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プーチン氏はなぜウクライナ侵攻を決断した 過去をたどると見える、開戦への一筋の道

World Now
ロシア侵攻前の1月、キーウで民間の軍事訓練に参加し、銃の木型で構え方を習う一般市民の男性
ロシア侵攻前の1月、キーウで民間の軍事訓練に参加し、銃の木型で構え方を習う一般市民の男性=喜田尚撮影

プーチン・ロシア大統領はもう別の世界に行ったのだ――。プーチン氏がウクライナ東部で親ロシア派勢力が支配する地域を「独立国」として認めると発表した今年2月21日夜、ウクライナの首都キーウ(キエフ)にいた私はそう思わざるを得なかった。そのときのプーチン氏はそれだけ異様な雰囲気を漂わせていた。

モスクワ支局長だった私がキーウに入ったのは、ロシアの侵攻開始より1カ月近く前の今年1月末。コロナウイルス感染の影響で2年ぶりだったが、それまでロシアが一方的に南部クリミア半島を併合した2014年からウクライナ入りを繰り返してきた。2017年にモスクワ支局に赴任するに際して更新した今のパスポートは後ろから3ページが隙間なく並んだ小さなウクライナの出入国印で埋まっている。

その前、同年までのウィーン支局時代に使っていた前のパスポートのウクライナ出入国印はそれよりはるかに多い。ドンバス地方と呼ばれるウクライナ東部で、クリミア併合に続いて起きた武力衝突の現場も何度も訪れた。情勢は把握していたつもりだが、それでもあらためてキーウに入ったときは、本当にロシアがウクライナへの全面侵攻に踏み切るのかまだ半信半疑の思いだった。

当初、街の人々もほとんどが私と似た受け止め方だった。米国はすでに、ロシアの侵攻の危機が迫っていることについて機密情報をもとに強い警告を出し、外国企業社員の退避も続いていた。キーウ市民でも避難したいと思い、かつ避難できる場所を持っている人たちはすでに街を離れていたはずだ。残った人々は特に危険を意識しないか、意識しても自分たちは対処できると考える、あるいは避難する場所がないと考える人々だった。

ロシアとウクライナの地図

ウクライナ政府がかなりの段階まで差し迫った危険を否定し、国民に冷静さを保つよう呼びかけていたこともある。何よりも、私たち外国メディアのインタビューを受けた人の多くは「危険は今始まったことではない。私たちはここまで8年間ずっとロシアの攻撃にさらされてきたのだから」と付け加えることを忘れなかった。自分たちは民主主義世界を代表して攻撃的なロシアの矢面に立ってきたという自負が、市民にもあった。

周囲の雰囲気がガラッと変わったのは、前日にバイデン米大統領がウクライナへの侵攻についてプーチン氏が「決断を下したと確信している」と発言したのが伝わってきた2月19日だ。このとき、街で声をかけた人たちが相次いで「深刻に受け止めている」「家族と避難を相談する」と答えた。

ほぼ同じころ、東部の親ロシア派幹部が「ウクライナの攻撃が迫っている」と主張し始めた。プーチン政権の意向に沿った報道をするロシア国営テレビがロシア国内へ避難させられる同派支配地の住民の姿を伝え、声高に「危機」をあおり始めた。自作自演のプロパガンダ報道だったことは明らかだが、「ドンバスで起きていることはジェノサイド(集団殺害)だ」などというプーチン氏の発言は、ロシアが偽情報を口実にして侵攻を始めようとしているとウクライナ側で受け止められ、危機感がさらに高まった。昨秋からロシアがウクライナ国境に集結させた部隊はすでに19万人規模にも達しているとも見られていた。

ロシアによるウクライナ侵攻開始8日前の2月16日、通勤客であふれるキーウ中心部の地下鉄構内のエスカレーター
ロシアによるウクライナ侵攻開始8日前の2月16日、通勤客であふれるキーウ中心部の地下鉄構内のエスカレーター=遠藤啓生撮影

21日の夜、キーウで取材仲間と外で遅い夕食をとっていると、スマートフォンに通信社の速報が入った。プーチン氏が、ウクライナ東部のドンバス地方の一部を占領する親ロシア派勢力の支配地を「独立国」として承認したという。

あわててホテルに戻った。演説はもう終わっていて、ロシア大統領府のサイトに掲載されたビデオを見直した。「現代のウクライナは丸ごと、完全にボリシェビキが作り出したものだ」。「ボリシェビキ」は1917年のロシア革命で指導者レーニンが率いた勢力。プーチン氏はロシアとウクライナの歴史についてとうとうと語っていた。そこにいたのは、国父然と振る舞うプーチン氏ではなく、視線を宙に浮かせながら理解しがたいストーリーを語る歴史マニアの初老の男だった。

