山本氏が初めて訪朝したのは、金丸信元副総理らに随行した1990年9月だった。
金日成主席は突然、金丸氏と2人だけの会談を求めたうえ、日朝国交正常化交渉を提案し、山本氏らを驚かせた。金日成は山本氏ら随員一人一人に人参酒を注いで回った。「北朝鮮のやり方はいつもゲリラ的。金日成が指揮した抗日パルチザンに、北朝鮮外交の原点があると思いました。金日成は政治家としてもしたたかでした」と語る。
北朝鮮の実情も目の当たりにした。北朝鮮で大量の餓死者が出た「苦難の行軍」から数年後の98年、山本氏は北朝鮮の地方都市を巡った。道路ですれ違う車両はほとんどなく、代わりにリュックを背負った人々が歩いていた。山本氏の脳裏には、食糧難だった戦後の日本の姿が重なった。
北朝鮮が「革命の首都」と自画自賛する平壌と地方の格差も歴然としていた。
山本氏らが乗った車両が、平壌から南方にある沙里院市を通過した。「建物には看板が何もありませんでした。品物を売ったり、おしゃべりしたりしている人もいません。街全体に色がありませんでした。ただ、生気の感じられない人々が、行く当てもないように歩いていました」と語る。
農村地帯には樹木がなく、赤茶けてひび割れた大地が続いていた。日本から同行した農業専門家が「草も木も燃料代わりに伐採したんだろう。土地の保水能力がなくなって、ひび割れている」と分析した。農村地帯の家の窓にはガラスが全くなく、ビニールでふさいだ窓が何カ所かあるだけだった。
何度か訪朝しているうちに、北朝鮮の変化に気づくこともあった。
2002年9月、初の日朝首脳会談の準備のため、平壌に10日間ほど滞在した。手が空いた時間に、市内を一人で散策した。ふらっと入った店では、ドーナツや野菜の値段がドル表示になっていた。配給制が崩れ、市場経済が始まっていることを実感した。
宿舎に戻ると、北朝鮮の担当者が「山本さん、あまりウロウロしないでください」とやんわりとクギを刺した。脱北者によれば、北朝鮮市民には外部の人間を目撃すると、分駐所(駐在所)などに通報する義務がある。山本氏の記憶では、当時はそれほど監視の目が厳しくなかったという。
2004年5月、2回目の日朝首脳会談の準備で訪朝した。山本氏にとって最後の訪朝になった。
大同江迎賓館で、小泉純一郎首相と金正日総書記の首脳会談が始まった。記者団による冒頭取材後、しばらくして騒ぎが聞こえた。日本メディアの1人がプレスセンターに戻るバスに乗り遅れた。北朝鮮にとって、最高指導者の身辺警護は国家の最優先課題だ。迎賓館周辺は完全封鎖されていた。
バスに乗り遅れた記者は「記事を送稿できない」と真っ青になった。山本氏は最初の訪朝の時から顔見知りになっていた金正日氏の儀典長に「何とかならないか」と頼んでみた。儀典長が「あの人に頼みなさい」と指さしたのは、金正日氏の警護隊長だった。腰には自動小銃が入ったとみられるケースをさげていた。山本氏が事情を話すと、警護隊長は二つ返事で、一時封鎖を解除してくれた。山本氏は、このときも北朝鮮との間の「小さな信頼関係」を実感した。
もちろん、北朝鮮は簡単な相手ではない。山本氏は金丸訪朝団以降、日朝国交正常化交渉の席などで、たびたび、したたかな北朝鮮外交を目撃した。「北朝鮮は常に様々なカードを準備していました。最終的な局面まで温存したり、逆に同じカードを状況を変えながら何度も使ったり、一筋縄ではいきませんでした」
外交交渉は、いつも北朝鮮の「儀式」(山本氏)から始まった。北朝鮮の代表は朗々と、自国の立場と原則を演説した。代表団に加わっている秘密警察などの目を気にし、最高指導者に対する忠誠心をまず示す必要があったからだ。
米国も同じ経験をしていた。朝鮮半島和平協議担当特使を務めたチャールズ・カートマン氏は「北朝鮮はいつも、我々ではなく平壌に向かって演説していました」と語る。
