1986年4月26日、当時のソ連邦ウクライナ共和国で、チェルノブイリ原子力発電所事故が起きました。その人類史上最悪の事故から35年が経過しようとしています。
この大惨事による放射能汚染の被害はウクライナだけでなく、ロシアとベラルーシにもおよびました。
実は、最大の被害国はベラルーシであり、汚染物質の70%以上がベラルーシに降り注ぎました。
ちなみに、基準量以上のセシウム137で汚染された面積を比較すると、ロシアが5万9900平方キロメートル(国土面積の0.3%)、ウクライナが4万1900平方キロメートル(同6.9%)、ベラルーシが4万6450平方キロメートル(同23.3%)でした。国土が小さい分、やはりベラルーシの状況が深刻だったことがうかがえます。
皮肉なことに、この3国とも、現在は原発推進国と位置付けられます。ただ、原子力部門が直面している状況はそれぞれに異なり、そこから国情が垣間見えます。
というわけで、今回は未曽有の大事故から35年をへたロシア・ウクライナ・ベラルーシそれぞれの原子力事情を概観してみます。
ロシアでは、ソ連邦が崩壊した1990年代初頭には、原発による発電量は1千億kWh(キロワット時)強でした。その後、ほぼ倍増し、ここ数年は2千億kWhを上回る水準で推移しています。
図1に見るように、2019年の時点でロシアの発電に占める原子力の比率は18.7%となっています。
ロシアにとってみれば、科学技術では先進国にかなわず、ハイテク製品を外国からの供給に依存する中で、原子力は数少ない優位性のある分野です。当然、今後さらに伸ばしていきたい産業です。
一般国民の間ではチェルノブイリの苦い記憶は残っており、原発事故への不安がまったくないわけではありません。しかし、目立った脱原発運動のようなものは見られません。
世論調査によれば、日本で2011年に原発事故が起きた直後には、さすがにロシアでも原発への懐疑的なムードが広がりました。
しかし、それは一過性で、2013年の調査では「原発を積極的に推進すべき」が33%、「現状のままでいい」が39%、「縮小すべき」が14%、「完全に破棄すべき」が6%という結果になりました。
ところが、少々奇妙な点があります。現時点でロシアの原子力政策の基本となっているのは、国家プログラム「原子力エネルギー産業複合体の発展」という文書で、2018年に最新版が採択されています。
それを見ると、図2のように、原発の発電容量は縮小する方向であり、原発による発電量も2021年をピークにむしろ低下していくという絵が描かれているのです。
ロシアにとって原子力は成長産業のはずなのに、なぜこのような見通しが示されているのでしょうか?
実は、今日のロシアでは発電容量がだぶついているのです。2000年代に高度成長で電力不足が生じたため、原子力も含め、発電能力の増強が急がれました。
しかし、2010年代に入るとロシアは低成長に陥り、電力需要も低下しました。そうした中で、以前に計画されていた発電所のプロジェクトが続々と稼働し、結果的に発電容量を持て余すこととなったのです。
ロシアでは、新たに発電所を建設するにあたって、電力の大口需要家に割増料金を課し、建設費を回収するという方式がとられています。特に原発は建設費が高いため、大口需要家には大きな負担が発生します。
発電容量がだぶついている状況で、これ以上積極的に原発の建設を推進する道理はありません。国家プログラムで原発の伸びが見込まれていないのはそのためでしょう。
国内が飽和状態ということで、ロシアとしては、外国での原子力ビジネスを強化したい考えです。国家プログラムには、外国の原発建設プロジェクトの受注残高を2019年には1273億ルーブルに、2027年には3286億ルーブルにするという目標が掲げられています。
上述のように、ベラルーシはチェルノブイリ原発事故の最大の被害国なのですが、その国がついに原発の導入に踏み切りました。2020年11月7日、同国初となる「ベラルーシ原発」で、1号機が稼働しました。
そもそもベラルーシは、旧ソ連の新興独立諸国の中でエネルギー自給率が最も低い国です。国内で消費するエネルギーは、ほぼ全面的にロシアからの供給に依存しています。特に石油と天然ガスはほぼ全量がロシアからの輸入です。
