3月に発生したエジプト・スエズ運河の封鎖事故は、長期化すれば、世界経済に大きな打撃を与えかねない深刻な事態でした。
現地時間23日朝、日本企業が保有するコンテナ船「エバーギブン」が強風に煽られて座礁、運河の通航を全面的に遮断してしまいました。
幸い、29日にエバーギブンの離礁作業が成功し、スエズ運河の運航が再開されたことで、混乱は約1週間で収束しました。
何しろ、世界の海運の12%がこの運河を通ると言われている大動脈です。1日約50隻、年間では1万8900隻の船舶が、スエズ運河を通行します。
スエズ運河を利用して輸送される貨物は年間11.7億トンに上り、うち80%が工業製品、10%が石油・ガス、6%が農産物、4%がその他貨物ということです。
ブルームバーグの推計によれば、スエズ運河の運航停止による1日の損害額は96億ドルに上るということです。ちなみに、運河は年間60億ドルの収入をエジプトにもたらしています。
もちろん、過去には、1956年に発生した「スエズ動乱」で、運河の通航が全面的にストップするという危機的状況もありました。
近年は、戦乱こそありませんでしたが、事故で通行が止まることは時折ありました。しかし、それらは数時間程度で解消されるのが常であり、今回のように約1週間にもわたって世界経済の大動脈が麻痺するというのは、緊急事態でした。
今回のコラムでは、3月のスエズ運河封鎖事故がロシアにどのような影響を及ぼし、同国の国益にどのようにかかわってくるのかを考察してみたいと思います。
ロシアは石油・天然ガスの輸出大国ですので、3月のスエズ事故でロシアへの影響がまず注目されたのも、その分野でした。
米エネルギー情報局によると、世界の石油輸送の9~10%、液化天然ガス(LNG)輸送の約8%を、スエズ運河と近接するパイプラインが担っているということです。
このルートでの石油輸送量は、日量60万バレルほど。ペルシャ湾岸の産油国から欧州市場へと、石油タンカーがスエズ運河を北上し、またカタールのLNGも同じルートで欧州へと運ばれます。
逆に、スエズ運河を南下して、ロシアの石油がアジア市場に運ばれていきます。最近では、国別で見ると、スエズ運河を通過する石油のうち、最も多いのがロシアのそれでした。
3月の座礁事故により、一時は1千万バレル以上の石油を積んだタンカーが周辺海域で立ち往生していると言われましたが、そのうち最大の26%がロシアから供給されたものだったということです(額にして1.6億ドル相当)。
それでも、事故発生直後に専門家などから指摘されたのは、「この事故でロシアは勝ち組になるだろう」という点でした。
というのも、スエズ運河がストップすることにより、ペルシャ湾岸諸国の石油、カタールのLNGがヨーロッパ市場に届かなくなり、ロシア産の石油およびパイプライン・ガスへの需要が高まると見られたからです。
ちなみに、ロシアがヨーロッパ向けに出している石油の油種は「URALS」という名称です。URALSは重質高硫黄であり、マーカー原油である軽質低硫黄の「ブレント」よりも若干安値で取引されるのが常識です。
3月の事故を受け、多くの専門家は、「スエズ運河の麻痺は、ロシア石油への需要増大、ひいてはURALSの価格上昇をもたらすだろう」と予測しました。
しかし、運河が当初懸念されたよりは早期に正常化したこともあり、終わってみれば、石油・ガス市場への影響は、軽微かつ一過性でした。
上のグラフに見るとおり、確かに事故が発生した翌日の24日こそ、URALSもブレントも6%ほど値上がりしています。しかし、その後の油価は一進一退でしたし、URALSとブレントの価格差が縮小したり逆転したりすることもなかったのです。
結局のところ、現時点で石油の価格を決めている最大の要因は、コロナ禍の需要減で在庫が積み上がり、今後も世界経済回復が見通せないという基本情勢です。
確かに、スエズ運河がストップしたことで投機的な動きが生じ、一時的に価格が上昇する局面もありましたが、それがファンダメンタルズを覆すほどの大きな材料になることはなかったということでしょう。
「スエズ運河に代わる輸送路を」ロシアの野望
さて、そうした短期的な思惑よりも、もっと戦略的に重要な問題があります。実は、ロシアは以前から、スエズ運河に取って代わりうる輸送路を三つほど提唱していたのです。具体的には、北極海航路、シベリア鉄道によるシベリアランドブリッジ、北~南輸送回廊です。
ロシアとしては、スエズ運河を通る貨物の一部でも自国が主導する輸送路に誘致して、トランジット収入の確保、インフラ整備、沿線開発につなげたいという狙いがあるわけです。以下では、三つの輸送路それぞれについて解説を試みます。
