃芸術センター、マドリード Successió Miró Archive)。それまでのフォービズムの作風を捨てて、細部にこだわった制作をはじめるようになった時期の作品

マス・ミロ財団は、ミロの生涯と作品のつながり、モンロッチの土地が彼のキャリアにどのように影響を与えたかを発信することを目的として2013年に創設された。ミロの生誕125周年にあたる2018年に、この別荘やアトリエを含む建物が一般公開されるようになった。現在では、オーディオガイドあるいは専門ガイドと一緒にマス・ミロのさまざまなスペースをめぐることができる。

別荘「マス・ミロ」の室内。
別荘「マス・ミロ」の室内。壁にはミロの家族の写真がかかっている

マス・ミロにはオリジナルの作品は残っていないが、彼が1976年まで生活をしていた痕跡がほぼそのままの形で残っている。部屋の壁には家族の写真や来日した際に購入した絵葉書が飾られており、ベッドのシーツにはミロのイニシャル「J・M」が刺繍されていた。まさに今自分が立っているこの場所でミロが生活をしていたのだと考えると、作品を鑑賞することとはまた別の角度から作家を理解することができるような気がした。

別荘「マス・ミロ」の部屋
別荘「マス・ミロ」の部屋。ベッドのシーツにはミロのイニシャル「J・M」が刺繡されている

マス・ミロ財団のアイーダさんによると、ミロはパリの社交場よりもモンロッチで気心知れた仲間と過ごすことを好み、ポロンと呼ばれる吸い口の付いたカタルーニャ地方特有のデキャンタでワインを飲み交わす時間を幸せに感じていたという。

自家製のワインをよく友人にふるまっていたことは複数の文書から分かっている。この別荘にはカンディンスキー、マティス、ヘミングウェイ、カルダーなど親交のあったアーティストたちが訪れている。

マス・ミロの部屋の窓から見えるモンロッチの眺めや室内の様子は、ミロの作品に直接描かれている。窓からの眺望を筆触分割という印象派の技法で描いた風景画「モンロッチの風景」(1914年)、キュビズムやフォービズムの影響を受けて部屋にあった化粧棚を描いた「馬、パイプ、赤い花」(1919年)など、ここで描かれた作品を見れば、マス・ミロを拠点にしつつも、当時の様々な美術の潮流の影響を受けながら画風が少しずつ変化させていくミロの創作の様子が感じられる。モンロッチはミロにとって自分の芸術活動を振り返り、芸術に対する考えを深める場所であったのだ。

マス・ミロ財団のアイーダさん。持っているのはミロの作品「モンロッチの風景」が印刷されたスケッチブック
マス・ミロ財団のアイーダさん。持っているのはミロの作品「モンロッチの風景」が印刷されたスケッチブック

別荘に隣接し、1940年代に建てられた彫刻専用のアトリエにもミロの足跡をみることができる。アトリエの建築様式はカタランボールトと呼ばれ、カタルーニャ地方における伝統的なレンガ積み工法でつくられた。窓が多く、採光性の高い建築になっているのが特徴だ。1階にはミロが最後にこのアトリエを訪問した1976年9月のカレンダーが掛かったままになっている。

ミロの別荘に隣接したアトリエ
別荘に隣接したアトリエ。壁にはミロが最後にこの場所を訪れた1976年9月のカレンダーが残る

アトリエの2階には机やベッドがあって、昼寝をすることもあったという。2階から作品を見下ろしたり、時に窓から外の景色を眺めてインスピレーションを得たりすることも。ミロは毎日同じ時間に起きて生活をし、アトリエに向かう時間も決まっていたという。

アトリエの2階。机やベッドがあり、昼寝をすることもあったという
アトリエの2階。机やベッドがあり、昼寝をすることもあったという

ピカソが健康と幸福を取り戻した村

バルセロナから約200キロにある内陸の小さな村、カタルーニャ州タラゴナ県にあるオルタ・デ・サン・ジュアン(Horta de Sant Joan)はピカソの創作活動に大きな影響を与えた村だ。モンロッチから車で西に1時間程度の距離にある。

オルタ・デ・サン・ジュアンの位置=Googleマップより

バルセロナの美術学校(ラ・リョッチャ)の友人であるマヌエル・パラレスがこの村の出身だった縁で、この中世の佇まいを残す美しい村にピカソは2回訪れている。5歳年上のパラレスとは生涯にわたる友人だった。

オルタ・デ・サン・ジュアンの街角
オルタ・デ・サン・ジュアンの街角。人口1100人ほどの小さな村だ

1度目の滞在は1898年、病気に苦しんだピカソにパラレスはオルタのパラレス宅で夏を過ごすよう提案する。ピカソの両親は、パラレスに大きな信頼を寄せていただけでなく、都会から離れた健康的な田舎暮らしが息子にとって良いだろうと考えたため、この提案を喜んだという。

