列車の中で銃撃され、辛くも命拾いしたロシア出身の主婦。森で襲われ重傷を負った若い女性教師。別々の場所で起きた二つの事件の被害者には、互いに面識もつながりもない。ところが、使われた銃は同じだった――。
本書『Ohne Schuld(罪なくして)』の著者シャルロッテ・リンクはドイツの国民的人気作家だ。日本でいうと宮部みゆきのような存在だろうか。歴史小説でデビューしたのは19歳のとき。ミステリーに移行した後は、ほぼ年1冊のペースで作品を発表し続け、そのすべてがベストセラーになっている。作品は社会ドラマ、心理ドラマと呼ばれることが多い。人間の葛藤や悩みが丁寧に掘り下げられ、読者は最後に、謎が解決したカタルシスのみならず、壮大な人間ドラマを読んだという充実感とともに分厚い本を閉じることになる。
本書は「非リア充」のケイト・リンヴィル刑事シリーズ3作目。主人公ケイトは未婚のアラフォーで、恋人はおろか友人さえいない。そんな自分を受け入れられずに悩んでいる。だが、ケイトには人の心情を理解して事件の核心をつかむ鋭い勘と、恐れず危険に飛び込んでいく勇敢さがある。ただひとりそれを見抜いて評価するアル中の警部ケイレブなど周りの人との関係も含めて、ケイトがなんとか自分を変えようと悶々(もんもん)と悩み、他人をうらやみ、空回りしながらも奮闘する過程をともに体験できることもシリーズの醍醐(だいご)味だ。
前2作では私生活で事件に巻き込まれたケイトだが、今回は地元署の刑事として冒頭の事件捜査に当たる。被害者の一人であるロシア人主婦には、ソ連崩壊直後のロシアから養子を取ったとある夫婦にまつわる暗い過去があった。彼女の秘密が徐々に明らかになる一方、もう一人の被害者である教師が病院からさらわれ、ケイトは自らをおとりに行方を突き止めようとする。息もつかせぬスリリングな展開で、親子、夫婦など人と人との絆から生まれた「罪」が暴かれていく。
誰が、なぜ、「罪なくして」罰を受けたのか。さまざまな家族の姿と女性たちの生き様が描かれる中で、母親なら子育てに幸せを感じて当然と思い込む世間への疑問が通奏低音となって響く。それぞれの弱さを抱えた人たちの運命と、ただひとり曲がらなかった人の優しさが胸に迫る。
■うそかまことか、ベルリンのシュールな日常風景
ヴィーガン食ブーム、検索大手グーグルに支配される生活、住宅の改装ブームとすさまじい家賃の上昇、工事ばかりで運休続きなのにどんどん値上がりしていく公共交通機関――ベルリンでの日常は、一歩引いて眺めてみると、なかなかシュールだ。ホルスト・エーファースの新作『Wer alles weiß, hat keine Ahnung(すべてを知る者はなにも知らない)』を読むと、そんなことに気づかされる。
1967年生まれのホルスト・エーファースはベルリン在住の作家で、カバレティスト。出身は北部ニーダーザクセンだが、大学進学でベルリンに出て以来住み着き、地元や故郷をネタにした小説やエッセー、朗読などで息の長い人気を博している。カバレティストとは、舞台上で歌や朗読や話術を使って政治や時代を風刺する一種の芸人のことだ。エーファースは、さまざまなテーマに新鮮な切り口で光を当て、抱腹絶倒のエピソードを描き出すことに定評がある。風刺は利いているが、誰を悪者にすることもなく、上から目線ではない語り口に好感が持てる。
本書には、エーファースが過去についたさまざまな職業などの思い出話とともに、主に2019年から20年の夏までの出来事がつづられている。たとえば、住んでいる賃貸住宅が改装され、家賃値上げを言い渡された男の話。裁判所に訴え、改装の恩恵を受けないという条件で値上げを免れた男は、新たにしつらえられたバルコニーに出るときには腰に綱を巻きつける。男にとってバルコニーは公式には存在せず、「宙に浮いている」ことになるからだ。
または、客からヴィーガンのソーセージはないのかと頻繁に聞かれることに嫌気がさした精肉店が「ヴィーガンフリー・ソーセージ」(要するに普通のソーセージ)を販売し、大ヒットさせた話。「カフェインフリー」「ラクトース(乳糖)フリー」などと並んで、新たに法外な値段で「コーヒーフリー」カプチーノ(要するにミルク)の販売を始めたカフェの話。
どの話もエッセー風だが、内容が事実であるとは限らない。従業員でも代理人でもなく「グーグル」そのものから電話がかかってくるといった荒唐無稽なエピソードも多く、読者もそこは承知のうえで、一種の短編小説として楽しむ。誇張や想像があるにしても、著者の描くエピソードはものごとの核心を突いており、むしろその誇張や想像によって、現実がより鮮明に浮かび上がってくる面もある。
本書の終盤には、わずかながら、昨年3月から5月までの第1次ロックダウン下でのエピソードもある。第2次ロックダウンがすでに6カ月目に入った現在のドイツとは別世界のような、あの頃の社会の連帯感と一種の熱狂が描かれていて、不意をつかれた。感染者1人が何人に感染させるかを示す「実効再生産数」、空き病床数、「カーブをならせ」というスローガンなど、1年前にはロックダウンを正当化する理由として使われていた概念が、検査で陽性となった人の絶対数を連呼するだけの現在の政府やメディアからはまったく聞かれなくなったことにも、改めて気づかされる。1年たち、長引くロックダウンによる倒産や失業、多数の子供も含めたうつ病患者や自殺者の激増に加え、政府の数々のスキャンダルも明るみに出て、市民の意識も大きく変わっている。友達とハグをしたという理由で17歳の少年がサイレンを鳴らしたパトカーに追いかけまわされるといった、信じがたいシュールな光景が現実になってしまった現在のドイツを、著者ならどう斬るだろう。おおいに興味がある。
