山本栄二氏(前ブルネイ大使)は1988年から92年まで外務省北東アジア課に勤務した。日本では、1990年5月、盧泰愚大統領が訪日した際の天皇陛下の「痛惜の念」発言が有名だ。
だが、山本氏によれば、北東アジア課は盧泰愚氏の訪日以前から、「日韓の過去に関わる問題、人道的な問題はすべて解決する」という意識で仕事を進めていた。当時の田中均課長(後の外務審議官)が「外交は外国から言われて外圧でやるのではない。日本社会が主体的にやって、もっと国際化し、開かれた国になるべきだ」と主張したことに、課員たちが共鳴していたという。
山本氏は「韓国が民主化したという時代背景もあったかもしれません。私たちは、在日韓国・朝鮮人の法的地位の問題に取り組み、特別永住者制度ができました。指紋押捺の義務制度も廃止し、在日の人々が地方公務員や教員になる道筋もつくりました。サハリン残留韓国人の一時帰国支援、在韓被爆者を支援する40億円の基金、青少年交流もやりました」と語る。
盧泰愚氏の訪日のころには、課内で「もう、日韓関係の仕事はなくなった」という声が出た。北東アジア課の仕事の中心は、90年9月の金丸信・元副総理らによる訪朝など、日朝関係に移っていった。
ところが、1991年8月、韓国で元慰安婦の女性が名乗り出た。山本氏は「日韓のバラ色の時代は1年くらいしか続きませんでした。韓国政府は私たちが取り組んだ成果をほとんど、韓国内に伝えていませんでした。それで、日韓関係が大きな揺り戻しに遭いました」と語る。山本氏は当時、韓国政府関係者に「なぜ、私たちの取り組みをもっと韓国内に広めないのか」と申し入れたことがある。「韓国には、私たちの仕事を過小評価する傾向がありました。韓国の人々は当時、私たちがやったことをほとんど知りませんでした」
91年以降、山本氏ら北東アジア課の仕事は慰安婦と竹島の問題に集中した。同年11月、宮沢政権が誕生した。外務省は宮沢喜一首相の最初の訪問国として韓国を推した。北東アジア課内で「慰安婦問題は大丈夫なんだろうか」という声が漏れた。実際、ソウルの日本大使館には連日、慰安婦問題に抗議する市民たちが押しかけていた。首相秘書官からは毎日、山本氏に「こんな状態で、本当に総理は訪韓できるのか」という問い合わせが入っていた。
それでも92年1月、宮沢首相は訪韓し、慰安婦問題について「実に心が痛み、誠に申し訳なく思う」などと演説した。宮沢首相は真相究明を約束し、それが93年8月の河野洋平官房長官談話につながった。
山本氏はその後、女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)の制度設計に携わった。基金の原資は募金で集め、政府も医療福祉事業費に資金を出した。元慰安婦に償い金の支給や医療支援を行い、首相のおわびの手紙を送ったが、韓国の支援団体が反対運動を展開し、受け取りを拒否する元慰安婦もいた。
山本氏は「韓国では市民団体の力が非常に強く、政府が合意しても、実行に移せないこともよくありました」と語る。元慰安婦の支援団体は2015年12月の日韓慰安婦合意にも反対した。
一方、山本氏は「それでも、金泳三政権(1993~98年)の時代は北朝鮮政策で結束していたので、日韓の友好関係は基本的に維持されていました。当時は第1次朝鮮半島核危機があり、金泳三氏は北朝鮮を嫌っていました。日米韓が同じ船に乗っている時代でした」と語る。
では、金泳三政権時代、韓国側からは日韓関係をどう見ていたのだろうか。
当時、金在信氏(元ドイツ大使)は日本を担当する外務省東北アジア1課の次席を務めていた。「慰安婦問題は日韓国交正常化の時代には全く語られていませんでしたが、韓国社会の民主化に伴い、1989年ごろから女性団体が提起を始めていました。91年8月の元慰安婦の告白で、韓日関係は急速に悪化しました」と語る。
