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戦後、韓国に残った日本女性を支え続けて60年 熊田和子さん、90年の生涯を閉じる

揺れる世界 日本の針路
熊田和子さん。2000年秋の叙勲で勲五等宝冠章を受けた=李マリアさん提供

福島県で生まれた熊田さんがソウル・汝矣島にあった飛行場に到着したのが1959年4月26日だった。到着後すぐ、警察官に連行され、「何のために、韓国にやってきたのか」と尋問された。当時は李承晩政権の末期だった。李大統領は45年の終戦後、日本人を追放し、新たな入国も認めない政策を取っていた。

李政権は52年、公海上に「李承晩ライン」を設置し、日本漁船を次々に拿捕した。反日教育も進めていた。熊田さんは韓国に到着して3日後に結婚式を挙げた。韓国に住むため、そのまま韓国籍を取得した。

朝鮮戦争(1950~53年)が休戦になって6年しか経っていない時で、戦争から全く立ち直っていない時代だった。63年に生まれた次女のマリアさんも「米軍が支援した小麦粉を食べた記憶があります」と語る。

韓国全体が貧困にあえぐなか、悲惨な状況に置かれたのが終戦後に韓国に残された日本女性たちだった。日本統治時代、日本政府は「内鮮一体」を掲げ、日本に働きに来ていた朝鮮半島出身者と日本人の結婚などを奨励した。マリアさんは「結婚した女性は、貧しい家庭の出身者が多かったようです」と語る。

朝鮮半島で恵まれた生活を送った人もいたが、半島に渡ると、夫のはずの男性には正妻がいたり、夫の戸籍に入れてもらえなかったりするケースが相次いだ。戦後や夫の死後、家を追い出された女性もいた。こうした人々は山間部や農村などで働きながら、糊口をしのぐ生活を送ったという。日本人であることを悟られないよう、言葉が話せないふりをした人もいた。朝鮮戦争も追い打ちをかけた。

2016年6月にソウルで開かれた芙蓉会ソウル支部の最後の昼食会。右端が熊田和子さん=李マリアさん提供

元駐韓日本公使の町田貢氏によれば、当時、韓国に取り残された日本女性やその子どもたちは2700~2800人ほどに上った。国交正常化後の1966年、釜山に設置された日本総領事館を、着の身着のままたずねてきて、日本に帰りたいと訴えた女性もいた。町田さんは釜山郊外の山間部のバラックに住む60代の日本女性を訪ねたこともある。泥を固めた外壁にシートをかぶせただけの、電気も通っていない粗末な小屋に無言で座っていたという。

韓国に渡ってから、しばらく韓国中部・大田近郊で暮らしていた熊田さんは62年、夫の転勤でソウルに移る。そこで、明洞大聖堂で行われていた日本語聖書研究会に参加した。研究会では韓国に残留した日本女性への支援を行っていた。救援活動が発展して63年、在韓日本婦人会が発足し、66年に芙蓉会と改称された。マリアさんは「小学生だったころ、母に連れられて芙蓉会の事務所に行きました。会員の女性が大勢いらっしゃいました。一緒に食事をつくり、楽しそうにおしゃべりする姿を記憶しています」と語る。

発足当時、参加した日本女性は229人だった。その9割が極貧の生活を送っていた。熊田さんは芙蓉会が64年から始めた里帰り事業、69年から始めた永住帰国事業をそれぞれ支援した。マリアさんは「永住帰国は80年代初めまで、里帰りは2003年まで続きました」と語る。永住帰国した女性は1200人余に上る。

日本人慰霊碑に手を合わせる在韓日本婦人芙蓉会釜山本部の会員ら=韓国・釜山市立公園墓地で2005年6月、溝越賢撮影

マリアさんによれば、永住帰国も里帰りも簡単ではなかった。「無国籍の方や韓国籍の方もいて、帰国手続きが大変でした」と語る。永住帰国するため、日本国籍を確認しようとしても、日本で除籍されていた人が多かった。日本の親族に受け入れを拒まれた人も相次いだ。韓国の戸籍に入れてもらえず、公式の結婚証明書もない人もいた。日々の生活に追われ、住民登録番号が交付されていない事実に気がつかない女性もいた。マリアさんは「自分が無国籍者だという事実に、パスポートを作る時る段階で気づいたケースもありました」と語る。

朝鮮戦争で公文書が焼失したため、韓国人として出生届を出した人もいた。それが永住帰国への障害になった。熊田さんは韓国外国語大で日本語を教える仕事を続けながら、無国籍や韓国籍になっていた女性たちのために働いた。日本政府のほか、女性が除籍された日本の自治体にも手紙や電話で照会を続けたという。

熊田さんは年に数回、会員たちを日本に里帰りする事業も手伝った。温泉につかり、日本の料理を食べて過ごした。ただ、日本の実家を訪ねようとする女性はあまりいなかった。マリアさんは「元々反対されて、韓国に渡った人も多く、特に両親が亡くなると、他の兄妹や親族は冷淡で、日本に帰りたいという気持ちにもなれなかったようです」と語る。

歳月が経ち、芙蓉会の女性たちも高齢化し、財政がますます悪化した。熊田さんは会の運営が厳しくなった1994年、芙蓉会の第6代会長に就いた。マリアさんは、いつも「大変だ」と言いながら一生懸命仕事をしている熊田さんの姿を覚えている。「本人の性格だったと思います。お陰で色々な団体や個人の方から支援をして頂きました。そのご恩をいつまでも感謝していました」

毎日のように芙蓉会の事務所に通っては苦労の半世紀を語り合う日本人女性たち。左から新井憲子さん、熊田和子さん、松本璋子さん、花田チフさん=ソウルで2000年6月、箱田哲也撮影

2000年ごろからは体調が優れず、1年のうち数カ月は日本で暮らすようになった。80歳になった11年、日本に生活の拠点を移したが、それでも芙蓉会の仕事に携わり続けた。見かねたマリアさんが、必要な書類の作成など、芙蓉会の仕事を手伝ってきた。

熊田さんは今年4月ごろから体調が悪化し、7月8日に永眠した。日本政府が把握している韓国残留の日本女性は10人のみ。芙蓉会のソウル支部には90代の女性2人が残るだけになった。マリアさんはまだ、熊田さんの死去を伝えていない。「高齢の方ですから、ひどく気落ちするのではないかと心配しています」

芙蓉会の会員らは1995年、自分たちが折った千羽鶴3千羽を皇后陛下(現・上皇后さま)に献上した。その縁で、皇后陛下からたびたびねぎらいの言葉を頂いたという。「祖国に棄てられた」と嘆いた人が数多かった芙蓉会の女性たちへの励ましになったという。マリアさんは「母も皇居に参内したことを喜んでいました。母の人生に悔いはないと思います」と語った。

もう、芙蓉会で次の会長に就任する人はいない。マリアさんが会長代行として、最後まで韓国に残留した日本女性たちを支え続けるという。