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殺人すら正当化する集団心理 半世紀前のミステリーがベストセラーに

Bestsellers 世界の書店から
相場郁朗撮影

貧困にあえぐ小都市に、亡夫の巨万の富を相続したクレールが50年ぶりに帰郷する。市は彼女の援助を期待して盛大な歓迎式典を催す。若き日の恋人で次期市長候補のイルは、クレールへのとりなし役を任される。

7人目の夫と従者たちを引き連れて到着した老貴婦人は、莫大な援助を表明する。唯一の条件は「イルを殺すこと」。実はイルはかつて、裕福な家の娘と結婚するために、彼の子を妊娠したクレールをふしだらな女に仕立て上げ、故郷から追い出したのだった。

市民たちは当初、文明人の誇りは売らないと、イル殺しを拒絶する。だが翌日から、皆が急に贅沢を始め、イルの過去の悪行を非難するようになる。身の危険を感じるイルだが、警察も牧師も市長も良心の呵責だろうと相手にしてくれない。市民からの「自殺しろ」という無言の圧力はどんどん増していく。

やがて腹をくくったイルは、殺すなら殺せ、だが自殺して市民の手間を省いてやりはしないと宣言。市民会議が開かれ、誰も明言しないままイルの死刑が決まる。「金のためではない、正義のためだ」――。

『老貴婦人の訪問』はスイスの巨匠デュレンマットの代表作で、1956年に書かれた。筆者の最も好きな作品だ。日本ではなじみの薄い戯曲形式で書かれており、もちろん舞台での上演が前提だが、文学作品としても広く読まれている。

読者は当初、イルの過去のひどい仕打ちに憤り、彼が追い詰められ、おびえる様に留飲を下げる。ところがそれもつかの間、やがて、金欲しさに倫理観を手放し、もっともらしい理由でそれを正当化する市民たちの集団心理と偽善に背筋が寒くなる。

市民の欺瞞がまかり通っていく様の描写は圧巻だ。かつてクレールを蔑み、追い出したのと同じ群衆が、いまイルを追い詰めていく。最後には正義を大義名分に、皆が無自覚のうちに殺人を正当化するまでになる。

作中、クレールが終始一貫して穏やかなのが印象的。イルの過去の仕打ちを非難もせず、市民にイルを殺させるという決断をイル本人に対して正当化もしない。辛酸をなめてきた彼女は、人間のおぞましい面を知り尽くしているからだろうか。古典とも呼べるこの作品が、いま読まれていることの意味を思う。

■正気と狂気の境界線

『老貴婦人の訪問』と並んでデュレンマットの戯曲がもう一作リスト入りしている。『物理学者たち』は1961年出版、1962年初演。1980年に著者が読み物として改訂した。

富裕な精神病患者が暮らす、ホテル並みの超高級医療施設で、患者が担当看護師を絞殺する事件が発生。犯人は自分をアインシュタインだと思っている物理学者。実はつい先日も、同じ施設で自分をニュートンだと思っている物理学者が担当看護師を絞殺したばかり。だが加害者はいずれも精神疾患のため、罪には問われない。

施設に入院している物理学者は全部で3人。3人目は自分をメビウスだと思っており、古代イスラエルのソロモン王が姿を現して語りかけてくると主張している。あるときメビウスの家族が面会にやってくる。元妻が再婚して、子供たちを連れて新しい夫とともにマリアナ諸島へ移住することになったため、別れを告げに来たのだ。ところが、子供たちが父のために楽器の演奏を始めると、メビウスは急にわけのわからないことをわめいて家族を追い出す。

ひとりになったメビウスのもとに担当看護師のモニカがやってくる。そして、メビウスに愛を告白する。モニカはメビウスが精神病ではないことを自分は知っていると言い、結婚しようと誘う。その愛に応えるかに見えたメビウスだが、次の瞬間モニカを絞殺する。

実はメビウスは、世界を根底から覆しかねない重要な物理学的発見をした天才だった。自身の発見が世間から誤解され、政治利用されることを恐れて、精神を病んだふりをして入院したのだ。生涯を施設で過ごす覚悟だったため、家族もあえて遠ざけ、自分の芝居を見破ったモニカを殺しさえした。すべては世界を自身の発見から救うためだった。

