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シンプルな装丁に隠された、怒濤の内面描写 フランスのベストセラー

Bestsellers 世界の書店から 更新日: 公開日:
相場郁朗撮影

エマニュエル・カレールの小説は、『口ひげを剃る男』など、映画の原作としても知られる。実際の殺人事件を取材した『嘘月の米大統領選が近づく中、トランプ大統領関連の暴露本が次々と出版されている。本書は大統領のめいが一族の歴をついた男』(2000年)以来、純粋なフィクションとしての小説技法を捨て、フィクションと伝記とエッセーの境界が定かでない作風を確立してきた。新刊シーズンのトップを切る本書『Yoga(ヨガ)』もまたしかり。

これほど素っ気ないタイトルも珍しいが、もちろんヨガの教則本ではない。長年、ヨガと瞑想(めいそう)を日課にしてきた著者は、取材に訪れた若い記者が東洋の陰陽思想のかけらも知らないことに驚き、50代に入ってようやく心の平穏を得ていた時期だったこともあり、ヨガと瞑想についての小品を書いてみようと思い立つ。15年1月、10日間の瞑想道場に参加するべく、著者がパリを後にするところから物語は始まる。

必要最低限の持ち物しか許されない。携帯電話もだめ。参加者どうしの会話も禁じられ、ひたすら朝から晩まで瞑想にふける。一見何も起こらない、しかし内面は疾風怒濤(どとう)の3日間の描写が、本書約400ページの約150ページを占める。抱えきれないくらいの自分のエゴも醜さも煩悶(はんもん)も、カレール独特の容赦ない分析とユーモアの手にかかると、モリエールの芝居のごとくおもしろく、味わい深い。

この奥深い田舎での静寂は、パリからの知らせで突如破られる。風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件。殺害された中に、経済学者ベルナール・マリスがいた。著者は、親しかったマリスの伴侶から追悼文を頼まれ、その任を果たすべく道場を後にする。

その後、カレールはうつ病の底なし沼へはまり込んでいった。初めてのことではなかったが、今回はことのほか深刻な状況を呈し、精神科病棟に入院。自殺願望にさいなまれ、電気ショック療法に至る。生き地獄からようようのことではい出し、詩に助けられ、気づけば移民たちが押し寄せるギリシャの島で少年たちに作文指導をしていた。世界の悲惨と、一人の男の内面の荒廃は、共振しつつ拮抗(きっこう)しながら、それでも一縷(いちる)の光を求めて自己の統一性を保とうとする。しょせん瞑想など、無駄な努力なのだろうか?

最初に意図された小品は、深くも滑稽、恐ろしくも崇高なカレール流「私小説」に昇華された。

■男の子が待望された時代に生まれてきた女性

カミーユ・ロランスもまた、オートフィクション(自伝的創作)の手法で人間の内面に肉薄する作品で高い評価を得ている作家だ。2000年にフェミナ賞などを受賞した『その腕のなかで』や、映画『私の知らないわたしの素顔』の原作などで知られる。

Fille(娘)』は、娘に生まれ、娘として育つことはどういうことか、娘を持つということはどういうことかを、時に「娘」である自分の視線で、時に他者である「娘」の視線で、独特の距離感を保ちながら語る。

主人公は1960年代に地方都市ルーアンで生まれた。父は医者で母は主婦。まだ家父長意識に支配されたブルジョア家庭だった。当時は超音波検査など存在しないから、赤ん坊を迎える第一声は、「男の子です」、または「女の子です」という言葉だ。

2人目の子どもに男の子を期待していた父親は、落胆を隠せない。統計のための家庭調査員に「お子さんはお持ちですか」と聞かれて「いいえ、娘がふたり」と答える。

幼少時、大おじが下着の中に手を入れてきた時も、周囲のおとなの女たちは黙殺し、主人公にことを荒立てないために黙っているよう命じた。女に発言権はない。しかも、いつ危ない目にあうか、いつも身構えていなければならない。それでいて、「何かが欠けた存在」として扱われる。そういう時代、そういう環境だった。

主人公は成長し、結婚し、男児を身ごもるが死産。その悲しみは癒えることなく、しかし、娘を授かる。女の子であることをいやがるような娘に、主人公は大いに戸惑いつつ、自分に内在する女らしさへの視線からも逃げられない。女であるということはなんとも厄介である。

30年の間に「娘」であることの意味は大きく変わった。家父長権から親権への移行、女性解放運動、性に関する自己決定権。男と女の性のニュアンスの差が私たちの社会を豊かなものにもしていることも承知の上で、著者は女というものへの社会の視線の変化をごく個人的な体験に引きつけて細やかに描いてゆく。

ちなみに著者のペンネームであるカミーユは、男性にも女性に使える名前である。あえて両性に共通の名前をペンネームに選んだという。本書の中で、主人公が娘にどういう名前をつけようか迷い、「アリス」という名前を選ぶところもおもしろい。女の子であることがはっきりしている名前だが、不思議の国で波瀾(はらん)万丈の活躍をする『不思議の国のアリス』の主人公の姿からは、男の子に対する引け目がいっさい感じられない。

フランス語自体に男性形と女性形があり、世界はふたつに分かれている。女性形がない職業名なども多く、「Auteur(作家)」というのもそのひとつ。最近は女性作家を指すのにAuteure とeをつけて女性名詞にして書く場合が多くなった。

主人公が母親になった時代からさらに30年が経ったわけだが、「娘」として生まれた人間が自分の居場所を獲得してゆく過程は、2020年代のいまも大きな冒険譚(だん)であることに違いはない。

フランスのベストセラー(フィクション部門)

L'Express誌9月10日号より

1 Yoga

Emmanuel Carrère エマニュエル・カレール

ヨガと瞑想を主旋律に著者の内面および外界の危機を克明に描き出す。

2 Les Aérostats

Amélie Nothomb アメリー・ノートン

父親に抑圧された高校生の心を19歳の女性家庭教師が文学の力で開いてゆく。

3 L'Enigme de la chambre 622

Joël Dicker ジョエル・ディケール

著者の故郷スイス・ジュネーブが舞台のミステリー。夏前からリスト上位を維持。

4 Comme un empire dans un empire

Alice Zeniter アリス・ゼニテール

国会勤務の女性とハッカーを軸に現代の息苦しさを浮き彫りにする。

5 Midnight Sun

Stephenie Meyer ステファニー・メイヤー

「トワイライト」シリーズ第5巻。ヴァンパイヤの視点から第1巻を描く。

6 Fille

Camille Laurens カミーユ・ロランス

1960年代に育った女性が90年代に母となり娘を育てることの意味を問う。

7 Agatha Raisin enquête (t.XXIV). Gare aux empoisonneuses

M.C.Beaton  M.C.ビートン

英推理小説作家の人気シリーズ、「アガサ・レーズン」の第24巻。

8 Le Temps gagné

Raphaël Enthoven ラファエル・エントヴェン

メディア界の人気者、若手哲学者が書く、インテリ左派裕福層をめぐる私小説。

9 Agatha Raisin enquête (t.XXV). Au théâtre ce soir

M.C.Beaton  M.C.ビートン

7位のシリーズ第25巻。友人に誘われて行った芝居の舞台上で殺人事件が…。

10 Broadway

Fabrice Caro ファブリス・カロ

漫画家Fabcaroの小説。ブロードウェーを目指していた中年男の哀感を描く。