手術服を着た医師が座ってハンドルを両手で握っている。
「後ろから、まず切ります」
目の前にはモニター画面。ロボットのアームが、胃の中を処置する様子が映っている。医師は3D用の眼鏡をかけている。
青森県弘前市の弘前大医学部付属病院の一室で、外科医の赤坂治枝助教(41)が操作していたのは、外科手術で広く使われるようになった手術支援ロボットだ。腹部に開けた小さな穴から、鉗子(かんし)やメス、カメラなどがついたアームを臓器に伸ばして手術をする。画面の中に映るアームは、ハンドルの操作の動きを再現している。
ふつうなら、手術台とロボットは、医師が操作する席のすぐ横にあるが、席の横には、代わりに別の大きなモニターが設置されている。画面には、周りに医療スタッフが集まる手術台とロボットが見える。
そこは、100キロ以上離れた同県十和田市の北里大学獣医学部付属動物病院だ。インターネットの高速回線でつながっている。手術台の上に腹部だけ映っているのは、人間と臓器の構造がよく似たブタ。2021年10月30日に行われた、遠隔手術の実現に向けた実証実験だ。一連の実験は、日本外科学会に、国やロボット開発業者、情報通信業者などが協力している。
1時間後、胃がんの手術を想定した胃の下部の切除が終わった。回線による操作のずれは、わずか0.02~0.03秒。赤坂助教は「遠隔ではなく、すぐ隣でやっているような感じでした」と振り返った。実験では、実際に手術をする際の接続トラブルも想定。つないだ2本の高速回線の一つの接続を一時的に切断しても、滞りなく手術が進められるかも確認した。
背景には、地方での外科医不足がある。「難易度の高くない一般的な手術でさえ、いまや受けられなくなっている。医療が崩壊している地域もある」と実験のとりまとめ役で弘前大病院副院長の袴田健一教授(61)は言う。
雪国の青森では、とりわけ冬場に雪道での移動が難しくなる。手術となれば、付き添いも含めて前日に宿泊するのが普通で「長距離移動に伴う負担を減らせる。患者さんにとって大変な福音になる」。地方で働く医師たちも、遠隔地にいながら手術現場の経験や指導が受けられる利点もある。
医師法では対面診療が原則だ。遠隔医療はもともと違法という位置づけだったが、19年に厚生労働省が指針を改正して、オンライン診療を解禁。コロナ禍で普及が加速した。
指針では、遠隔手術もオンライン診療のひとつとして、患者がいる手術台の周りに医療スタッフがいる形で可能になった。21年2~3月には弘前大病院と150キロ離れたむつ市の病院を結び、人工臓器を使って実験。生きた動物を使った今回は、近い将来に実現を目指す人間での手術に向けたさらなる一歩となった。
袴田教授は「将来、さらなる技術革新や社会情勢が変われば、例えば医者すらいない医療資源の乏しい国々に対し、社会貢献としてありうるかもしれない」とも話す。
■長く中断、通信技術の進化で復活
実は、遠隔手術の試みは、20年前から始まっていた。01年、米ニューヨークにいる医師が特殊な専用回線とロボットを使って、大西洋をまたいで約6千キロ離れたフランス、ストラスブールの患者の手術を成功させた。
だが、その後は、ネット回線を使った通信上の遅延や高額な費用の課題などから、実用化に向けた動きは長く中断していた。
それが近年、膨大な動画の情報を遅延なく送る技術も含めて、遠隔手術ができる情報通信の環境が整いつつある。米国防総省は国のプロジェクトの一つとして遠隔ロボット手術に取り組み、中国でも「ロボットを使った遠隔手術のテストに成功した」との報道が流れる。
各国で実現に向けた動きが活発化するなか、実験に参加する九州大の沖英次准教授は「法的にも問題が生じないよう、遠隔手術を定義・体系化して臨床に近づけようとしている国は(日本の)ほかにはない」と話す。
手術に不可欠な手術支援ロボットをめぐっても、世界中で開発競争が激しさを増している。これまで独壇場だった米国製ロボット「ダビンチ」の主要な特許が19年に切れたことが火をつけた。
日本では川崎重工業とシスメックスの合弁会社メディカロイドが開発した「hinotori(ヒノトリ)」が20年8月、国産の手術支援ロボットとして製造販売の承認を得た。弘前大での実証実験には、ベンチャー企業のリバーフィールド社(東京都)が開発中のものが使われている。
神戸大、NTTドコモ、メディカロイドは21年4月、このヒノトリと次世代高速通信規格「5G」を使った遠隔操作による模擬手術の実証実験を開始した。従来の実験との最大の違いは、専用の有線回線でつなぐのではなく、商用5G網を活用した「世界初」という実験だった点だ。
遅延を減らし、セキュリティー面を考慮すれば、光ファイバーの専用の有線回線で各病院のロボットをつなぐのが一番確実だ。しかし、それには莫大(ばくだい)な費用がかかる。プロバイダーを介した商用の有線接続では、各病院内のネット環境の違いが通信速度に差を生み、ネットワーク化の支障となる。神戸大の山口雷藏教授は「将来、あらゆる病院をつないで実用化することを考えると、無線というハードルはあるものの、商用5G網の利用は大きな魅力になる。これにより、日本中どこの病院でも比較的安価で安定した通信環境の下、ロボットが直接ネットワークにつながれる」と強調する。
さらにロボットを使うことで、執刀医のあらゆる動きをデジタル化してデータベースとして蓄積することもできるようになる。「卓越した医師の『匠の技』をたくさん集めてすべてデータ化すれば、『匠』とはどういうものかを解析して、熟練した指導医が指導するようにロボットが指導できるようになる。その先には、ロボットが自分で手術をできるようになる可能性がある、ということです」