人類が火星に行くようになれば、突きつけられる問いがある。「宇宙は誰のものか」
米国がリードする火星探査だが、欧米、中国などに次いで名乗りをあげたのがアラブ首長国連邦(UAE)だ。2020年7月、UAEの火星を周回する探査機「アルアマル」が日本のロケット「H2A」で鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。
UAEは17年、100年後の2117年までに火星に60万人都市をつくることを宣言した。火星探査機はその「第一歩」という位置づけだ。
内閣府宇宙政策委員会専門委員としてUAEを担当する秋山演亮・和歌山大教授(52)は、打ち上げの際に来日した科学担当の大臣との会話が印象に残っている。「アルアマル」とは「希望」の意味で、欧米諸国が中心の宇宙開発にUAEが参入することは、イスラム系の中東諸国にとっての希望なのだ――。大臣がとうとうと訴える姿に、「欧米中心の地球を飛び出し、火星に理想国家をつくろうという意志を感じた」。
だが、宇宙は「先に行った人や国、企業が使えるもの」なのか。安全保障など宇宙空間の利用にはどのような制限がかかるのか。そもそも人類が宇宙に行く、さらに移住する意味は何なのか。火星に移住する場合、国家か企業か誰が計画を担うべきか。火星の環境を変えていいのか。こうした議論は、火星への有人飛行や移住が現実的になる前に必要ではないか。そうでなければ、先行する国や企業が議論の枠組みをつくってしまう懸念が生じるのではないか。
そうした様々な問題を考える「宇宙倫理学」の必要性を訴えているのが、伊勢田哲治・京都大教授(53)だ。4月から理系・文系の両方から参加する宇宙倫理学の教育プログラムを、京大宇宙総合学研究ユニットで始める。「世界的にも宇宙倫理学は萌芽(ほうが)的な段階にあり、初の試みではないか。宇宙倫理学の専門家を育てるのではなく、倫理学の知識を持った様々な分野の専門家を養うプログラムだ」と話す。
伊勢田さんが喫緊の課題としてあげるのは「月や火星などの資源は誰のものか」という問題だ。1967年に発効した「宇宙条約」は、国家による天体の領有は認めていないが、資源の所有は明確に禁じていない。米国の「アルテミス協定」は、基本的に「月の資源は行った人が使っていい」という考え方で、米国のほか日本や英国、カナダ、ルクセンブルク、UAE、ウクライナなどが署名しているという。
その根拠について伊勢田さんは、17世紀の英国の哲学者ジョン・ロックの所有論をあげる。「誰のものでもないものに労働を加えた対象は所有してよい」という考え方だが、「他の人に十分残されている場合」というただし書きがついており、「月の資源の希少性をどうとらえるか」が協定の正当性を左右するとみる。
そのように、「現在の国家の力関係は置いておいて、理屈で考えるのが倫理学だ」と伊勢田さんは説明する。NASAエイムズ研究センターで火星のテラフォーミング(地球化)を研究している、クリストファー・マッケイさんは「過去と現在を分析するのは科学だが、未来のことを考えるには倫理学が必要だ」と語った。火星という「人類の未来」の場に地球上の国家の利害を持ち込む愚は避けなければならない。