ところがそこへ、残りふたりの物理学者がやってきて、自分たちも精神病ではないと告げる。ニュートンはアメリカの、アインシュタインはソ連のエージェントで、メビウスの世紀の発見を狙って施設に潜入していた。いずれも担当看護師に病気ではないことを見破られ、任務を遂行するためにやむなく殺したという――。

一幕はメビウスがモニカを殺す場面で終わり、二幕では3人の物理学者の攻防が繰り広げられる。そして最後には息を呑むどんでん返しが待っている。『物理学者たち』に限らず、デュレンマットの作品はどれもミステリーとサスペンスの要素を含んでおり、そこに独特の毒々しいシュールさと乾いたユーモアが重なって、エンターテインメント性たっぷり。だがどの作品も、笑いながら読み進むうちに背筋が寒くなり、深淵をのぞき込んだような気分になる。人間の本性の一番暗い面、誰もが直視したくない面が容赦なくあぶり出されているからだ。結局、狂っているのは誰だったのか。正気と狂気の境界線を引くのは誰か。

物語は冷戦時代を背景にしており、アインシュタインの理論が原爆開発につながったように、科学的発見がそれを利用する人間によっては危険な結果をもたらしかねないことを描いている。「私の発見はこの世界にはまだ早い」とメビウスは言う。科学はそれを解釈し、利用する人間によっていかようにもねじ曲げられ得る。そして私たち人間は、科学に正面から向き合う知性と勇気と良心を常に備えているとは限らない。だからこそ、世間の人が受け止めきれないであろう発見を隠し通すのが、科学者たる自分の義務なのだと。

メビウスが「見える」と主張するソロモン王は、作中、自らの知恵を過信するあまり神への畏怖を失った結果、知恵も王国もなくした人物として描かれている。「科学に従え」のスローガンのもと、いまのドイツでは「科学」がまるで普遍的な絶対神であるかのようにとらえられる傾向が強い。だが歴史上、科学は常に政治に利用されてきた。もしも『物理学者たち』に描かれるように、狂人が正気で、正気だとされる人が狂人だったなら? この時代に、60年前に書かれたこの作品が再び読まれているのは興味深い。

■「注意深さ」身につけた弁護士の殺人

古典的名作であると同時にミステリー要素も持つデュレンマットの2作品を含めて、今回のフィクション・文庫部門のベストセラーリストはほぼすべてがミステリーで、ミステリーベストセラーの様相を呈している。なかでも『注意深く殺そう』は2019年6月の刊行から2年半にわたってリスト常連の大ヒット作。

「注意深い」という日本語からは、神経を研ぎ澄ませて、失敗しないよう慎重にものごとを進める様子が想像されるかもしれないが、本書の「注意深さAchtsamkeit」は、むしろ英語の「アウェアネス」に近い。ものごとに善悪の判断を下さず、過去と未来を思い煩わず、「いま」と「ここ」に意識を集中するという意味での「注意深さ」。さまざまな自己啓発本で推奨される意識の状態だ。

本書では、この「注意深さ」をマスターした主人公が、自分の人生を劇的に変えていく様子が描かれる。ただし自己啓発本ではなく、ミステリーだ。そして、主人公の人生が変わるのは「注意深く」犯した殺人のためである。

大手の法律事務所でこき使われる42歳の弁護士ビョルンは、仕事に時間と精神力を削り取られ、妻と2歳の娘をないがしろにしがち。結果、家庭は崩壊寸前、怒った妻から「注意深さ」のレッスン受講を強制される。気乗りしないまま「注意深さセラピスト」を訪ねたビョルンだが、意外にも初回のレッスンで心が軽くなったことに気づく。

3カ月のレッスンを受け、「注意深さ」をマスターしたビョルン。夫婦関係、親子関係もぐんぐん修復に向かう。そしてレッスン卒業直後の週末、娘とふたりで遠出をする予定だったビョルンのもとに、依頼人のドラガンから電話がかかってくる。

