技術の進歩で、個人にとって「できない」ことが「できる」ようになるというプラス面はもちろんあると思います。
一方で、同じように「見える」「聞こえる」、となったときの不気味さも感じます。いろんな見え方、聞こえ方の人がいて社会はおもしろいのだと思うし、本来の人類だと思うんです。だから、画一化されることに対する恐れというか、警告を発したい気持ちはあります。
僕が完全に見えなくなったのは13歳のときですから、40年以上、視覚を使わない生活をしている。そうすると、やせ我慢でも強がりでもなく、それが当たり前で、「不自由だ」とか「見えればいいのに」とか思わないんですね。見えないことを含めて、いまの自分ですから。
僕の研究の原点に、琵琶法師や「ごぜ」と呼ばれた視覚障害者の文化があります。
平家物語が有名ですが、全国を旅して音と声で情報を伝える中で、いろんな芸能が生まれました。文字に頼らない口承文芸として価値があると思われたから、何百年と続いてきたわけです。
視覚を「補う」ではなくて、聴覚と触覚という自分たちの強みで立派な生業を成り立たせ、伝えてきた人たちがいたこと。それは僕にとって一つの指針になりました。補って健常者に近づくのではなく、残された感覚を鍛えていろんなことをできるようにする、という発想です。
それと、機器の開発には、意外と当事者視点が抜けていることがあります。
以前、レンズに映ったものを音声で説明してくれるという、めがね型デバイスのモニターを頼まれました。
でも、視覚障害者からすると、顔の感覚でも色々感じるわけです。いまは新型コロナ対策でマスクをしていますけど、何回か、20年も歩いている通勤路で迷ってしまいました。たかが布一枚でも、ずいぶん感覚が変わってくる。
まして、耳に何かつけるっていうのは、普段の聞こえ方と違ってきます。技術だけを追究していると、「視覚の代わりに聴覚で情報を与えればいい」となるのですが、当事者からすると「そうじゃない」ってことが、ままあります。
もちろん、技術の発展の恩恵を受けている部分も多くあります。
1980年代中ごろ、高校2年のときにパソコンが「しゃべる(文字を音声で読み上げる)」ようになりました。目で見えない文字のやりとりができるありがたさを、最初に感じた世代だと思います。
高齢になって見えにくく、聞こえにくくなって不便だという気持ちも分かる気がします。若干矛盾しているかもしれないけれど、僕ら視覚障害者にとって、耳はおそらく健常者以上に大事なものです。年をとって聞こえづらくなってきて、聞こえるようになる技術があれば、飛びつくでしょうね。
ありふれた結論ですが、技術を使えることも保障されてほしいし、「見えないままの自分」が自然に受け入れられ、主張できる環境も残ってほしい。そんなふうに思います。
僕は「触る文化」を語るとき、あえて「視覚障害者の文化」という言い方はしません。
価値観をちょっとずらしてみる。視覚もいいけど、触覚もあるよ。触ってみると、見るだけじゃ分からないことがあるでしょ、と気づいてもらう。マイノリティーのアクセシビリティーを向上させるのではなくて、マジョリティーの世界観を変えようと訴えています。
その文脈からすると、身体拡張の技術が進んで、みんながマジョリティーの側に寄ってくる、みんな一緒になっちゃうのは、つまらないかもしれません。
戦前の国語の教科書に載っていた、江戸時代の全盲の国文学者、塙保己一(はなわ・ほきいち)のエピソードを思い起こします。
ある晩、弟子たちに講義をしていたら、風が吹いてろうそくが消えた。塙先生は全盲ですから、気づかずに講義を続けていたら、弟子が「先生、いま明かりが消えてしまったので、ちょっと待ってください」と言ったところ、先生がしみじみと「目明きというものは不自由なものだ」と言った、という話です。
風が吹いてろうそくの火が消える、そのくらいの小さなことで、我々が当たり前と思っていることがガラッとひっくり返る。いまの常識では、見える人中心で世の中が成り立っているので、見える方が「便利」で、見えないのが「不便」。それが当たり前だと思っているけど、でも、ふわっと風が吹いてきたら変わるかもしれない……。
「常識」と思っているものが常に正しいわけではないんだよ。そんなことを発信していくのが、自分の役割なんだろうと思っています。(構成・荒ちひろ)
ひろせ・こうじろう 1967年、東京生まれ。盲学校から京都大に進学し、研究の道へ。国立民族学博物館准教授(日本宗教史・触文化論)。誰もが楽しめる「ユニバーサル・ミュージアム」の実践的研究に取り組み、昨年、同館で開かれた特別展「さわる! "触"の大博覧会」では実行委員長を務めた。7月に平凡社から「世界はさわらないとわからない」を出版予定。