白戸ゼミは「ジャーナリズムの実践」をテーマに活動しており、学生たちが自由にテーマを設定して関係者を取材し、活字や映像で発信する取り組みを実践している。
学部では毎年1回、各ゼミが学習成果を発表する「オープンゼミナール大会」が開かれており、2021年11月3日に開催された大会には、私のゼミから2チームが参加した。番組を制作して発表したのは、このうちの1チーム。チーム名はリーダーの3回生、溝内彩加さんの名前に引っ掛けて「みぞうちーむ」。メンバーは3回生7人であった。
ゼミナール大会を約4カ月後に控えた2021年6月末、「みぞうちーむ」の学生たちが、「テレビ番組における障がい者の描き方について取材し、ゼミナール大会で発表したい」と言い出した。東京パラリンピックの開催が約2カ月後に迫っており、障がいのあるアスリートがテレビに登場する機会が増えている時期であったが、学生たちは「テレビ番組における障がい者の描き方に、しばしば違和感を覚える」と言う。
■「気の毒な人が頑張っている」への疑問
学生たちが「違和感を覚える番組の典型」として挙げたのは、日本テレビが1978年から毎年8月下旬に放送している長寿番組『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』であった。『24時間テレビ』は社会福祉などのために視聴者から寄付を集めることを目的の一つとしている。番組の中には、障がいのある人がタレントらとともに登山や遠泳などに挑戦する姿にカメラが密着し、ドキュメンタリー風に編集して放映するコーナーがある。
「みぞうちーむ」のメンバーの一人、新田智華さんには、『24時間テレビ』に出演した経験のある知人男性がいた。男性には左ひじから先が欠損している障がいがあったが、クロスカントリーなどのウィンタースポーツに熱心に取り組んでおり、明るく快活な人であった。
しかし、男性の出演した『24時間テレビ』を見て新田さんは、男性が「生まれつき障がいのある気の毒な人」として紹介されているように感じた。さらに、男性が得意なウィンタースポーツに興じる姿は放映されず、一度も経験のない和太鼓の演奏を芸能人と一緒に黙々と練習する姿がクローズアップされ、男性の「ひたむきさ」ばかりが強調されているようにも見えたという。
実生活を通して知っている男性と、番組で描かれている男性のあまりの違いに違和感を覚えた新田さんは、「みぞうちーむ」の仲間たちに「メディアによる障がい者の描き方」を取材テーマとすることを提案した。
男性が和太鼓に挑戦する様子を視聴したリーダー溝内さんも、番組に同様の感想を抱き、私に次のように説明した。「日本のテレビを見ていると、障がい者はいつも『気の毒な境遇だが、困難に負けずに頑張っている人』として描かれ、視聴者は過剰な演出によって感動を押し付けられているように感じます。障がい者にも色々な人がいるはずであり、そうした型にはめた描き方で良いのか疑問があります」
■自分たちで番組を作ってみた
7月に入り、「みぞうちーむ」の学生たちは、「何らかの障がいのある人を被写体としたドキュメンタリー番組を自主制作し、ゼミナール大会で多くの教員や学生に見て批評してもらう」というアイデアを私に提示してきた。
「テレビにおける障がい者の描き方はおかしい」と批判するのはたやすい。だが、自分たちが番組制作者となった時、どのように障がい者を描くことが「正しい描き方」なのか。番組制作を通して考えてみたいというのである。私は取材を進めるに当たってのいくつかの注意点のみを伝え、ゼミナール大会まで見守ることにした。
学生たちの被写体になったのは、京都市在住の宇田隆さん(38)だ。筋ジストロフィーのため、首から下を自力で動かすことができない。自宅ではヘルパーの男性の力を借りながら暮らし、外出時にはヘルパーとともに車いすで移動している。溝内さんの父秀基さんは小学校の校長で、秀基さんはかつての教え子だった。学生たちの依頼を、宇田さんは快諾した。
「みぞうちーむ」は2021年8月19日~10月3日の間に計5回、宇田さんにインタビューし、生い立ちや障がいに関する考えなどを語ってもらった。2台のカメラが宇田さんに密着し、自宅での暮らしぶりや外出先の様子を撮影し続けた。
学生たちは大学の障がい学生支援部署、支援団体の人々、宇田さん以外の障がい者にも取材先を広げ、障がい者を取り巻く問題に関する理解を深めていった。京都の街角でも道行く人々に取材を重ね、「テレビにおける障がい者の描き方」に関する市民の声も集めた。
10月初旬までに、「みぞうちーむ」の手元には、宇田さんへのインタビューをはじめとする各種の録画映像が蓄積され、人々の声や様々なデータが集まった。
■同じ素材から2種類の番組
ここからが問題だった。ゼミナール大会で人々に映像を視聴してもらうためには、一定の長さの番組に編集せざるを得ない。では、集まった無数の事実の中から何を選び、何を捨てるべきなのか。何が伝えられるべき事実であり、どう伝えることが「正しい」のか。
視聴者に感動を押し付けているかに見える『24時間テレビ』の編集方針への違和感が活動の原点である以上、同じような方針で映像を編集したくはない。では、それに代わるべき「描き方」とはどのようなものか。
議論の末、『みぞうちーむ』は、宇田さんへのインタビューを素材に用いて「A」と「B」という2本の番組を制作することにした。
番組Aは、「生まれつきの障がいによって、様々な活動を制約されてきた人」として宇田さんを描く。宇田さんが子供時代の様々なエピソードをカメラの前で語る際には、悲しげなBGMを流し、厳かなナレーションを加えて宇田さんの「つらさ」や「悔しさ」を強調する。日々の暮らしの様子については、「体が不自由なので苦労の連続だが、宇田さんは決して負けない」というトーンで描く。学生たちがモデルとしたのは『24時間テレビ』である。
一方、番組Bは、Aとは全く異なる方針で編集することにした。Bの編集方針は「被写体の宇田さんの意向を尊重しつつ、自分たちが宇田さんに対して抱いた印象を加味して制作する」であった。この方針には次のような経緯の末にたどり着いた。
京都の街角で行った健常者への取材では「障がい者が頑張っている感動的な映像を見ると、自分は恵まれているなと感じる」「『24時間テレビ』は、障がいについて知るきっかけとして必要な番組であると思う」といった回答が少なくなかった。
だが、学生たちは、宇田さんへの取材で、いくつもの印象に残る言葉やエピソードを聞いていた。例えばリーダーの溝内さんは、次のようなやり取りが強く印象に残っている。
(学生)周りの人の言動で不快だったことはありますか?