山本氏は「しかし、やはり外交交渉は必要です」と語る。同氏によれば、北朝鮮は日朝国交正常化交渉で当初、「金日成主席は日本軍と戦ったから、我々は日本の交戦国だ」と主張し、「経済協力ではなく賠償せよ」と主張した。山本氏らは、当時の朝鮮半島が日本統治下であったことや1965年の日韓請求権協定などを説明し、「賠償はあり得ない」と粘り強く説得した。
その結果、北朝鮮は徐々に態度を変えた。2002年9月の日朝平壌宣言も「経済協力」に言及する一方、「賠償」という言葉は使わなかった。
もちろん、わからないこともある。山本氏は「北朝鮮は、意思決定のプロセスを見せません。誰が関与しているのかも、わかりません」と語る。
山本氏の著書で出てくるのも、北朝鮮外務省、朝鮮労働党の国際部、統一戦線部に所属する人物に限られる。核・ミサイル開発に影響力がある軍や日本人拉致被害者を管理しているとされる国家保衛省(秘密警察)は出てこない。「米国や韓国なら、誰が水面下で根回ししてくれたのか、わかることが多いのですが、北朝鮮はそうはいきません」
山本氏はこうした経験を通じ、無条件での日朝首脳会談の開催を呼びかける日本政府の対応に助言を送る。「トップ外交が大切だという主張はよくわかります。でも、相手がどんな独裁国家であろうと、下準備は必要です」
2002年の日朝首脳会談で、金正日総書記は日本人拉致の事実を初めて認めた。首脳会談に至る前には、当時の田中均外務省アジア大洋州局長らと北朝鮮国家安全保衛部の柳敬第1副部長らによる綿密な下交渉があった。山本氏は「そればかりではありません。北朝鮮は1999年12月の日朝赤十字協議で、日本人行方不明者の調査を約束していました。首脳会談で突然解決したわけではなく、2年も3年も前からシグナルが出ていました」と証言する。
山本氏はこうした自らの経験から、日朝の間で外交チャンネルの構築を目指すべきだと指摘する。外務省では今、日朝交渉の経験がある外交官が減り続けている。「連絡事務所ができても自由な行動はできないしょう。でも、外務省や党の関係者と話したり、食事をしたりして意思疎通はできます。街の情報も手に入ります」
山本氏は「金正恩は血も涙もないリーダーだとも言われますが、人間です。北朝鮮の関係者と一緒に仕事をして信頼関係が生まれることもあります。それが交渉の邪魔になることはないでしょう」とも語る。
山本氏によれば、北朝鮮が過去、日本に大きく接近したきた時期は2度あった。1990年の金丸訪朝と2002年の日朝首脳会談だ。山本氏は「圧力が大事だといいますが、実はこの二つの機会に日本から北朝鮮に圧力をかけたことはありませんでした」と語る。
「金丸訪朝団が実現したのは、当時のソ連が北朝鮮への経済支援を打ち切ったからです。日朝首脳会談は、米国のジョージ・W・ブッシュ政権が北朝鮮を悪の枢軸と呼び、アフガニスタン侵攻などの姿を見せたからです」
現在の国際情勢をみた場合、日本に北朝鮮の外交方針を変更させるほどの影響力がないように見える。山本氏は「日朝関係を動かすためには、国際政治の地殻変動が必要かもしれません。でも、その変動が起きたとき、一気に解決できるように準備をしておくことが必要です。最低限のコンタクトは必要でしょう」と指摘する。
ロシアによるウクライナ侵攻を契機に、北朝鮮はますます核保有に強い意欲を示している。金正恩氏の実妹、金与正朝鮮労働党副部長は4日付の談話で、韓国に核兵器を使用する可能性に言及した。国際社会がロシアや北朝鮮に厳しい制裁を科すなか、中国を中心にした3カ国のブロック体制も進みそうだ。日本の北朝鮮外交に厳しい状況が続くだけに、政府の関係者や国会議員らは、山本氏の指摘に耳を傾ける必要がありそうだ。
やまもと・えいじ 1957年、大阪府出身。80年、外務省入省。外務省北東アジア課首席事務官、駐国連公使、駐韓国公使、トロント総領事、ブルネイ大使などを歴任し、2021年12月に退官。著書に「現代韓国の変化と展望」(論創社)などがある。