ロシアは以前から自国の北極海沿岸を航行する北極海航路を、ヨーロッパとアジアという二つの大市場を結ぶ新たな輸送路として活用することを提唱してきました。
近年、気候変動により北極圏も温暖化し、北極海が海氷で覆われる範囲や時期が縮小しています。これにより、北極海航路の可能性が高まっているというのがロシアの主張です。
3月のスエズ運河封鎖事故を受け、ロシアのN.コルチュノフ北極国際協力特任大使が次のようにコメントしました。
「スエズ運河に代わる輸送路を開拓しなければならない。とりわけ、北極海航路の開発が必須であることが、今回のスエズ運河の事故によって示された。北極海航路の魅力は、短期的にも長期的にも高まっていく」
ロシア極東のウラジオストクから北極海を回ってバルト海のサンクトペテルブルグまで航行すると、その航程は1万4千kmとなります。南のスエズ運河経由では2万4千kmですので、確かに40%ほどのショートカットが可能です。
氷がない時期には、スエズ運河経由と比べて輸送日数を10~12日程度短縮できると言われています。
専門家のA.ブヤノフ氏は、5、6年後には北極海航路を利用したコンテナ輸送が100万TEU(20フィートコンテナ換算)に達し、現在スエズ運河を通って輸送されているコンテナ数の2%に届く可能性があると指摘しています。
ロシア経済発展省はさらに野心的で、港湾インフラの整備と原子力砕氷船の建造を通じ、2025年までには北極海航路によるコンテナのトランジット輸送を300万TEUにまで高めたい意向です。
しかし、現在のところ北極海航路は、主にロシア自身のニーズのために使われています。具体的には北極圏でのインフラ建設のための資機材輸送、ロシアの資源輸出、北方地域への物資供給といった目的です。
ロシアが増やしたいのはコンテナ船を含め、ヨーロッパとアジアの間を行き来する船が北極海航路を利用してくれることなのですが、今のところそうした利用はごく限定的です。
2018年8~9月に、Maersk Line社がロシア当局との協力の下、アイスクラス(耐氷性)のコンテナ船でロシア極東のウラジオストクを出発して北極海を航行し、バルト海のサンクトペテルブルク港に到達するという試験航行を行いました。
しかし、同社は結果を受け、現在時点では商業ベースでこの航路を活用することは検討できないとの見解を表明しています。
というのも、北極海での航行は厳しい気象条件と海氷との戦いであり、特に北極海航路の東部では海氷の厚さが4メートルほどになります。
したがって、温暖化が進んでいると言っても障害なく航行可能なのは7月から10月くらいまでで、砕氷船を使っても5月から12月くらいまでに限られます。
というわけで、3月にスエズ運河で事故が起きても、「では、北極海航路を使うか」ということには、そもそもならないわけです。
スエズ運河の運航が本当に長期にわたって停止したら、船舶はやむなくアフリカ最南端の喜望峰回りのルートを選びます。
ロシア側がしばしば強調するのは、北極海航路はスエズ運河と違って通行料金がかからないという点です。しかし、海氷の状態にもよりますが、基本的にはロシアの原子力砕氷船のエスコートを受ける必要があり、その料金を支払わなければなりません。
また、保険料はスエズ運河ルートよりも北極海航路の方が割高に設定されます。トータルでどちらが経済的かは微妙なところです。
ヨーロッパのある機関がシミュレーションを行ったところ、北極海航路がスエズ運河などと比べて一定の競争力を持つようになるのは、2035年以降だという結果が出たそうです。
プーチン大統領は2018年5月に第4期政権を発足させるに当たって、北極海航路の輸送量を2024年までに8千万トンにまで拡大するという目標を掲げました。それを達成するためには、自国貨物だけでは不充分であり、東西間の輸送をトランジットすることが必須です。
果たして、プーチン・ロシアは今回のスエズ運河事故を奇貨として、北極海を東西間物流の新たな動脈にするという宿願に少しでも近付けるでしょうか。
実は、ロシアは前身のソ連の時代にヨーロッパ~アジア間のコンテナ輸送で大きな実績を挙げ、日本はそのヘビーユーザーでした。
1980年代、シベリア鉄道を利用した国際コンテナ輸送「シベリアランドブリッジ」により、日本から多くのコンテナがシベリア鉄道を経由してヨーロッパ方面に輸送されたものです。
残念ながら、ソ連解体後は途中でコンテナが破損したり盗まれたりする事故が多発。さらに通関制度が複雑化し、目的地までの定時運行ができなくなるなど、サービスの質が低下しました。
その間、競争相手である海上輸送に大型船が登場し、運賃が大幅に引き下げられたことで海上輸送へのシフトが起こり、シベリア鉄道を利用した国際コンテナの輸送はすっかり下火になりました。