(宇田)「頑張って!」という言葉に不快感を覚えます。普通の生活をしているだけなのに、「何を頑張るん?」
宇田さん以外の障がい者や支援団体の人々からも、「みぞうちーむ」の学生たちは次のような言葉を数多く聞いていた。
「障がい者が『24時間テレビ』やパラリンピックでしか光が当たらず、輝けないというのは問題ではないでしょうか」
「現在のテレビでは、健常者と障がい者が明確に区別されている点が嫌いです。バラエティー番組の出演者はほぼ100%健常者。障がいを持った人が普通にバラエティー番組に出演するなどの工夫が欲しい。障がい者としてではなく、一人の人間として見て欲しいと思います」
障がいのある当事者や支援者たちからこうした言葉を聞いてきた「みぞうちーむ」の学生たちは、宇田さんの「富士山に登って頑張っている姿ではなく、ありのままの日常を撮影して欲しい」という言葉を重く受け止めた。そして、宇田さんと周囲の支援者への取材を通じて、宇田さんがちゃめっ気やユーモアにあふれた人柄であることを感じ取り、その印象を動画の編集に反映させることにした。こうして生まれたのがBの編集方針であった。
■「当事者の意向」常に正解とは限らない
こうして完成した番組は、AとBを合わせて全編31分18秒。ゼミナール大会で大学の教職員と学生合わせて約200人に視聴してもらったところ、「同じ素材でも、BGMやナレーションによる演出の仕方を変えるだけで、視聴者に伝わるメッセージが180度変わることが興味深い」「『24時間テレビ』に抱いていた違和感の理由がよく分かった」といった反応が少なくなかった。以下、全編を約6分に再編集した映像を見ていただきたい。
一方、メディア研究を専門としている教員からは、「『24時間テレビ』をモデルにした番組Aを否定的に捉え、宇田さんの意向を尊重した番組Bがあたかも『真実』を伝えているとの前提に立っているようだが、そもそもBの描き方が『正しい』となぜ言えるのか」といった指摘も寄せられた。
「被写体の意向を反映させた編集方針こそが、事実を伝えるために最良の方法である」と考えていた「みぞうちーむ」の学生たちにとって、これは想定外の指摘であったようだ。
私はゼミナール大会後のゼミで、「テレビにおける障がい者の描き方に偏りが見られる現状では、被写体の障がい者の意向を反映させた編集の仕方には大きな意味がある」と学生たちの取り組みを評価しつつ、「ただし、取材に応じてくれた被写体の意向を尊重することが常に正しい番組の作り方であるとは言えない」と次のような例を挙げて説明した。
「例えば、政府・与党の政策の妥当性を検証するドキュメンタリー番組には、多数の政治家や官僚が被写体として登場し、インタビューにも応じる。しかし、だからと言って彼らの意向を反映して番組を編集したのでは、政府の宣伝番組にしかならず、政策の妥当性は検証できない。番組制作者は、あらゆる個人と組織から独立して編集方針を自分で決めなければならない。それがジャーナリズムの原則の一つである」
番組制作を終えた7人の学生たちが提出したレポートには、一連の取材と編集を通して考えたことが記されていた。
「過度な演出は時に出演者を苦しめることすらある。番組を制作する側には、出演者の意思と制作者の意図に齟齬(そご)が生まれないように、制作段階から丁寧なコミュニケーションが要求される」
「制作者が演出や脚色によって視聴者が見たいコンテンツを作り上げれば、視聴者の興味・関心を引くという観点において絶大な効果を発揮できる。視聴率優先のテレビ局による変革が困難である以上、視聴者の側が批判的・多角的な視点で情報を捉えるために、メディアリテラシーを高める必要がある」