「ニワトリと卵」のジレンマ 打開するために
どれほど革新的な脱炭素技術も、それが気候変動対策につながるためには社会で実際に使われる必要がある。そこには、パイロット段階からスケールアップして大幅なコスト削減を図らなければならないというハードルがある。
例えば太陽光発電。今でこそ各地で普通に見られるようになったが、その技術の社会実装はパイロット段階から商用化までに30年かかったともいわれている。日本を含め多くの国と地域が2050年を「温室効果ガス排出ネットゼロ」の達成期限に掲げているが、残り30年を切っている。2050年のカーボンニュートラル達成は、脱炭素技術の商用化、さらに普及までの時間をいかに短縮できるかが鍵になる。
「『大量に購入してくれるなら価格を安くできる』と考える供給側と、『安くしてくれるなら大量に購入できる』と考える需要側。いま、この“ニワトリと卵のジレンマ”が、脱炭素技術のスピード感ある社会実装を遅らせているのです」
三菱商事天然ガスグループの千々岩圭吾氏は、脱炭素技術をスケールアップさせる難しさをこう語る。
そこで、この状況を打開し脱炭素のイノベーションを後押ししようと作られたプログラムが、ビル・ゲイツ氏によるBreakthrough Energy Catalyst(以下BEC)だ。
BECは、技術を提供する供給側とそれを利用する需要側の両方を支援し、さらに政府を加えた三つのプレーヤーの”Catalyst”(触媒)となって、革新的な脱炭素技術のスケールアップを支援することを目指している。
BECの取り組みのコアとなるのは、研究開発(R&D)が完了し、スケールアップ段階にある四つの脱炭素技術領域、すなわち①クリーン水素、②長期エネルギー貯蔵、③SAF(持続可能な航空燃料)、④Direct Air Capture(直接空気回収)への投資だ。BECは民間企業や財団からの大規模な資金提供だけではなく、環境に十分配慮した「グリーン製品」と通常製品との価格の差(グリーンプレミアム)を負担してくれる需要家との連携、さらに政府の財政支援を引き出す仕組みも構築。その資金規模は全体で数兆円ともいわれている。「これほど大きな規模で脱炭素技術のスケールアップを支える取り組みは、過去に例がありません。ビル・ゲイツ氏の言葉通り、まさに『人類史上最大のイノベーションのチャンス』だと思っています」(千々岩氏)
再エネの弱点 技術力で克服なるか
三菱商事は2021年に「カーボンニュートラル社会へのロードマップ」と名付けた長期事業戦略を発表し、「2030年度までに温室効果ガス排出量を半減、2050年にネットゼロ」という目標を打ち出した。様々な産業に接地面を持つ総合商社の目には、脱炭素事業を進めていくうえでどのような課題が見えているのだろうか。そしてBECへの参画に、どんな価値を感じ取っているのか。
聞き手を務めたGLOBE+編集長の堀内隆
国内外の発電・送電事業を担っている電力ソリューショングループがいま注力しているのが、再生可能エネルギー事業だ。
2020年には、再生可能エネルギーを中核とするオランダの総合エネルギー事業会社Eneco(エネコ)を買収し話題を集めた。「目指しているのは、再エネ発電容量を2030年までに倍増(2019年比)させること。そして、再エネを起点とした新たなバリューチェーンを構築することです」と同グループの荻野剛氏は話す。
ただし、再エネを主力電源化するには、自然条件に左右されるため安定供給が難しいという太陽光発電や風力発電の弱点を克服しなければならない。そこで荻野氏が期待を寄せるのが、BECも支援している長期エネルギー貯蔵技術だ。
「長期エネルギー貯蔵は、いま世界で技術革新が加速しています。実装されれば、再エネによる電力供給の安定性を高めることはもちろん、余剰分をためておけるので捨てずに使い切ることができ、コスト削減にもつながります。特に再エネ資源が乏しい日本やアジアでは、再エネの効率的な利用ができるメリットは大きいでしょう」(荻野氏)
三菱商事 電力ソリューショングループの荻野剛氏
また、再エネを起点とした次世代のバリューチェーン構築に際して、避けては通れない障壁が「コスト」だ。
例えば、クリーン水素の一種である再エネによる電力で水を電気分解するグリーン水素は、CO2を一切排出しない画期的な脱炭素技術の一つだが、コスト高が商業化を阻む要因となっている。
水素は現在、石油や天然ガスなど化石燃料由来のものが大部分を占めており、グリーン水素のコスト低減や再エネの安定供給が実現しなければ、その置き換えは難しい。「BECを通じて高効率の電解装置のスケールアップを支援することで、グリーン水素のコストダウンが期待できます。またBECでは次世代エネルギーの供給側だけでなく、受け手である需要家との連携も図れるため、新たなバリューチェーンを構築するとともに、カーボンニュートラル新産業の創出にも寄与できればと考えています」(荻野氏)
航空や製鉄 CO₂削減困難な分野に挑む
航空や海運、鉄鋼やセメント、化学など、一般的にCO2排出削減が困難とされてきた分野は脱炭素への移行をどのように図るかが大きな課題となっている。石油・化学ソリューショングループが関わる様々な燃料や化学素材・製品の製造も、その一つだ。
三菱商事 石油・化学ソリューショングループの片桐祐輔氏
