シンガポール中心部から車で15分、行列のできる屋台として知られる「Loo's Hainanese Curry Rice(ルーさんの海南カレー)」には2月末、珍しいメニューが登場していた。
ココナツミルクの甘みとスパイスのメリハリが利いた独特のカレーの上に並んでいたのは、米国の食品ベンチャー、イートジャストが開発した特殊なナゲット。ニワトリの羽根の細胞から培養した肉と、植物由来の材料を使った「卵」製品でできている。
イートジャストでメニュー開発などを担うシェフ、ザック・ティンドールさん(31)が、揚げたてのナゲットを盛りつけてくれた。
ゆっくり味わってみる。カラッとしたころもの中から広がるのは、まさに鶏肉の味。奥歯ですりつぶすと、その風味が深く口の中に広がる。
おいしい。が、言ってしまえば「ただのチキンナゲット」でもある。
「どんな鶏料理にも合うよ。だって鶏肉だから」とティンドールさん。
この日の試食会では、カレーとおかずのセットが4シンガポールドル(約360円)で提供された。ただしこれは試食会用の限定価格だ。
屋台のオーナー、ルー・キアチーさん(62)は「従来の鶏肉と変わらないが、定番メニューにできるかというと、まだ難しい。小さいし、値段がいくらかにもよる」と言う。
イートジャストが、シンガポール当局から培養鶏肉を使ったナゲットの製造・販売の認可を得たのは、2020年。培養肉の販売認可は、世界初だった。
昨年4月には、中心部のホテルにある高級レストランが、このナゲットを使った料理のデリバリー販売を開始。数量限定だが、週1回の販売を続けている。こちらは、価格はナゲットが三つのったチャーハンが2000円ほど。高額ながら売り切れることも多く、いまのところ手軽に食べられる商品ではない。
それでもイートジャストの共同創業者、ジョシュ・テトリックさん(42)は言う。「いま規模拡大を準備している。最終的には年間約6800トンの生産をめざす。そうなればスーパーで手に入るし、価格も下がる。誰でも食べられるものをめざしている」
メニューの拡大も視野に入っている。昨年12月には、新製品の販売認可をシンガポール当局から得たと発表。ナゲットのようにミンチを使うものではなく、肉の塊を使う商品の開発も進めている。同月にはむね肉の試食会も開いた。
シェフのティンドールさんは「長い繊維を持つ、まるごとの肉と言える商品が近く出てくる。使える料理の幅は、大きく広がるだろう」と期待する。
培養肉市場は、今後どう広がっていくのか。みずほ銀行のアジア大洋州部門で食品・小売業を担当するJY・チョウさんは「シンガポールでの試みは、いまのところ成功と言える。今後は消費者の需要と、生産者からの供給、どちらも規模を拡大していけるかどうかが鍵になるだろう」とみる。
生産者側には、勢いがある。
代替たんぱく質の業界団体、グッド・フード・インスティテュート(GFI)によると、21年に培養肉や培養魚肉の関連企業が集めた投資は、世界で約14億ドル(約1750億円)。前年の約4億ドル(約500億円)から3.5倍に膨らんだ。シンガポールでも、様々な企業が培養肉の開発に取り組んでいる。
では、消費者側はどうか。チョウは「消費者にとって大きいのは、安全性。世界でも厳しい食品規制を持つシンガポールが培養肉を認可したことが、安心感につながっている」とみる。
シンガポール政府は、少なくとも過去20年にわたって人類が食用にしていなかった食品を「ノベル・フード(新食品)」と定義している。19年には、そうした新食品の規制の枠組みをまとめたほか、20年には専門家委員会も立ち上げて、安全性の審査体制を整えてきた。こだわるのが「科学ベース」の審査だ。
新食品を開発したい企業は、その材料や技術の詳細、潜在的なリスクの評価などについて政府に報告する。政府側は専門家の意見を取り入れつつリスクを評価し、さらにそのリスクを取り除く措置が取られているかどうかを判断する。
「安全への懸念を解決し、基準に達した製品だけが、市場に出ることを許される」。食品庁はそう強調している。
それでも、新食品への期待は大きい。背景にあるのが、コロナで高まった食料調達への危機感だ。
シンガポールは面積の限られた都市国家。食料の9割は輸入に依存している。それを少しでも改善しようと、30年までに必要な栄養素の30%は自給できるようにするのが目標だ。
小さな都市国家がめざす食品技術の合言葉は、“Grow More with Less(より少なく使い、より多くを育てる)"。培養肉は、その有望株のひとつなのだ。