「あの女にやられた」。2019年2月28日、ハノイで行われた第2回米朝首脳会談が決裂した後、米政府関係者の一人が発した言葉だ。
米国国務省のビーガン北朝鮮政策特別代表は同年2月6日から8日まで、北朝鮮外務省の金赫哲対米特別代表と交渉したが、金氏は中座を繰り返し、交渉権限がないことがはっきりした。2月21日からハノイで始まった実務協議に登場したのが、崔善姫氏だ。
崔氏は寧辺核関連施設を放棄する考えを表明したが、ビーガン氏は納得しなかった。ビーガン氏は、北朝鮮が非核化する施設や兵器などの定義を明確にするよう要求。同時に、寧辺だけではなく、平壌近郊のカンソンと呼ばれる核施設などの放棄も求めたが、崔氏は受け入れなかった。
その後、28日の米朝首脳会談で、トランプ大統領はビーガン氏が実務協議で求めていた要求を改めて突きつけた。ところが、金正恩氏は戸惑うような表情を見せるばかりで、寧辺核施設の放棄にこだわり、会談は決裂した。米政府関係者は当時、「実務協議で我々が要求した内容が、金正恩に伝わっていなかった」と語っていた。
当時、北朝鮮の朝鮮中央テレビが公開した映像には、メリア・ハノイのスイートルームで、崔氏が金正恩氏に報告する姿も収められていた。米政府は、崔氏が実務協議の内容を金正恩氏にわざと報告していなかったと判断した。
米政府は、崔氏が第2回米朝首脳会談後に更迭されるのではないかとみていた。実際、金赫哲氏は対米特別代表の任を解かれ、形式的には崔氏よりも上位にあった李永浩外相や金英哲党統一戦線部長もそれぞれ、対米交渉の一線から退いた。
だが、崔氏だけは違った。韓国の情報機関、国家情報院は11月3日、国会情報委員会で「崔善姫氏は公開活動こそないが、米大統領選後の対米政策の立案に専念している」と報告し、崔氏がなお米朝関係のキーパーソンの地位にとどまっているとの見方を示した。
■「特別な家計の出身」「まったく違う権力層」
崔氏は「マダム・チェ」と呼ばれ、2000年代初めから、6者協議や米朝協議などで「なぞの実力派英語通訳」として鳴らした。「6者協議首席代表を務めた金桂寛氏の発言を勝手に意訳していた」「上司の李根米州局長(当時)がエコノミーなのに、崔氏はビジネス席に搭乗した」などの逸話に彩られた人物だった。
北朝鮮関係筋によれば、崔氏は崔永林元首相の養女。韓国政府元高官は崔善姫氏について「李永浩外相のように抗日闘争や朝鮮戦争で貢献した特別な家系の出身。崔元首相が養父を買って出るくらい権力に近い。職業外交官の金桂寛氏らとは全く違う権力層だ」と述べていた。
米朝関係筋によれば、崔善姫氏は近年、金正恩氏付の書記室のメンバーと急速に親しくなったという。書記室こそ、金正恩氏と外界をつなぐ機関であり、書記室の判断次第で、正恩氏に情報が上がらないこともある。同筋は「崔氏と書記室は、米朝実務協議の内容すべてを正恩氏に報告しなかった。米朝関係が適度に対立していた方が、自分たちがエリートでいられると判断したからだ」と語る。
元駐英北朝鮮公使だった太永浩氏も著書「三階書記室の暗号、北朝鮮外交秘録」で明らかにしているが、書記室は朝鮮労働党本部3階にあり、党本部職員ですら自由に出入りができない。別の関係筋によれば、書記室メンバーは、抗日パルチザン家系など、北朝鮮エリート階層出身者で占められるほか、軍将校や党副部長級の幹部が出向する場合もある。
メンバーは100人を超え、「徹底した思想や身元調査を経て選抜された、各分野の専門家」(関係筋の一人)という。
金正恩氏と書記室メンバーは運命共同体だ。祖国を解放した金日成主席の血族である金正恩氏をトップに戴いてこそ、書記室メンバーらは選挙も経ないで、権力の正当性を主張できる。人脈や経験が不足している金正恩氏も、自らの目や耳になる書記室抜きでは権力を維持できない。
金正恩氏は日米韓などのメディアを自由に視聴できる立場だ。第2回米朝首脳会談が決裂した後、崔善姫氏や書記室メンバーが米朝実務協議の内容をきちんと報告していなかった事実を知っただろう。それでも、崔氏が権力の座を維持していることは、両者がお互いを必要としている事実を雄弁に物語っている。
■バイデン政権に北朝鮮はどう出る
米国でバイデン政権が誕生すれば、北朝鮮はまず軍事的な挑発を行って米朝協議の必要性を米市民に認識させた後、再び交渉を挑んでくるだろう。
だが、緻密な実務協議を繰り返し、さらに金正恩氏と首脳会談をやっても、決して核開発を巡る合意には到達できない。崔善姫氏や書記室に代表される北朝鮮特権層が納得しないからだ。米朝合意によって北朝鮮が国際社会に復帰すれば、韓国との統一も現実味を帯びてくる。そうなれば、かつての東ドイツのように、北朝鮮の特権層は利権を手放さざるを得なくなる。
■平壌に連絡の窓口を
米国のバイデン政権や、日本人拉致問題の解決を渇望する日本の菅政権がとるべき道は何だろうか。
第1に「北朝鮮は独裁国家だから、最高指導者の金正恩氏を説得すればすべて解決する」という従来の常識から脱却しなければならない。崔善姫氏や書記室など、北朝鮮特権層が行く手を阻むからだ。
第2に日本や米国は、平壌に連絡事務所を設置する必要がある。崔善姫氏はともかく、書記室メンバーら北朝鮮特権層はまず、日米韓などの政府要人と接触しない。彼らとのパイプを作るためには、現地で粘り強く活動を続けるしかない。
米朝協議は事実上、1992年1月、ニューヨークでアーノルド・カンター米国務次官と金容淳労働党書記との会談で始まった。以来、30年近くの歳月が経ち、それまで北朝鮮について何も知らなかった米国は多くの事を学んだ。バイデン政権が米朝合意を導き、その時に菅政権が日本だけ置き去りにされない手を打てるよう、願ってやまない。