■夜道のおともに「同伴電話」
夜道を一人で歩くのが怖い――世界でもまれに見る安全な国である日本でも、女性なら(ときには男性でも)よく知る感覚ではないだろうか。『Der Heimweg(帰り道)』は、夜道を歩く女性がかけることのできる「同伴電話」サービスを舞台としたサイコスリラーだ。電話で人と話しながら歩けば、不安が和らぐばかりでなく、現実の犯罪の抑止にもなるし、万一の場合には、電話の向こうの「同伴者」が警察に通報してくれる。ちなみに、ドイツでは本当に存在する民間のサービスなのだと、本書で知った。
物語の主人公は2人。夜道を歩く女性に受話器の向こうから「同伴」する仕事を、友人の代わりに一晩引き受けた男性ジュール。そして、携帯の誤作動のためか、かけた覚えもないのにジュールと話をすることになる女性クララ。実はクララは、夜が明ける前に自殺するつもりだった。思いとどまらせようとするジュールは、必死にクララに話をさせる。こうして2人は、電話で互いの身の上を語り合うことになる。折しも世間は「カレンダーキラー」の話でもちきり。被害者の血で殺人の日付を壁に書くことから、その名が付けられた連続殺人犯だ。クララはそのカレンダーキラーに出会ったのだと言う――。
物語を進める鍵は「同伴電話」だが、本書の真の主題は家庭内暴力だ。妻を虐待する夫。虐待を受けながら、諦めや恐怖のせいで夫から離れられない妻。そしてそんな両親に無意識のうちに影響を受け、やがて自らも暴力の加害者または被害者となる子供たち。
電話越しに語り合うジュールもクララもともに、父が母を虐待する家庭に育った。そして大人になったクララは、夫から壮絶な暴力を受けている。息もつかせぬ展開のなかで、家庭内暴力がもたらす根深い問題が、克明に、リアルに描かれる。精巧きわまる構成で、意外な事実が次から次へと明らかになり、読者のクララ像はどんどん揺らいでいく。彼女は本当に自分で語るとおりの被害者なのか。それとも、すべては神経科クリニックに入院していたこともある彼女の妄想なのか。最後には息をのむ驚きが待っている。
コロナ禍で現在、ドイツを始めヨーロッパの多くの国はロックダウン中。狭い家のなかで四六時中一緒に過ごすことを余儀なくされる人が多く、家庭内暴力の件数は激増している。これまで以上に注目を集めるこの問題に深く切り込む本書は、図らずもタイムリーな本となった。
著者ゼバスティアン・フィツェックは、世界的な人気を誇るドイツの作家だ。日本でも多くの作品が翻訳、紹介されており、おそらく本書『帰り道』が日本語で読める日もそう遠くないだろう。
ドイツの書店から(フィクション部門)
2月5日付Der Spiegel誌より
『 』内の書名は邦題(出版社)
1 Erste Person Singular
『一人称単数』(文芸春秋)
村上春樹
初登場でいきなり1位。ドイツ語圏での「春樹人気」は根強い。
2 Sprich mit mir 私と話して
T. C. Boyle T. C. ボイル
より人間らしいのは人間か猿か。米の大人気作家による最新SF。
3 Wer alles weiß, hat keine Ahnung すべてを知る者は何も知らない
Horst Evers ホルスト・エーファース
ベルリンの人気ユーモア作家が世相を鋭く斬る、抱腹絶倒の短編集。
4 Der Heimweg 帰り道
Sebastian Fitzek セバスチャン・フィツェック
日本でも人気のサイコスリラー作家の最新作。家庭内暴力がテーマ。
5 Der neunte Arm des Oktopus タコの9本目の腕
Dirk Rossmann ディルク・ロスマン
大手ドラッグストアチェーン創業者が初めて書いた小説。環境保護スリラー。
6 Ohne Schuld 罪なくして
Charlotte Link シャルロッテ・リンク
ドイツの国民的人気作家の最新作。非リア充刑事シリーズ3作目。
7 Männer in Kamelhaarmänteln キャメルのコートを着た男たち
Elke Heidenreich エルケ・ハイデンライヒ
「服」をテーマにした超短編集。昨秋からリスト常連のベストセラー。
8 Krass クラス
Martin Mosebach マルティン・モーゼバッハ
実力派作家の大作。金と陰謀で周囲を操り権力を握る男をめぐる物語。
9 Alle sind so ernst geworden みんなクソまじめになっちまった
Martin Suter, Benjamin von Stuckrad-Barre マルティン・ズーター、ベンヤミン・フォン・シュトゥックラートバレ
さまざまなテーマでスイスの人気作家ズーターと友人が交わす軽妙な会話。
10 Mädchen, Frau etc. 少女、女etc
Bernardine Evaristo バーナーディン・エヴァリスト
世代をまたいだ英国黒人女性たちの物語。一昨年のブッカー賞受賞作。