なかでも、CO2削減が特に難しいとされる領域が「航空燃料」だという。「飛行機は大量のエネルギーを必要としますし、燃料の貯蔵スペースも限られているため、電化・水素化は容易ではありません。そこでいま世界の航空業界に期待されているのが、持続可能な航空燃料(SAF)の大量生産です」と片桐祐輔氏。
各国ではすでにSAFの導入目標を打ち出しており、アメリカは2050年までにSAF 100%、EU(欧州連合)は63%、さらに日本も2030年までに10%という数字を掲げている。
「ただし現時点では、SAF生産量は需要に対して1%にも満たないのが実情です。理由は、商用化に向けた技術が未完成であること。BECを通じて製造技術確立の支援をするとともに、日本やアジアに適した技術の見極めなどを通して、SAFサプライチェーン構築に寄与したいと考えています」(片桐氏)
三菱商事 金属資源グループの小山真生氏
金属資源グループの小山真生氏も、BECによるイノベーションの加速に期待を寄せる。
製鉄業界における脱炭素化の有力な手法には、鉄鉱石から酸素を取り除いて製鉄する際に従来の石炭の代わりに水素を使う「水素還元鉄」があるが、技術の確立と大量で安価な水素の調達が課題となっている。「BECの投資対象領域であるクリーン水素の安定供給が非常に重要になります」と話す。
さらに、CO2の排出削減が難しいとされる製鉄などの産業向けには、CO2除去技術が必要となる。その一つが、大気から直接CO2を回収するダイレクト・エア・キャプチャー(DAC)という技術だ。「先日も現地へ視察に行きましたが、一部のDAC技術は既に小規模な運転を開始している一方で、コストは引き続き課題です。BECの枠組みを通してうまくスケールアップできれば、業界の枠を超えて世の中の脱炭素に大きな貢献ができると考えています」(小山氏)
アジア唯一の企業 責務と使命感と
今回、BECへの出資参画を決めた三菱商事は、「アジア初のアンカーパートナー」としても注目を集めている。
マイクロソフトやアメリカン航空、鉄鋼世界大手のアルセロール・ミッタルなどが名を連ねるアンカーパートナーは、投資先プロジェクトの選定などBECの意思決定に主体的に関与する存在だ。
三菱商事に寄せられる期待は大きい。
脱炭素化へのアプローチは国・地域によって異なり、欧米の成功事例をそのままアジアに導入してもうまくいくとは限らない。再エネのポテンシャルや電力システム、産業構造やライフスタイルなど、脱炭素化を取り巻く事情はそれぞれ異なるからだ。アジア特有の課題を熟知し、また多様な産業との接点やネットワークを持つ三菱商事の貢献が期待されている。
「地に足のついた、かつスピード感のあるスケールアップとネットゼロを世界が一丸となって実現していくには、アンカーパートナーがそれぞれの産業や国・地域で得た知見やネットワークを持ち寄ることが大切です。三菱商事が、アジアや日本がもっとBECの取り組みに関与していく、共創のハブとして機能できればと考えています」と千々岩氏は言う。
「最初のドミノ」を倒して、新たな未来へ
三菱商事は今年5月に発表した中期経営戦略2024で、「MC Shared Value(共創価値)の創出」という理念を掲げた。
顧客やパートナー、社会と “共に” 社会課題を解決し、新たな価値を創っていくというshared valueの考え方は、企業や需要家、政府が “共に” 脱炭素の目標達成を目指すBECの理念に通じる。
さらにBECが注力する四つの技術領域は、三菱商事のEX(エネルギートランスフォーメーション)戦略の注力分野とも重なり合っており、BEC参画は、三菱商事にとっての「ビジネスチャンス」でもある。
千々岩氏は、「BECを通じて革新的技術の投資案件に関与することで、その技術や産業知見を生かして将来的な事業拡大につなげられますし、1社ではつかみきれない事業機会と出会ったり、世界のリーディングカンパニーとのさらなるネットワークを構築したりすることもできます。社会課題を解決していくことは同時に、我々にとってのビジネス開発にもつながるのです」と話す。
三菱商事の4氏と、聞き手を務めたGLOBE+編集長の堀内(右)
「我々、三菱商事の社員がインテリジェンスを高めていくことも必要」と加えたのは片桐氏だ。「日本も2050年ネットゼロに向けて脱炭素化に舵を切ったとはいえ、日本の一次エネルギー供給は依然として約4割を石油に頼っているのが現実であり、今日、明日でその使用を止めることはできません」
「『エネルギー安定供給』と『脱炭素』の両立という難題にどうチャレンジしていくか。脱炭素化を踏まえた世界のエネルギー情勢や業界関係者の動向、BECを通じた各案件の技術成熟度の理解といったインテリジェンスをより高められるよう、私たち自身が努力し続けることが大事だと感じます」と話した。
「誰かが最初のドミノを倒さなければ、脱炭素社会は加速していきません。BECがその役割を担うと考えています」と小山氏は言う。「BECに参画した一員として尽力し、脱炭素に向けた共創の輪をどんどん広げていきたい。その取り組みの連鎖が、2050年のカーボンニュートラル達成につながっていくと信じています」
*[Vol.2]では、三菱商事で米国を拠点にBECを推進するプロジェクトチームのメンバーによる座談会の前編をお送りします。
*この取材は、感染症対策に十分留意し実施しました。マスクは撮影時のみ外しています。