――「列伝」を書いたきっかけは?
これは編集者さんから持ちかけられた話なのです。この本の2年前に同じ西東社から『ビジュアル百科日本史1200人1冊でまるわかり!』という本を出しました。その仕事が一段落し、一緒に食事をしているときに「今度はナンバー2だけ集めたらどうだろうか」と提案されて、もしかしたら自分が考えていたことが伝わったのかなと思い、一も二もなく引き受けました。
もともと歴史の専門家というわけではありません。小中学校の社会では歴史が好きでしたが、その後はだんだん覚えるのが大変になって、どちらかというと敬遠していました。30年近く教育系出版社で学習誌の編集に携わっていたから中学生レベルで理解できる文章を書けるだろうと、『1200人』の話をもらった時も半分ぐらいしかピンと来ませんでした。
それが資料を集め、原稿を書くにつれて、どんどん興味が湧いてきたのです。学校で学ぶ歴史にはほとんどトップしか出てきません。しかし、社会に出てさまざまな人間関係を知ってから歴史本を読むと、歴史上の人物が思惑や感情を持った存在として生き生きと現れてきます。とりわけ面白く感じたのが、ナンバー2の人間くささでした。
――しかし、1200人も扱う本だとナンバー2に割ける行数は限られそうですね。
その通りです。例えば牛若丸(源義経)に返り討ちにされ、家臣になった武蔵坊弁慶は、義経が兄頼朝に追われても義経のために奮戦し「立ち往生」したと伝えられています。戦国の猛将山中鹿介(鹿之介)は、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の再興を期し、出家していた尼子勝久を還俗(げんぞく)させて毛利に挑みましたが敗北。勝久は自害し、鹿介も毛利輝元らと差し違えようとしたものの果たせず殺されました。こうしたエピソードは抜群に面白いのですが、ナンバー2や一戦国武将の家臣といった歴史の傍流に割ける行数はほんのわずか。「ナンバー2について、もっと書きたい」という思いが募っていたのです。
――「列伝」では、北条義時や、新選組副長の土方歳三といった典型的なナンバー2だけでなく、後の天下人豊臣秀吉や徳川家康などのナンバー2時代も取り上げていますね。
歴史通の編集者さんが挙げてきた人物が、私が思っていたよりずっと多かったのです。推古天皇の摂政だった聖徳太子や、天皇家に娘を嫁がせて外戚・摂政として権勢を振るった藤原道長なども、天皇のナンバー2と見なせるんだ、秀吉、家康のように「一過性のナンバー2」もいるんだと、気づかされました。
――その中で「これぞナンバー2」と挙げるなら誰ですか。
まず島左近。石田三成の参謀ですね。三成自身、後に秀吉のナンバー2になるわけですが、左近はその三成のナンバー2でした。
大和(奈良県)の弱小大名筒井順慶の家臣として、宿敵松永久秀の攻勢を再三しのぎ、勇将として名をはせました。順慶が病没すると、跡目の定次と合わずに出奔。近江で隠遁(いんとん)生活を送っていたところへ、領主で秀吉の重臣だった三成が訪ねます。
三成は左近より20歳ほども若く、自らに欠ける戦場での指揮能力を補ってもらおうと考えました。門前払いされても、三顧の礼といいますか、渾身(こんしん)の依頼をするわけです。自分は力も弱いし、リーダーシップもない。だけど、秀吉様に期待されていて、応えて天下を取らせたい。そのためなら、自らの俸禄の半分2万石を差し出すと。左近もこれには驚いて、この人は本当に欲がなく、秀吉のために命をかけようとしているんだと思い、「分かった」と。
その後、左近は三成よりずっと年上ですから、主従関係はあっても、もう友だちのような感じだったと書かれています。なんでも話し合い、三成のためと思えば遠慮なく意見し、三成もそれを受け入れました。人々は「三成に過ぎたるものがふたつあり、島の左近と佐和山の城」とうたいました。
関ケ原の戦いで西軍が敗勢になると、三成は左近とともに果てたかったと思うけれど、秀吉の子秀頼を後見する役目があって自害できないわけです。左近は瞬時にそれを悟って、三成を逃がすために東軍本陣へ突進し、盾になって討ち死にします。奮闘ぶりは東軍の武士が何年も夢でうなされるほどだったといいます。
――なるほど。
ナンバー1は大勢の人に愛され、信頼されることが必要ですが、ナンバー1に心酔しているナンバー2にとってはその主人ひとりの評価、愛さえあればいい。ありがとうっていうか、本当お前しかいないよっていう、その言葉だけで生きていけるんじゃないかな。こうしたナンバー1とナンバー2の絆にひかれますね。
幼い伊達政宗に仕えた片倉景綱(小十郎)は、天然痘で失明した右目を気に病んで引きこもりがちになっていた政宗が「もう俺の目をえぐり出してくれ」と言うと、将来のためにもそれがいいと、政宗の同意を得て実行するんです。結構すさまじいですよね。景綱はその後40年にわたり政宗の参謀を務め、何度となく危機を救いました。
梶原景時は平氏方なのに、挙兵した源頼朝を追い詰めながら見逃します。なぜ逃がしたのかは謎ですが、翌年、頼朝が再起すると景時は富士川の戦いで敗れて降参します。大将は首を切られますが景時は許されて頼朝の御家人になり、重用されました。頼朝も景時に汚れ役を全部任せます。多分ひどいこともやっていたのでしょう。頼朝が死ぬと、滅ぼされてしまいました。
――トップとうまくいくナンバー2ばかりではないですよね。
逆のパターンといえば、太田道灌ですね。扇谷上杉氏のナンバー2だったのですが、主君に愛されなかった不幸が切ない。道灌は上杉政真・定正の2代にわたって仕えるのですが、定正の代になって、本家の山内上杉氏は道灌の手腕で扇谷上杉氏が強大になることを恐れます。そこで道灌に謀反の企てありとうわさを流すと、定正はこれを信じてしまうんですね。優秀な道灌への嫉妬や恐怖が定正にあり、意見を求めた道灌の同僚らも道灌を中傷したといわれます。定正に入浴を勧められ、丸腰になったところを襲われた道灌は死の間際、「当方滅亡」と叫んで扇谷上杉家の滅亡を予言し、その通りになるんですね。この扇谷はもうダメだ、人を信じられないやつはダメだという叫びですね。
悲劇ですし、道灌はすごく優秀な武将だったので、もっと良い主従関係が築けていれば歴史は変わっていたかも知れません。
――社会に出てからの方が歴史は面白く感じられるという話でしたが、ナンバー2に心ひかれるのは個人的な経験も影響しているのですか。
歴史を調べていて、自分の仕事や人間関係を重ね合わすと、非常に面白くなるということです。
私は根っからのナンバー2気質だと思っています。勤めていた出版社では、それぞれ編集長、副編集長がいる12のチームに分かれて、小1~小6の学年ごとに2種類の学習誌を発行していました。編集長も副編集長もいろいろな人がいましたが、私が一番幸せだったのは副編集長の時でした。編集長の示す漠然とした方向性をどうすれば形にできるかを考え、提案が受け入れられ、任せてもらって部下たちと実現していくことが何よりもうれしかった。自分が編集長になった時は風当たりが厳しいし、自分で記事を作りたい気持ちが強く、副官を十分信頼しきれなかったと思います。
そうしたことを振り返りながら、このとき主君は何を考えていたのだろう、ナンバー2はどうしてこう動いたのかな、自分だったら同じ決断ができるだろうかなどと考えを広げていくのは楽しいですよ。