電力に関しては前掲の図1に見るとおり、ベラルーシでは従来、火力発電の比率が極端に高くなっていました。これまでは原発がありませんでしたし、ベラルーシは国土が平坦なので水力発電には向かないのです。
いきおい、もっぱら火力に頼ることとなり、しかも火力発電の98~99%はロシアから輸入する天然ガスを熱源としてきたのです。
ベラルーシはロシアの同盟国として、基本的には優遇的な条件で天然ガスの供給を受けてきました。しかし、価格をめぐる対立もしばしば発生しています。
もしもロシアとの対立が抜き差しならないほど深刻化し、天然ガスを止められでもしたら一大事です。
旧ソ連圏では、発電と一体の形で家庭向けの給湯および集中暖房も実施されているので、冬季にそんな事態になったら人命にかかわります。
その点、原子力は化石燃料を必要とせず、核燃料の輸入という要因をひとまず度外視すればエネルギー自給率を高めてくれる手段ではあります。
独裁者のルカシェンコ大統領ならずとも、ロシアへの過度な依存から脱却してエネルギー安全保障を強化するため、原子力の導入を一案として検討したくなるのは自然な成り行きでしょう。
しかし、ベラルーシ国民にはチェルノブイリ原発事故のトラウマがあります。他のどの国よりも放射能汚染に苦しんだベラルーシが自ら原子力を選択するというのは、簡単なことではありません。
それでも、ルカシェンコ氏は2008年、ベラルーシ初となる原発建設の方針を決定しました。放射能を忌避する国民感情よりも、「ロシアに生殺与奪の権を握られたくない」というこだわりを優先させたわけです。
ただ、ベラルーシにとって痛かったのは、世界の主要な業者にプロジェクトへの参加を打診したものの、結局関心を示したのはロシアの原子力公社「ロスアトム」だけだったことです(具体的には外国での原発建設に従事する子会社「アトムストロイエクスポルト」がパートナーに)。
原発構想の主眼はロシア依存からの脱却にあったわけですが、早くも誤算が生じました。
両国による交渉は難航しましたが、最終的にベラルーシ北部のオストロベツという街の近郊を建設地とし、出力1200MW(メガワット)の発電ユニット(ロシア型加圧水型原子炉VVER-1200)を2基建設することで合意、2011年3月に両国間で建設に関する協定が結ばれました。
計2400MWの原発が全面稼働すれば、国内の電力需要の30%をカバー、年間45億立方メートルの天然ガスが節約でき、温室効果ガスの排出量も10%削減できるとされました。
建設の費用総額は90億ドルで、それをロシアからのひも付き融資でまかなうことになりました。かくして、技術だけでなく、資金面でもロシアに頼ることになってしまったわけです。
2020年11月7日、ベラルーシ原発の1号機稼働を祝う式典が大々的に行われました。原発の稼働を社会主義ロシア革命の記念日に合わせるあたりが、いかにもソビエト人の生き残りルカシェンコ氏らしいところです。
ところが翌11月8日に計測機器に不具合が生じ、1号機はいきなり停止を余儀なくされました。2021年に入り、1月12日に再び通常運転に戻ったものの1月16日には保護システムが作動して、電力網から切り離されています(5日後に再接続)。
このように、1号機は何とも不安定な運転が続いています。2号機は2022年の稼働を予定しているのですが、果たしてどうなりますか。
頭の痛い問題は、原発で生み出した電気の販路です。ベラルーシはもともと原発の稼働で生じる余剰電力を周辺諸国に輸出し、その収入を建設費の償還に充てようとしていました。
ところが、ベラルーシ原発はリトアニアとの国境から30キロメートルほどしか離れておらず、リトアニアは以前からその建設に反対、欧州連合(EU)の仲間であるポーランド、ラトビア、エストニアもそれに同調してきました。
さらにベラルーシが電力輸出先として期待をかけていたウクライナは、今日EU寄りのスタンスをとっているため、やはりリトアニアに歩調を合わせて、ベラルーシ原発の電力は買わないという立場を明確化しています。
