最大の転機は1987年、細胞内小器官ミトコンドリアのDNA解析がもたらした。ミトコンドリアの遺伝子は母親からだけ受け継がれる。世界各地の人々のミトコンドリアに蓄積した突然変異をもとに、枝分かれの時期を推定し、さかのぼっていくと、12万~20万年前ごろアフリカにいたであろう女性にたどり着いた。
数年の激論の末、この分析は認められ、現生人類の起源はアフリカで、十数万年前以降に世界各地に広がっていったという「単一起源説」が常識になった。それまで、各地の原人や旧人が一部で交雑しながら地域ごとに特色ある現生人類に進化してきたという「多地域進化説」が優勢だったから、大逆転である。
そうなると、アフリカを出た現生人類がいつ、どのように移動していったのかが大きな問題になる。遺跡や石器などの考古学資料を、現生人類の旅路のなかに位置づけ直す作業が始まった。
■見えてきた三つのルート
そこで第2の革命が起きた。ゲノム(全遺伝情報)を超高速で解読する技術が広まり、古人骨に残る微量のDNAからも読めるようになったのだ。ミトコンドリアDNAと同じように、蓄積された突然変異を手がかりに、ほかの集団との血縁的なつながりも推定できるようになってきた。
主に考古学的資料に基づき、アフリカから西アジアに出てきた現生人類は、約5万年前から、①ヒマラヤ山脈の南を抜けて東南アジアからオーストラリア大陸へ②ヒマラヤ山脈の北を回ってシベリアへ③ユーラシア大陸西部へ、と大きく三つのルートで進出していったことがわかっている。
科学的な根拠が分厚くなり、その旅路が一直線の順風満帆なものではなく、気候変動のほか、寒冷地や高地、熱帯雨林、海などの難所に阻まれて、あちこちで足踏みや後退もしてきたことが見えてきた。例えば、シベリアから当時、陸続きになっていた北米大陸に進出するまでには3万年近く(およそ1000世代)の歳月を待たなければならなかった。
現生人類の前に「出アフリカ」を果たしていた旧人との関係も、大きく見直された。地中海東部沿岸では、寒冷化で北方から退いてきた旧人のネアンデルタール人と長く共存していたことがわかった。
さらに、ネアンデルタール人のDNAは、今世紀になってロシア・南シベリアの洞窟で古人骨が見つかった別の旧人デニソワ人のDNAとともに、現代人に無視できない割合で受け継がれていることもわかったのである。
つまり、現生人類は、その長い移動のなかで、やみくもに前進していたのではなく、相当長い時間と場所を旧人と共有し、交雑もしていたわけだ。ならば、現生人類と旧人たちを「別種」とするのはおかしいのではないか。そんな見方も強まっている。
西アジアで考古学調査を続ける門脇講師が言う。
「なぜ、旧人たちは絶滅し、現生人類は繁栄したのか。様々な能力の差で説明する努力が続けられてきたが、近年の研究から見ると共通性の方が大きい。環境変化などで人口が減少したことは旧人にも現生人類にもあった。ただ、旧人たちは減りすぎて絶滅したのに対し、現生人類は再び人口増に転じるサイズを何とか維持できた。そして、長い歳月の末に、それぞれの土地で人口が増え、多様性の中から次の難関を越える技術や文化が生まれて、やっと前進したのだろう」
ゲノムが調べられる状態の古人骨は多くないが、考古学は圧倒的な数の資料から文化の連続性まで読み解ける。門脇講師によると、現生人類が一番長く足踏みしていたのが、アフリカからほど近い西アジアだという。「地域ごとの丁寧な古気候復元の進展と合わせて、なぜそこで足踏みし、なぜ先に進めたのかを詳しく論じられるようになってきた」
太田教授は、現生人類の移動に旧人たちが果たした役割に関心を示す。「先に北方や高地に進出していた旧人たちは、現生人類より遺伝的に適応していた可能性がある。現生人類は旧人たちとの交雑で、寒冷地や高山を越える移動ができるようになったのかもしれない」
現代人のゲノムデータに基づく人類学的研究で、東ユーラシア人とアメリカ先住民は、ヒマラヤ山脈を南回りした集団が起源とわかり、日本などでは北回りの要素がまだ見つかっていない点も、太田教授は気になっている。
「北日本ではシベリアなど北回りの遺跡とよく似た旧石器が出土しているのに、これはどういうことか。縄文人には、北回りのゲノムが入っていたのだろうか。渡来した弥生人の集団が大きくて、北回りの痕跡が消えたのか……。いくらさかのぼっても北回りのゲノムが見つからなければ、文化だけが入ったという可能性もある。ゲノム研究が解明に貢献できそうなことはいくらでもある」
人類史ファンにとって、めまいを覚えるような急展開はまだまだ続きそうだ。
■日本列島へ、3万年前の航海 再現するプロジェクト
日本列島に現生人類が登場したのは、3万8000年前、縄文時代に先立つ、後期旧石器時代と考えられている。
東京大学総合研究博物館の海部陽介教授(人類進化学)は、旧来の考古学が「陸続きだった大陸から歩いて移動してきた」としてきたことに疑問を持った。
当時は寒冷で、海水面は推定で約80メートル低かった。北海道はサハリンを介して大陸とつながっていたが、津軽海峡や対馬海峡、琉球列島の周りの海は深かった。「海を渡って今の本州に着けるだけの能力を持っていたに違いない」
所属していた国立科学博物館の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」(2016〜19年)の代表として、3万年前、大陸とつながっていた台湾から沖縄県与那国島まで人力で渡れると示そうと考えた。その間には強く速い黒潮が流れる。使うのは、現地の自然素材と旧石器時代の道具・技術だけだ。
シーカヤックの達人など優秀なこぎ手を集めたが、草を束ねた舟は安定感はあるものの、速度が出ず、長持ちしない。竹いかだも同様で、竹が割れると速度が極端に落ちることがわかった。
最後の試みが丸木舟だった。時代が下った縄文遺跡から出土した丸木舟の大きさを超えないという制約の中で、石斧でスギの巨木を切り倒し、中をくりぬいて、男女5人乗りの舟をつくった。
19年7月、スギの女神を縮めて「スギメ」と名付けられた丸木舟で、台湾中部東岸からこぎ出した。強い日差しのなか疲労困憊(こんぱい)し、全員が眠って漂流する時間もあったが、直線距離で約200キロ、45時間10分の航海の末、5人は与那国島に到着した。
「無人の地に着いた人々の子孫が定着するには、最初に少なくとも男女十数人がいなければならないというシミュレーションがある。漂流ではありえない。食糧や水も準備し、それなりの船団を作って渡ったのだろう」と海部教授はいう。
彼らは何かから逃れるために海に出たのだろうか。海部教授はその可能性も否定はできないとしつつ、「実際にやってみて、何度も沖にこぎ出して海流を確かめる準備や、天候のいい日を選ぶ余裕が必要なことがわかった。逃亡では説明が難しく、自らの積極的な意思に基づく航海だったのではないだろうか」と話す。 かすかな島影をめざして大海原へ乗り出した旧石器人たち。それは私たちにつながる好奇心や冒険心の発露だったのかもしれない。
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国立科学博物館は記録映画『スギメ』を製作。2021年から有料配信している。