韓国政府は91年12月、日本に真相究明と適正な措置を要求。翌92年1月、省庁横断の対策班も作り、外国資料の収集、申告の受付などを行った。「宮沢首相の国会演説も覚えています。当時、韓国では反日、日本では嫌韓の空気が強まりました」
93年当時、厳しい外交局面が続いたが、金在信氏によれば、「難しいほど、話すべき」「関係改善の努力が必要」という共感が日韓当局間にあった。金氏も、山本氏と同じように「韓国と日本は、お互いが重要だという認識がありました。韓国も北朝鮮問題で日本が重要だという認識でした」と証言する。
金在信氏は93年2月下旬、東京と沖縄に出張した。東京で外務省や国立公文書館を、沖縄では慰安所跡をそれぞれ訪ねた。金氏は出張結果報告書で「わが政府が基金を設置して生活保護措置などを取るべきだ。日本には賠償や補償を求めるべきではない」と主張した。「歴史問題と金銭の問題は分けて考えるべきだと思いました。植民地支配の違法性を認めていない日本に賠償を求めると、問題がより一層複雑になると思ったからです」
93年2月に誕生した金泳三政権は翌3月、慰安婦問題について真相究明が重要であり、物質的な要求はしない考えを表明した。韓国政府が元慰安婦に500万ウォンの基本金と毎月15万ウォンの支援金を負うことも決めた。
金在信氏は「元慰安婦は高齢で解決が急がれていました。日本に物質的な要求をすれば、時間がかかります。過去の不幸な被害者を救うことは民族的自尊心にもかないます。発足したばかりの金泳三政権には、未来志向の関係が重要だという事情もありました」と語る。韓国社会の反応も良く、政権時支持率は80%を超えた。「金泳三政権の補償不要政策と河野談話で慰安婦問題は決着したはずでした」
金在信氏によれば、日本政府は当時、韓国側が河野談話にどのような文言の希望があるのか、非公式に打診していた。韓国側は一切、注文はつけなかったという。
談話が発表される当日の午前2時、金在信氏は1人だけ、東北アジア1課に残っていた。そこに東京の韓国大使館から、談話の最終案についての連絡が入った。「当時、慰安婦の募集を巡る強制性の表現に関心がありました。『総じて本人の意思に反して行われた』という表現で、今後の措置への言及もありました。日本側は誠実に対応してくれました」と語る。
だが、韓国で日本に賠償を求める声が消えなかった。金泳三政権も「韓国政府として請求しないが、個人には強制しない」としたからだ。2011年8月、韓国の憲法裁判所が、慰安婦問題の解決に努力しない韓国政府の姿勢が憲法に反すると判断し、日韓関係はさらに難しくなった。
金在信氏は「司法判断が出てきて、外交がさらに難しくなりました。外交を法律で決着させるのは難しいのです」と語る。李明博政権時代の11年12月、京都での日韓首脳会談では、慰安婦問題を契機に関係が更に悪化した。
日本ではその後、河野談話への批判が相次ぎ、第2次安倍政権では検証作業も行われた。
金在信氏は「今は、外交当局だけではなく、指導者もお互いが仲良くしようという意思が薄れているように感じます。北朝鮮や中国に対する立場にも差があるし、お互いが国内政治に利用している側面もあるでしょう。最近10年間、韓日関係は悪化する一方です。Enough is enough(いい加減にしてくれ)という気持ちになります」と語る。
金在信氏は38年間の外交官生活で、東北アジア1課に4回勤務し、日本の韓国大使館に2回勤務した。「フィリピン大使とドイツ大使だった時を除き、ほとんどが日韓関係に携わる毎日で、美しい思い出もたくさんあります。尹錫悦政権で改善が少しずつ進むと願いたいものです」