サンマリノはティターノ山を中心に要塞(ようさい)のようになっている。街には中世の建物がいまも残り、一帯は世界文化遺産に登録されている。断崖絶壁の頂にあるとりでを目指し、迷路のような石畳の道を歩いた。
勾配のきつい坂を息を切らしながらのぼると、ちょうど日が沈むところだった。眼下に広がる街並みやアドリア海があかね色に染まる。刻々と変わる空の色に思わず見入った。
「地形こそが長く独立を保てた理由だ」と、マンリオ・カデロ駐日大使が教えてくれた。
サンマリノは301年、ローマ皇帝の迫害から逃れたキリスト教徒の石工によってつくられた。山頂に三つのとりでを築き、侵略を防いだ。とりたてて資源がないことも幸いした。カデロ大使は、「政治的にも地政学的にも要衝になく、宝もなかった。だから、だれもわざわざ攻めに来なかった」と笑った。
もう一つの理由は、政治のやり方だ。もとは家長の集まり「アレンゴ」がものごとを決めていた。13世紀に2人の執政が取り仕切るようになってから、そのかたちは基本的に変わっていない。執政は60人いる国会議員の中から選ばれ、権力の集中を防ぐために任期は半年。専業の政治家はおらず、みなほかに仕事を持っている。人口3万3000人ほどの小さい国だからだれでも執政になる可能性がある。政治がとても身近で民意が反映されやすい。
イタリアから移住してきた、弦楽器鑑定家のパオロ・バンディーニ・カッレガーリさん(68)は「サンマリノ人はまるで一つの家族のよう。その家族を管理しているのが政府で、家族を守るために国家がある」と話す。
4年前、イベント会社の経営者から執政になったマッテオ・チャッチさん(32)は生活が一変した。執政となり、国の顔として世界中を飛び回った。「執政同士で意見が対立することはある。でもそこで議論し、より良い方向に導くのが民主主義。私たちは古くから続くこの国と政治システムに誇りを持っている。対立はあっても、それを守ろうとする思いは一致している」
戦争をしないためのもう一つの知恵は「したたかな外交」だ。
四方を囲まれたイタリアと密接な関係を築くことで、主権国家としての地位を保ってきた。国防など頼るところは頼る。また、司法の公平性を保つため、裁判官の大半はイタリア人が務めている。一方で、過去にはイタリア統一運動の闘士、ジュゼッペ・ガリバルディをオーストリア軍の追撃からかくまったり、第2次世界大戦時にイタリアから10万人もの難民を受け入れたりと、支援もしてきた。
サンマリノは過去に何度か侵略されそうになった。短期間だが占領されたこともある。敵将が急死するなど幸運が味方したり、ローマ教皇の力を借りたりするなどして、何とか領土を守った。
1797年には、ナポレオンに約20キロ離れた海沿いの街リミニまで領土を広げないかと提案された。だが、領土を広げれば、侵略される可能性が高くなると断った。祖父2人と父は執政経験者で、自身も執政の執事を務める、300年以上続く名家のマリリア・レッフィさん(62)は「あのとき、ナポレオンから領土をもらっていたら、いまサンマリノはなかった。私たちは国は小さくてもいいから、独立と自由を重んじてきた」と話す。
ヨーロッパの政治に詳しい同志社大の吉田徹教授(47)はサンマリノについて、「めまぐるしいヨーロッパの政治システムの変遷の中で、それぞれの権力と上手に渡り合ってきた。民主的でリアリスティック。均衡がとれている」と話す。
実はサンマリノは国連には加盟しているものの、欧州連合(EU)には加盟していない。最近加盟しようという動きもあるが、多くの市民には加盟してしまうと、ほかのヨーロッパの国々の中に埋没してしまうのではないかという思いがある。だが、立ち寄ったスーパーに並ぶ食料品や日用品を見ると、ほとんどがイタリア産だった。店主のダニーロ・キアルッツイさん(45)は「食べ物も話す言葉もイタリアと同じ。でも私たちの心はサンマリノにある。EUに加盟したら、アイデンティティーが失われてしまう」と話す。
サンマリノの国旗には、青と白の地に長きにわたって領土を守り続けている三つのとりでをあしらった紋章、そしてラテン語で「自由」を意味する「LIBERTAS」と書かれている。他国と争うことなく自らの自由を守るために、サンマリノの人たちは、先人の知恵を大切に守りながら、誇りを持って生きてきた。
夕暮れ時、住宅街を散策していると、一軒のジェラート屋さんに目がとまった。幼い子どもからお年寄りまで入れ代わり立ち代わりやってくる。テラス席で楽しそうに話している一人のおばあさんに話しかけると、彼女はこう答えた。「こんな最高の国、ほかにあるかしら」