まるで、父子の職場見学会のようだった。でも、父が意図したことは、仕事の魅力を伝えることとは正反対だった。
世界最高峰エベレストへの最多登頂記録を持つネパールの名高い山岳ガイド、カミ・リタ・シェルパ(53)は、息子のラクパ・テンジン(24)を2021年の終わりにこの名峰のふもとに連れて行き、こう告げた。「お前がこの山に近づいてよいのは、ここまでだ」
「ここから先は、苦しい闘いの場だ。私を見れば、分かるだろう」。父は、そこで息子にこういったことをよく覚えている。そして、「ここには将来はない」とさとしたのだった。
代々受け継がれることの多かったこの仕事に、命をかけるリスクに見合うだけの代償を得られるのかという現実問題が影を落とすようになった。そして、山岳ガイドをするシェルパとその家族の間で、山に別れを告げるべきだという議論となって広がっている。
エベレストの登山ガイドには、常に危険が付きまとう。滑落に雪崩、最悪の天候。登山記録を管理する「ヒマラヤ・データベース」によると、過去100年間にエベレストで亡くなった315人のうち、3分の1近くがシェルパ・ガイドたちだ。2023年4月にはベースキャンプ近くの氷河で氷の塊が崩れ、シェルパ3人が死亡している。
報酬もささやかなものだ。数々の劣悪な条件に耐えて実績を築き、多くの「登頂勲章」を手にした少数のエリートガイドたちは例外にすぎない。かけ出しのシェルパだと、ガイド料は約4千ドル。そこから毎年の登山シーズンに1回しかめぐってこない仕事のために必要な装備の購入費を差し引き、残余が主な年収となる。
報酬もさることながら、シェルパたちがやめ、子どもたちにこの仕事を勧めない理由は別にある。保障の乏しさだ。障害を負ったり、死亡したりしても、支払われる保険金は家族の暮らしを保障するにはほど遠い。ネパール政府はシェルパのために山岳ガイド福祉基金の創設を約束しているが、なかなか実現しない。
山を見限った人たちの一部は国外に移住する。アジアで最も貧しい国の一つであるネパールでは、よりよい仕事を求めるすべの一つでもある。国内にとどまる人たちは、ありとあらゆる職に就く。
「一生懸命育てた子どもたちに、私の跡を継いでリスクの高い山岳ガイドになることを勧めるなんてとてもできない」とカジ・シェルパは語る。8年間続けた山での仕事を2016年にやめ、今は地元の水力発電プロジェクトの警備員として働いている。
カジ・シェルパがエベレストでも最悪といわれる遭難事故を生き延びたのは、2014年のことだった。雪崩に巻き込まれたシェルパ16人が亡くなった。多くの山岳ガイドは、この悲劇が新たな安全対策や生命保険制度の制定といった改革をもたらすことを期待した。
シェルパたちは事故後、この国に毎年何百万ドルもの収入をもたらすエベレスト登山への参加を拒む動きに出た。ネパール政府は、山岳ガイドのための福祉基金を設立することを表明した。しかし、いまだに施行されてはいない、と政府当局者、登山リーダーたちのいずれもが認めている。
登山隊を運営する側も、わずかな安全面の改革を実施しただけだった。保険の給付額は引き上げられたものの、死亡時で約1万1千ドル、負傷時で約3千ドルにすぎない。遭難事故の救援活動に加われば、その経費をまかなうためとして5千ドルほどが出るようにはなった。
ネパールにある標高2万フィート(6100メートル弱)以上の峰(訳注=6千メートル以上が約1300座ある)のうち414座が登山に開放されている。こうした山への遠征隊を十分な数だけ組むには、高地に適応したシェルパが少なくとも4千人は必要になる、とタシ・ラクパ・シェルパは推計する。登山ツアーを営む「14 Peaks Expedition」社(訳注=世界には8千メートル峰が14座ある)の創業者だ。加えて、ベースキャンプまで物資を運び上げるポーター数万人を見ておかねばならない。
シェルパの雇用状況の推移をきちんと把握した統計データはない。いえるのは、山岳ガイドにしろ、遠征隊の支援要員にしろ、人手不足の兆しが見え始めていることだ。
