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コロナ禍が浮き彫りにした貧困や差別 アートが問う居場所とは

アートから世界を読む 更新日: 公開日:
小林勇輝《New Gender Bending Strawberry》2012- 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎
小林勇輝《New Gender Bending Strawberry》2012- 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎

アートを見れば世界が見える。今回は、コラムの筆者である東京藝術大学准教授の荒木夏実さん自身がキュレーションを務めた展示を紹介します。コロナウイルスの影響を大きく受けている今、アーティストたちは社会をどのように見て、作品が成立したのか、解説します。

コロナ禍で浮き彫りになった居場所の問題

居場所をテーマにした展覧会「居場所はどこにある?」をキュレーションし、東京藝術大学内で開催した。タイトルの疑問形に注意してほしい。本展は、確固とした居場所があったり、居場所について考えることもないほどに安心な場所が常にある人に向けた内容ではない。むしろ居場所がないこと、あるいはそれを探していることこそがテーマなのだ。

2020年のコロナウイルスの猛威によって世界は麻痺状態に陥った。移動の制限により人々は特定の地域に閉じ込められ、大事な人に会えなくなり、学びや仕事を通したフィジカルな交流が妨げられた。さらに社会の不平等や格差も露呈した。リモートワークが可能な職種に従事する人とそうでない人。エッセンシャルワーカーというと聞こえはいいが、そこには賃金の低い単純作業や肉体労働に携わる人々が含まれ、ウイルス罹患のリスクだけでなく、職そのものを失うリスクも負わされた。

ソーシャルディスタンスによって同居の家族の関わりが深まる一方で、DVもまた増加した。家庭が誰にとっても安全な場所でないことは明らかだった。展覧会では、コロナ禍で以前に増して見えてきた貧困や差別、暴力、社会制度などに着目し、10組のアーティストの表現を通して居場所について考えた。

貧困という構造的問題

松田修は、実の母が語る波瀾万丈の人生を通して、貧困地域が抱える問題を赤裸々に提示する。水商売や売春が当たり前の地域にでは、「オルタナティブな(別の)」人生を想像することが難しい。不安定な婚姻関係、身近にある暴力、今日の食べ物に困るほどの貧しさが、将来への思考を奪う。そして最も脆弱な環境を狙い撃ちするかのように、コロナが打撃を与える。

松田修《奴隷の椅子》2020 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎
松田修《奴隷の椅子》2020 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎

社会では、機会は平等で努力すれば人生は変わるとまことしやかに語られ、それができない人を「自己責任」という言葉で追い詰める。ブラック・ライブズ・マターでも注目されたように、人種差別や貧困問題は構造的に社会の隅々まで浸透しているのであり、個人レベルで解決できるものではない。「自分の人生に後悔はありませんが、自分で選んだ人生ではなかったと思います」と語る母親の言葉は、選択肢がある者とない者との間に横たわる格差を示している。

暴力にさらされて

磯村暖の映像インスタレーション《How to Dance Forever(Dance Lesson #1 VOGUEING)》の中に、ネイティブアメリカンのクィアによる衝撃的な語りのシーンがある。ネイティブアメリカンのコミュニティには、かつて「Two-Spirit」と呼ばれる男女のカテゴリーに分けられないシャーマンのような語り部がいて、人々から尊敬されていた。しかし植民地支配の過程でこれらの人々は徹底的に迫害され、殺害された。その偏見は現在も根強く存在する。「ありのままの私でいること自体が現在、かなり政治的な行為です。思う存分自分を表現することはとても素敵ですが、危険なことでもあるのです」。鮮やかなドラァグクイーンの化粧を施したこの人物は語る。「でもストレートなシス男性のフリをするぐらいなら殺されたほうがマシ」。命を賭して自分らしくあろうとする、決然とした表明に胸を打たれると同時に、誇るべき民族の文化と個人のアイデンティティを脅かすマジョリティの暴力に戦慄する。

磯村暖《How to Dance Forever(Dance Lesson #1 VOGUEING)》2019 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎
磯村暖《How to Dance Forever(Dance Lesson #1 VOGUEING)》2019 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎

中谷優希の《scapegoat》は、ラファエル前派の画家ウィリアム・ホルマン・ハントによる絵画《贖罪の山羊》(1854-1855)を参照した映像作品である。ハントが旧約聖書を引用して描いた山羊は、人々の罪を背負って荒野に放たれる生贄の姿である。中谷が扮する山羊は、竹馬のような義足のために動きがおぼつかない。男が現れ、山羊の毛を荒々しくむしり始める。メェメェと山羊の声を真似ながら中谷は逆らうが男の手は止まない。男が去った後、よろめきながらも山羊はどこかへと向かっていく。女性や弱者への残酷な暴力を想起させるイメージは強烈で、居場所を求めるかのように彷徨う姿に切なさが漂う。