2020年8月の大統領選挙以降、EUはルカシェンコ氏を正統な大統領として承認していません。今日の政治状況では、ベラルーシ原発の電気をEUやウクライナといった周辺諸国に輸出することはますます絶望的となっています。
仮にルカシェンコ氏から民主派への政権交代が実現したとしても(ぜひ近いうちに実現してほしいものですが)、ベラルーシ原発が負の遺産として来たる新政権を苦しめる恐れがあります。
EUとの関係を重視すれば原発の稼働を続けることは難しいですし、ロシアへの100億ドル近い借金はいずれにしても返さなければなりません。
前掲の図1に見るように世界最悪のチェルノブイリ原発事故の舞台となったウクライナは、実は今日でも原発のヘビーユーザーです。
2019年の原発依存度は53.9%に及び、これはフランス、スロバキアに次いで世界で3番目に高い依存度でした。
さすがにチェルノブイリ原発での発電は2000年に停止されましたが、それ以外の4箇所の原発で、15の原子炉が稼働しています。
ウクライナの政財界のエリートで「脱原発」を唱えるような向きは稀であり、それを求める社会運動なども目立ちません。近年の選挙で本格的な争点になったこともないと思います。
ウクライナがなぜ、人類史上最悪の原子力事故に見舞われながら今も原発を使い続けているのかと言えば、ずばり「ウクライナにとってのエネルギー安全保障とは、脱ロシア依存とほぼイコールだから」なのだと思います。
独立後のウクライナは、ロシアから天然ガスおよび石油を輸入してエネルギー需要を満たしてきました。
ウクライナにとって、ガス・石油をロシアに依存し、しかもその関係がパイプラインというインフラによって固定されている状況は非常に心許ないものです。
こうした中で、ウクライナにとっては、自前のエネルギー源と位置付けられ、目先のコストも安い原発は、エネルギーバランスを維持する上で欠くべからざるものとなっているのです。
むろん、チェルノブイリを体験した国として、できることなら原発なしで生きたいという願望はあるものの、それよりもやはり「極力ロシアに依存しないでエネルギーをまかなう」という課題の方が、喫緊なのでしょう。
ただし、「原発によって対ロシア・エネルギー依存を軽減する」というウクライナの戦略には一つの盲点がありました。ウクライナは、原発で使う核燃料をロシアの国策会社であるTVEL社から主に調達してきたのです。
ウクライナの原発はソ連時代に設計・建設されたものであり、技術的な要因や諸事情からTVEL社がウクライナ向け核燃料の供給を独占する時代が長く続きました。
2000年代以降、アメリカが官民を挙げてウクライナの原子力市場への参入を目指すようになり、ウェスティングハウス社によるウクライナへの核燃料供給が始まります。
その結果、図3に見るように、ロシアTVELからの調達は縮小し、ウェスティングハウス社スウェーデン工場から供給される割合が増えてきました。
ウクライナの原子力公社「エネルゴアトム」の総裁が今年2月に語ったところによると、ウクライナで稼働中の15機の原子炉のうち、8機がロシアTVELの、7機が米ウェスティングハウスの燃料を使用しているとのことでした。
そして、エネルゴアトムでは、本年中にリウネ原発の1機をロシアTVELから米ウェスティングハウスに切り替える予定で、それによりついに米ウェスティングハウスの方が多数派になるということです。
2018年12月には、エネルゴアトムがロシアTVELとの間で核燃料供給契約を2025年まで延長しています。しかし、本年2月、ウクライナのビトレンコ・エネルギー相代行は「我が国は2023年までにロシア製の核燃料の使用を止めなければならない」と発言しています。
それに対し、ロシア連邦議会下院でエネルギー委員会の委員を務めるシェレメト議員(ちなみにクリミア出身)は次のように警鐘を鳴らしています。
「アメリカの核燃料は技術的に、ソ連時代に建設されたウクライナの原発に適合しておらず、原発の健全性と電力システム全体に影響を及ぼしかねない。ウクライナでは良識が勝ち、危険は犯さないはずだ。アメリカは単にカネを儲けたいだけ。第2のチェルノブイリを引き起こしてはならない」
このように、ウクライナの原発で使用する核燃料の問題もまた、ロシア・ウクライナ間に存在する数多くの対立点の一つとなっているわけです。