「国民へのよびかけ」と題された演説は55分にも及んだ。そもそもウクライナは、レーニンらソ連の初期指導層が民族主義者に妥協し、ロシアの歴史的、文化的領土を分離して共和国の地位を与えた「作られた国家」だ。それが91年のソ連崩壊で歴史の必然性なく独立し、欧米の手先となって我が国に脅威をもたらしている――少々乱暴にまとめれば、プーチン氏の主張はこんなふうだった。

その主張が妥当かどうかを脇に置いても、プーチンはそれまでウクライナ東部の紛争を「ウクライナ国内の問題」と主張してきたはずだ。実質的に配下に置く親ロシア派の支配地を「独立国」と見なすことは、ロシアが加わった停戦合意や和平協議を一方的に破棄することをも意味する。

プーチン氏が侵略戦争を始めようとしていることはもう疑いようもなかった。

2月23日午後8時。侵攻8時間前のキーウ河岸地区の観覧車
2月23日午後8時。侵攻8時間前のキーウ河岸地区の観覧車。いつも帰宅する人と家族連れで賑わう場所に人通りはなかった=喜田尚撮影

侵攻すれば欧米との関係を決定的に悪化させるだけでは済まず、前例のない経済制裁は免れない。たとえウクライナを占領して領土を拡張しても国際的な孤立で占領地はおろかロシア本土の経済運営さえままならなくなるかもしれない。「侵攻の意図はない」というこれまでの発言のすべてを覆すことになり、国の権威は大きく傷つく。それでも、ウクライナに侵攻してロシアにどんな利益がもたらされるというのか。

だが、事態は合理性ではもう判断できないところまで来たのだと考えざるを得なかった。

次の日からキーウの夜の人通りが途絶えた。

「ズーン、ズーン」。2月24日午前5時、ホテルの部屋のカーテンの向こうからミサイルの着弾音が響いてきた。その直前、プーチンの「特別軍事作戦」開始を告げる速報で目が覚めていた。音はやや遠い。ドニプロ川をはさんでホテルの対岸にある地区が攻撃されていた。

侵攻初日の2月24日午前8時、キーウは未明にミサイル攻撃を受けたが、それでも出勤しようとする人たちがいた
侵攻初日の2月24日午前8時、キーウは未明にミサイル攻撃を受けたが、それでも出勤しようとする人たちがいた=喜田尚撮影

朝7時、私は外で退避を促される人たちの様子を取材したが、街にそれなりの人影があったのはその日の午前中までだ。ドニプロ川沿いの地区の一角にあったホテルの前を土囊(どのう)を積んだトラックが走り去った。私は同じホテルに滞在していた十数人のほかの国の記者らとシェルター代わりの地下駐車場に入るよう促された。

キーウの情勢は急を告げた。午後、中心部から北西25キロのアントノフ国際空港に大量のヘリコプターからロシアの降下部隊が降り立ち、ウクライナ軍と銃撃戦になった。夜、市中心部近くでも迎撃されたミサイルが集合住宅に当たり、煙が上がった。

2日目の朝、ホテルから北へ数キロの地区で銃撃戦が始まった。ロシアの降下部隊が数人単位で市内に侵入しているという。午後、地下にいた私もかなり近くで銃撃音が響くのを聞いた。地下シェルターとして解放された地下鉄の各駅に大勢の市民が詰めかけていた。

侵攻が始まった2月24日の昼前、キーウのホテル地下のシェルターに避難した各国からのジャーナリストたち
侵攻が始まった2月24日の昼前、キーウのホテル地下のシェルターに避難した各国からのジャーナリストたち=喜田尚撮影

日付が変わるころ、カーキー色のTシャツに着替えたウクライナのゼレンスキー大統領が「難しい夜になる」と語るのを、1台のパソコンを囲んで記者仲間のみんなで聞いた。

ロシアがウクライナ国境に部隊を集結させ、侵攻の危機が指摘されたのは昨年秋のことだ。当初10万と言われた部隊の規模は徐々に膨らんでいった。プーチン氏は米国や北大西洋条約機構(NATO)に将来にわたってウクライナのNATO加盟を認めないことや、NATOの戦力配置を東方拡大が始まる前の状態に戻ることを、法的拘束力を持つ文書で約束するよう要求した。

米国、NATO側はウクライナの加盟については原則を曲げなかったが、欧州でのミサイル配備については交渉に応じる考えを示していた。プーチン氏は親ロシア派支配地域の「独立」承認を発表する5日前に記者会見で戦争について「もちろん、望まない」と答えていた。だが、後から振り返れば、プーチン氏は協議を続けるふりを見せながら早くから侵攻へと着々と布石を打っていたとしか考えられない。

プーチン氏が望めば、当時の現状のままでもウクライナ国内への影響力を維持することは可能だったはずだ。侵攻のほぼ2年前にあたる2019年12月、4カ国首脳会談がパリで行われ、プーチン氏とゼレンスキー氏が出席していた。侵攻までにプーチン氏とゼレンスキー氏が同席する唯一の場になった。(つづく)