このように、栄光は過ぎ去ったものの、何とかして往時のシベリアランドブリッジを復活させたいというのがプーチン・ロシアの悲願です。
ロシアで第4期プーチン政権の政策指針になっている2018年5月の大統領令では「(2024年までに)極東からロシア連邦西側国境までの輸送時間を7日に短縮することをはじめ、鉄道コンテナ輸送の時間を短縮し、また鉄道によるコンテナのトランジット輸送の貨物量を4倍に増大させる」との目標が掲げられています。
実際、ロシアの鉄道を利用したコンテナのトランジット輸送は拡大しつつあるようです。一例としてデータを挙げれば、中国・EU間の貿易貨物のうち、ロシアの鉄道を経由するものの割合は2015年の0.5%から2020年には5~6%へと高まったということです。
しかし、これが意味するのはロシアのジレンマかもしれません。
近年、急拡大している国際的な輸送プロジェクトに「中欧班列」があります。これは、中国とヨーロッパを結ぶ鉄道コンテナ定期輸送サービスです。
運行が開始されたのは2011年3月であり、その急激な成長から今では中国の習近平政権による一帯一路政策を象徴するようなプロジェクトとなっています。
2020年には、パンデミックによりコンテナ船のスペース逼迫と運賃高騰がもたらされ、その影響もあって、中欧班列は引き続き目覚ましい伸びを見せました(下のグラフ参照)。ロシア鉄道によるコンテナ・トランジット輸送が伸びているのも、その恩恵と思われます。
問題は、中欧班列で主流となっている「西ルート」では、ロシアの鉄道の利用距離があまり伸びないことです。
西ルートは、シベリア鉄道のロシア極東およびシベリア部分は通りません。中国西部からカザフスタンに向かい、ウラル地方でようやくロシア領に入ってシベリア鉄道に合流、そこからロシアおよびベラルーシを通過してヨーロッパ方面へと運ばれていくというルートだからです。
ロシアとしては、往年のシベリアランドブリッジのように、シベリア鉄道の起点である太平洋に面したウラジオストクからロシアの鉄道をフルで利用してほしいわけですが、中国主導の中欧班列ではそうもいかないわけです。
鉄道のコンテナ輸送は、概して海運よりも割高になります。ですので、シベリア鉄道による鉄道のトランジット輸送は、ある程度単価が高く迅速な輸送が望まれる商品が対象になります。具体的には、エレクトロニクス製品、自動車部品、消費財など。
ロシア政府は2020年秋から、シベリア鉄道を利用するトランジット輸送に対して補助金を給付しています。
日本も、シベリア鉄道をヨーロッパ向けのトランジット輸送に利用することを官民を挙げて積極的に検討しています。
スエズ運河を大幅に代替するところまでは行かないまでも、欧州向けの輸送路としてシベリア鉄道という選択肢を持っておくことは日本にとっても意味のあることでしょう。
そしてもう一つ、ロシアが有望視しているスエズ運河迂回ルートがあります。これは2018年11月にロシア・インド・イランの3ヵ国が共同で発案したもので、当事者たちは「北~南輸送回廊」と呼んでいます。
モスクワを中心としたロシアのヨーロッパ部から、ロシア南部のアストラハンを経て、カスピ海を縦断、イラン領を経てオマーン湾~アラビア海に出て、インド西岸のムンバイにまで至るという全長7千200kmに及ぶ輸送ルートを思い描いています。
モスクワ~ムンバイ間の輸送は、スエズ運河経由よりも20日ほど速く、30~40%割安になるということです。
もちろん、その3国間で貨物をやり取りするだけでなく、ヨーロッパとアジアを行き来する膨大な貨物の一部をスエズ運河に代わってトランジット輸送することに主眼があります。
もっともこのような輸送回廊が実現したとしても、見込まれる貨物量は年間2千万~3千万トン程度ということです。
上述のとおり、スエズ運河は年間11.7億トンもの貨物の輸送路となっているわけで、仮にそこから2千万~3千万トンを奪っても、せいぜい2~3%にすぎません。
以上、ロシアが推している3つのスエズ運河代替ルートを概観してみました。
北極海航路は、可能性とともに困難さも浮かび上がっています。シベリアランドブリッジの利用が広がるかどうかは経済性次第でしょう。北~南輸送回廊は、まだ海の物とも山の物ともつきません。
おそらく、今後10年、20年くらいのスパンでは3ルートとも最大限に成功したとしても、そのトランジット輸送量は現在のスエズ運河の10分の1くらいが精一杯なのではないでしょうか。
北極海航路とシベリアランドブリッジでは、日本も主要なユーザーとして想定されています。日本としては、過度にコミットする必要はありませんが、メリットがあれば活用する余地はあるので、注視を続けるべきでしょう。