ドラガンは麻薬や人身売買などを手掛けるマフィア組織のボス。犯罪組織を合法的に見せかけることが、勤め先の法律事務所から押し付けられたビョルンの役割だ。その週末、ドラガンは偽の情報に引っかかって、対立組織のナンバーツーを殺してしまった。しかも運悪くその現場を遠足バスに乗った児童たちに撮影され、殺人現場が動画サイトで拡散されてしまったという。

窮地に陥ったドラガンは、ビョルンを秘密の待ち合わせ場所に呼び出し、なんとか事態を収拾しろと詰め寄る。だが、「注意深さ」レッスンのおかげで私生活と仕事を分けること、現在している作業に集中することを学んだビョルンにとって、娘との旅行は最優先事項だ。そこで、潜伏するというドラガンを車のトランクに隠して旅行先に向かい、そのまま娘との週末を満喫する。太陽がトランク内の温度をじりじりと上げ続けるなか……。

こうして、問題(ドラガン)を解決したビョルンは、その後も「注意深さ」レッスンで学んだ心得を駆使して、死体を始末し、ドラガンの部下たちを操り、対立組織のボスと渡り合い、さらには偽の情報電話の背後にいる人間と、その動機をも割り出す。

軽妙な筆致と飽きさせないストーリーテリングもさることながら、秀逸なのは各章にひとつ披露される「注意深く」あるためのガイド文。「ゆっくり呼吸をして、それを意識する」「そのときしていることに意識を集中し、過去や未来のことを考えない」「不安をそのまま受け止め、その声に耳を傾ける」といったトレーナーのガイドに沿って、ビョルンは犯罪を実行していく。このガイドがなかなか興味深く、読みながらついつい実践してみる私のような読者が多いのが、本書の類を見ない人気の秘密なのではないか。ミステリーを楽しみながら、「注意深さ」について学ぶこともできる一石二鳥の本なのだ。

著者のドゥッセは現役の弁護士で、『注意深く殺そう』が初の小説。本書が大ベストセラーとなった結果、「注意深さ」ミステリーはシリーズ化し、現在第3作までが刊行されて、いずれもベストセラーとなっている。


ドイツのベストセラー(フィクション、文庫部門)
Börsenblatt誌2021年11月3日号より
『』内の書名は邦題(出版社)

1 Ohne Schuld  罪なくして
Charlotte Link シャルロッテ・リンク
2021年4月に紹介した非リア充刑事ミステリー。文庫化して再び1位に。

2 Der Gesang der Flusskrebse ザリガニたちの歌
Delia Owens ディーリア・オーエンズ
『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)
日本で本屋大賞翻訳小説部門に輝いた。湿地でひとり暮らす少女の物語。

3 Die Physiker 物理学者たち
Friedrich Dürrenmatt  フリードリヒ・デュレンマット
『物理学者たち』(早稲田大学出版部)
スイスの巨匠による1960年代の戯曲。精神病を装う3人の物理学者の目的は?

4 Offene See はるかな海
Benjamin Myers ベンジャミン・マイヤーズ
広い海へと乗り出した山育ちの青年が、ひとりの謎めいた中年女性に出会う。

5 Achtsam morden 注意深く殺そう
Karsten Dusse カールステン・ドゥッセ
弁護士が「注意深さ」に関するレッスンを殺人に応用して、人生を好転させる。

6 Alte Sorten 古い品種
Ewald Arenz エーヴァルト・アーレンツ
卒業間近の女子高生と、自分のことを語らない中年女性との友情。

7 Geheime Quellen 秘密の泉
Donna Leon ドナ・レオン
米国生まれ、イタリア在住の超人気作家によるロングセラーシリーズ29作目。

8 Der Besuch der alten Dame 老貴婦人の訪問
Friedrich Dürrenmatt フリードリヒ・デュレンマット
大富豪になって故郷を訪問した貴婦人は、町への援助にひとつの条件を出す。

9 Zorn―Opferlamm ツォルン――犠牲の子羊
Stephan Ludwig シュテファン・ルートヴィヒ
ロングセラーの刑事シリーズ第11作。十字架を背負って町を歩く男の正体は?

10 Todesschmerz 死の痛み
Andreas Gruber アンドレアス・グルーバー
日本語訳もある人気作家の新作。ノルウェーでの独大使殺人の背後には……。