中谷優希《scapegoat》2018
中谷優希《scapegoat》2018

アウトサイダーの孤独

小林勇輝が大学時代をハワイとロンドンで過ごした時に、アジア人男性として自分をカテゴライズする視線にさらされる経験をした。白人のパートナーと街を歩いていて侮蔑的な言葉をぶつけられたこともあった。日本で感じることのない人種のヒエラルキーやステレオタイプなイメージを意識せざるを得ない状況から逃れるために、小林は「New Gender Bending Strawberry」(新しい性別不明の苺)というキャラクターを創作する。

小林勇輝によるパフォーマンス 2021年6月6日
小林勇輝によるパフォーマンス 2021年6月6日

自らの顔を銀色に塗って苺のかぶり物をし、奇妙な生物となって道ゆく人とコミュニケーションする。たくさんのぬいぐるみによって苺族は増殖し、そこに紛れこめば仲間の中で奇抜な姿は目立たない。異質なものとして見られることを逆手にとり、ニュータイプを創造することによって擬似的なコミュニティを作り、他者との新たな出会いを試みるのだ。

現在東京藝術大学3年生のリー・ムユンは、コロナ禍において友人たちに起きた出来事を元にドキュメンタリー風の映像作品を制作した。リーと同様に故郷の中国を離れて日本とアメリカに留学している4組の中国人学生に、日々の様子をビデオで記録してもらい、それを素材として編集したのである。この遠隔操作の手法そのものが、コロナ禍という環境の特徴を示している。

リー・ムユン《山を背負う子たち》 2020
リー・ムユン《山を背負う子たち》 2020

検疫のために中国のホテルで14日間の隔離生活を送った友人は、部屋に運ばれてきた食事を毎食写真に収めている。中国に戻ってアメリカの大学の遠隔授業を受ける友人は、時差に身体がついていかないとこぼす。武蔵野美術大学で学ぶカップルは、これまで渋っていた結婚をついに決意する。帰国できずにアメリカにとどまった別の男性は、通りすがりの人に「国に帰れクソ中国人!」と罵声を浴びせられた際に「帰りたいけど帰れないんだよ」と心の中でつぶやく。

アウトサイダーとして生きる留学生たちの、コロナ禍で起こったささやかな、それぞれのドラマ。グローバルになったはずの世界に突如として現れるローカルな規制と人々の偏見。拠り所のない心細さとともに、若者特有の楽観も伝わってきて、ほのかな希望が感じられる。

記憶と想像の中の居場所

岡田裕子は映像作品《翳りゆく部屋》において「ゴミ屋敷」に住む老女を自ら演じ、人々がゴミとみなす物全てが彼女にとってかけがえのない宝物であることをコミカルに主張する。2009年に制作した本作品の続編である新作の《A Sketch of the Dusky Room》では、「実家の2階、20年以上誰も入っていない。かつて大事だったはずのモノはゴミになっていた」という言葉が画面に現れ、ビニールに入った大量のゴミが映し出される。その画像に白い線が重ねられていき、やがて真っ白に塗りつぶされる。

岡田裕子《A Sketch of the Dusky Room》2011
岡田裕子《A Sketch of the Dusky Room》2011

家族にとって「居場所」だったかつての家が次第にゴミだらけになっていく。成長して新たな居場所を見つける子供たちと年老いていく親。大切だった物、かけがえのない人、そして「必要とされていた自分」がいる記憶こそが、年老いた人間にとっては永遠の居場所なのかもしれない。

家族とは何か

MOM+Iとして本展で作品を発表したエリン・マクレディと緑・マクレディは6月21日、国や自治体に対して訴訟を起こした。2人は2000年に日本で結婚し、3人の子供がいるが、性別に違和感をもっていたエリンは2018年に故郷のアメリカで性別を女性に変更する。日本での在留カードの性別も女性になったが、住民票の性別変更に際して婚姻関係がネックになった。同性婚を認めない日本では、性別変更するには配偶者の緑を「縁故者」とする必要があるという。2人は人格権や婚姻の自由の侵害を訴え、家族に関する国の考え方を変える必要があると語る。

このような状況を背景に制作されたMOM+Iの《FAMILY MOVE》は、家族とは何かを問うインスタレーションである。夫婦から「婦婦」に変化したエリンと緑、3人の息子たち、エリンの新しいパートナー、居候として新たな「息子」になった一平、さらに引っ越しを手伝う「1日家族」として集まった仲間たち。国や慣習によって規定された家族の型に人々が合わせるのではなく、変化する家族の実態を認め、支えるのが政治の役割だとエリンたちは主張する。