登山関連の働き口を増やそうと、ネパール政府はこのほど、エベレストに最も近い空港があるシャンボチェ(標高1万2467フィート)からベースキャンプ(標高1万7500フィート)に荷物を運ぶのに、ポーターと家畜のヤクを使わねばならないとの規則を定めた。
ところが、すぐにこれを引っ込めざるをえなかった。ポーターもヤクもとても足りないとの苦情が、遠征隊の組織者側から相次いだからだ。登山シーズンが始まるわずか数週間前の23年3月になって、当局はヘリコプターで物資をベースキャンプまで運搬してもよいとの通知を出した。
遠征隊の編成者たちによると、シェルパが山を見捨てるこの事態には一定のパターンができつつある。
高地と過酷な天候に優れた耐久力を発揮することで知られるシェルパの多くは、ネパールの山岳地帯に住む各民族から出ている。登山ガイドの開拓者とでもいうべき東北部クンブ地方の出身者は、現役の人数が減っている。そのあとから加わるようになった中東部ロルワリン地方の出身者は、ほかの職に移行し始めたところだ。こうしてできた隙間を、東部のカンチェンジュンガ地方とマカルー地方の出身者が埋めるようになった。
シェルパをやめた人の一部は、教育の機会と職を求めて首都カトマンズに行くか国外に出る。もう何千人もが、欧米やオーストラリアに移り住んだ。登山関係の職に就くのはまれで、多くは臨時の仕事などで当座をしのいでいる。
「やめたシェルパは山に復帰することはなく、出身の村にすら帰ってこない」。遠征隊を組織しているダワ・スティーブン・シェルパは、顔を曇らせる。「クンブ地方にシェルパはあまり残っていない。その多くは、米コロラド州やニューヨーク、オーストリア、スイスにいる」
山を去った一人に、アパ・シェルパ(63)がいる。2018年にカミ・リタ・シェルパに破られるまで、エベレストの最多登頂記録を持っていた。
2006年に米ユタ州に移り、家族を呼び寄せた。「すべては子どもの教育のためだった」と長男のテンジン・シェルパは電話取材に答えた。バイオテクノロジー企業の会計担当をしている。「父も母も、教育の機会に恵まれなかった。だから、父は身を粉にして山で働いた」
カミ・リタ・シェルパが、息子に跡を継ぐのを思いとどまらせることを決めたのも、つらかった自分の人生を振り返ってのことだった。
26回のエベレスト登頂記録を誇るエリートシェルパでありながら、カミ・リタ・シェルパの収入は4人家族を養うのがやっとだ。カトマンズの賃貸住宅に住んでおり、春の登山シーズンがめぐってくるたびに、妻子はその年の遠征隊を率いる本人の無事を懸命な思いで気遣う。
「夫が家を留守にしている間は、昼夜を分かたず祈りを捧げ、ボダナート(訳注:カトマンズにあるチベット仏教の巨大仏塔)でろうそくをともしている」と妻ラクパ・ジャングムは語る。「あのドアから夫が姿を見せるまで、気が安らぐことはない」
カミ・リタ・シェルパ自身は、現役を続けられる限りエベレストで働くつもりだ。「自分が遠征隊を案内すれば、大勢のシェルパがポーターとして雇われ、国に何千ドルもの収入がもたらされる」。そんな自負もあり、「少なくともまだ数年はこの仕事を続けることになるだろう」と話す。
しかし、妻とも話し合い、子どもたちは違う道を歩めるようにした。
長女のパサン(21)は大学で情報技術を学び、いま最終学期を迎えている。
冒頭の長男ラクパは、観光マネジメントの資格の取得を目指している。
「父が築き上げた伝説的な登頂実績のことはよく分かっている」と敬意を示した上で、自らは「風景写真の専門家になりたい」と将来像を描く。
「そうすれば、あの山により近づくことができる。ただし、距離を置いてね」(抄訳)
(Bhadra Sharma and Mujib Mashal)©2023 The New York Times
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