約8カ月の滞在中、日中は絵を描き自然と触れ合う生活を続ける中で、ピカソは健康と幸福を取り戻した。ピカソは後に「私が知っていることはすべてオルタで学んだ」という言葉を残している。

オルタ・デ・サン・ジュアン
オルタ・デ・サン・ジュアン。中世の佇まいを残す美しい村に、ピカソは生涯で2度訪れた

バルセロナで学生時代を過ごしたピカソにとって、自然豊かなオルタの村で過ごした10代の数か月間はかけがえのない時間だったのだろう。2度目の滞在はそれから11年後の1909年の夏のこと。恋人のフェルナンドと共に、広場にあった宿に3カ月ほど滞在し、制作に没頭した。オルタのサンタ・バルバラ山に魅せられ、キュビズムの時代を代表する風景画を残している。

サンタ・バルバラ山
サンタ・バルバラ山。1909年にオルタに滞在したピカソはこの山に魅せられ、キュビズムの時代を代表する風景画を残している

ポーラ美術館(神奈川県箱根町)が所蔵する「裸婦」は、ピカソがオルタで約20点制作した油彩画の「フェルナンド・シリーズ」の中で数少ない全身像を描いた一点である。

ピカソ・センターに展示されている「裸婦」の複製画
ピカソ・センターに展示されている「裸婦」の複製画。本絵であるオリジナル作品はポーラ美術館(神奈川県箱根町)が所蔵している

ピカソ・センターは「オルタで制作されたピカソの作品すべての複製を展示する」というアイディアに端を発してできた施設で1992年にオープンした。展示されている作品は全て複製画で、総数は200点弱にのぼる。本絵であるオリジナルの作品は日本を含む12カ国26カ所に散らばっているという。センター長のエリアスさんは「複製画であるが作品が制作された場所に近いところで、まとまって見ることができることは重要である」と話した。

1992年にオープンしたピカソ・センターの外観
1992年にオープンしたピカソ・センターの外観

キュビズムを主導し、日本の美術界にも大きな影響を与えたピカソ。彼が当時目にしていただろう田舎町の風景と、その影響を受けた「裸婦」を同時に鑑賞したことで、その独自の絵画手法を生み出すことができた理由が少しだけ分かった気がした。

ピカソ・センターでは、200点弱の複製画の展示でオルタの村とピカソの関係性を紹介してい
ピカソ・センターでは、200点弱の複製画の展示でオルタの村とピカソの関係性を紹介している

ダリの生家、最新技術備えた展示施設に

バルセロナから北東に120キロほど離れたカタルーニャ州ジローナ県に属する田舎町・フィゲラス。1904年、サルバドール・ダリはこの町に生まれた。

フィゲラスの位置=Googleマップより

ダリ劇場美術館からも徒歩圏内にあるダリの生家は、2023年10月、ホログラムやビデオマッピングといった最新のデジタル技術を駆使してダリの生涯を劇的に紹介する施設に改修され開館した。

ダリの生家の外観
ダリの生家の外観。改修され2023年に開館した

インスタレーションとして壁一面に貼られたダリとその家族の写真からは、ミロなどと比較して彼が当時メディアにも多く露出していたことが分かる。彼の絵画作品やゆかりの地を映像として部屋全体に投影した空間では、絵の中やゆかりの地に入り込んだような体験もできた。

ダリの生家では、インスタレーションや映像を駆使してダリの生涯を劇的に紹介している
ダリの生家では、インスタレーションや映像を駆使してダリの生涯を劇的に紹介している

最先端の技術が駆使された没入体験は、当時新しいメディアであったテレビを利用して自らのキャラクターを演出したかつてのダリの手法に重なるようで、彼の革新性を改めて印象づけられた。

ダリの生家では、3Dホログラムの技術でダリの映像が立体的に映し出されている
ダリの生家では、3Dホログラムの技術でダリの映像が立体的に映し出されている

モンロッチの土の色、オルタのサンタ・バルバラの山並み、フィゲラスに導入された最新デジタル技術……。我々にとって異国の芸術家だからこそ、巨匠たちが過ごしたゆかりの地で作品以外の情報も集めることが彼らの創作の理解をより深めることにつながるのだと実感した。

カタルーニャゆかりの三大巨匠のうち、ミロの作品を日本でまとめて見ることができる大きな回顧展が東京で開催中だ。東京都美術館で7月6日まで開催しているミロ展は、ミロの約70年にわたる創作活動を、世界中から集めた約100点の作品により概観する貴重な機会。こちらもぜひ訪れてみていただきたい。

For all the works by Joan Miró here reproduced:
© Successió Miró / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2025 E5746

Photo: Marc Vila Puig