MOM+I《FAMILY MOVE》2021
MOM+I《FAMILY MOVE》2021

6月18日、「LGBT法案」は未提出のまま国会が閉会した。「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されないものであるとの認識の下」という文言を加えることに自民党保守派から強い反発があり、性的少数派をめぐり「種の保存にあらがっている」などという言語道断の発言もあった。これが人権侵害でなく何だというのだろう。仮面夫婦やDV家庭などの「合法的」家族が多い中で、いつも仲睦まじくベストパートナーであることがよくわかるエリンと緑を見ていると、形骸化した家族の概念を直ちに刷新する必要性を強く感じる。

夫婦でありアーティストであること

前述の岡田裕子の場合、夫もまたアーティスト(会田誠氏)である。結婚当時「結婚したんだからアーティストの活動は辞めるんでしょ?」と周囲から当たり前のように言われ、「アーティスト同士の結婚はうまくいかない」という話もしばしば耳にした。しかし岡田は、絶対にアーティストを辞めるものか、結婚や育児をしながらも作り続ける女性アーティストの姿を後進に見せたいと決意する。現在大学生の息子は、クリエイターとして岡田の制作を手伝うこともあり、家庭内に「互いに相手の活動を肯定できる関係」が築かれている。「今の家族で良かった」と岡田は語る

竹村京と鬼頭健吾もまた、ともに制作を続けるアーティストである。一つ一つのモノに注意を払い、絹糸を使って繊細な作品を作る竹村に対して、人工的な素材と派手な色を用いる鬼頭の作風は全く異なる。これまで共作を考えたことのなかった二人が、2020年のコロナ禍で初めて一緒に作品作りを試みた。竹村の布の上に鬼頭が鮮やかな色のアクリル絵の具を塗り、ラメを振り撒く。竹村はこのような「信じられないこと」を、結婚して12年経って「許せるようになった」と語る

また、互いの作品について会話することの意味を次のように述べている。「こうした方がいい・しろという命令をしあう関係性ではなく、対等であり続けること、お互いの自由が死守される空間を確かめ続けた10年でした。そして、この会話が家族になるということを重ねていくことでもあったように思います」(『DOMANI・明日2021 スペースが生まれる 文化庁新進芸術家海外研修制度の作家たち』文化庁 2021)

竹村京&鬼頭健吾《Playing Field 00》《Playing Field 004》《Playing Field 005》《Playing Field 006》2020 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎
左の立体及び壁面 竹村京&鬼頭健吾《Playing Field 00》《Playing Field 004》《Playing Field 005》《Playing Field 006》2020 展示風景 2021 撮影:堀蓮太郎

夫婦でありアーティストでもあることは自明ではなく、互いに確かめ合い、会話を積み重ねることで「家族になって」いった過程が伝わってくる。MOM+Iの作品タイトル「FAMILY MOVE」が示すように、家族は不動ではない。常に動き、変化し、成長するものなのだ。

居場所を探し続ける勇気

居場所は不変ではない。かつて大事だったものがゴミとなり、安全な場所を突然追われ、差別の目を向けられ、暴力にさらされる。居場所は心の中にしか存在しないかもしれないし、暫定的なものに過ぎないかもしれない。実現しないユートピアかもしれない。それでも私たちは居場所を追い求めずにはいられない。本展で紹介したアーティストたちは、自分の弱さや孤独、不安を直視し、自身の姿を赤裸々に表現する。答えのない世界のあり様を描く姿勢には、強い共感を呼ぶ力がある。居場所を探し続けるその姿に勇気づけられる。

居場所がかくもフラジャイル(壊れやすい)で、なおかつ誰もが求めるものであるならば、逆説的に、私たちは互いのためにもっと支え合う努力をするべきだろう。私があなたを求めるように、あなたも私を求めている。弱いからこそ、自分が誰かを助け、助けられる存在であることを、誰かの居場所になりうることを、私たちはもっと自覚するべきなのだ。この困難な時代において。

展覧会情報

「居場所はどこにある?」
2021年6月1日ー6月20日(終了)
東京・上野 東京藝術大学大学美術館 陳列館
アーティスト:磯村暖 UGO 岡田裕子 小林勇輝 竹村京&鬼頭健吾 中谷優希 松田修 MOM+I 室井悠輔 リー・ムユン
キュレーター:荒木夏実(東京藝術大学美術学部准教授)