きっかけは、1999年春の統一地方選だった。富山県政の担当として、県内の自治体の選挙について調べていた私は、井口村で過去5回の村議選のうち4回が無投票だったと知って、素朴な疑問を抱いた。無投票って、そんなに続くものかな?
村の選挙事情を調べると、驚きはさらに深まった。当時500人ほどいた男性有権者のうち村議の経験者は70人以上。単純計算しても7人に1人。私は勝手に、「議員の村」と名付けた。
富山支局のある富山市から車で1時間弱の村に通い、家々をアポ無しで訪ねて歩いた。のどかな田園にぽつんぽつんと家々が建つ。干し柿のつるされた農家の縁側で何人も話を聞くうち、その「仕組み」がだんだん分かってきた。
当時、村は九つの地区に分かれていた。村議選の告示を約1週間後に控えた夜、各地区の公民館で「寄り合い」が開かれる。地区から誰を候補として推すのか。それぞれの「顔役」が調整しながら、各世帯の代表数十人で話し合う。出たい人がいなければ、他薦で多数決にかける。本人がやりたくなくても、寄り合いの決定には逆らえない。
各地区から出せる候補の数は、住民数に応じて割り振られていた。村議会の定数が12なら、中心地区から複数を出し、その他から1人ずつ選出。合計で12人になるよう調整されていた。それが村にとっての「民主主義」だった。
選挙は「儀式」に過ぎない。告示日に村選管に届け出し、それでおしまい。選挙ポスターも、選挙カーもいらない。そして、もう一つ「暗黙の了解」があった。原則1期4年での交代である。70人以上いた村議経験者の8割超が1期で引退。長くても3期、それも過去5人しかいなかった。年4回の定例議会や視察などで議員はけっこう忙しい。なのに報酬は当時、月16万円と年86万円のボーナスなどで、農家や勤め人が続けるのは難しい事情もあった。
■「これじゃ掃除当番と一緒」
そんな「慣習の村」に、小さな反乱が起きたことがある。「これじゃ掃除当番と一緒じゃないか」。1995年の村議選で、2期目に入った男性議員が定数を12から8に減らす運動の先頭に立ったのだ。地区数より少ない8議席にすれば、調整が崩れて選挙戦になる。男性はそう考えた。
ところが、男性のもくろみはあっけなく鎮圧されてしまう。狙い通り定数は減ったものの、中心地区が隣の小さな地区を吸収する形で「調整」が働き、結局、無投票になった。
なんなんだ、これは? 当時、まだ入社4年目のぺーぺー、20代後半だった私は、ある顔役の男性に疑問をぶつけた。選挙に出たい人が出て、これぞと思う人に自由に投票する。それが民主主義じゃないんですか?
生意気な若造、孫ほども年の離れた私に、彼は諭すように言った。「選挙戦になれば、いらぬ出費がかかる。しこりも残る。良いことはないよ。ごたごたは避けたいと、みんな思っている」
先輩記者の助けを借りて、私は「議員の村 井口主義のいま」というタイトルの特集連載を、朝日新聞本紙の富山県版で報じた。
あれから21年。当時の自分が書いた記事を読み返すと、浅い見識に赤面する。寄り合いで候補を絞り込み、無投票を人為的に作り出す井口村の「慣習」がいかに滑稽か。私たちが信じる民主主義をないがしろにしている――。そんな青臭い正義感が行間からぷんぷんにおう。
五十路手前の今なら、もう少し違った見方ができるんじゃないか。今年8月末、私は21年ぶりに村を訪れた。
■そして、議員はいなくなった
「カイニョ」と呼ばれる屋敷林が田園に点在する散居村の美しい風景は、昔と少しも変わらなかった。けれど、井口村は消滅していた。2004年の「平成の大合併」で南砺市の一部になっていたからだ。
世界各地のツバキを栽培・展示している「いのくち椿館」で、かつて取材した山崎喜弘さん(63)と21年ぶりに再会した。ユキツバキは村のシンボル樹だった。
当時、山崎さんは「椿塾」という村の若手による有志団体を立ち上げた。村おこしのイベントを企画し、広報誌を作って各戸に配った。無風の村議選にも、いつか新風を吹き込みたいと語っていた。
あれから、どうだったんですか? 山崎さんは寂しげに笑った。「結局そこまではいけませんでした。今や、村から議員を出せる状況ではなくなりましたし」
04年の合併直後に行われた南砺市議会選で、旧井口村には定数2が割り当てられ、3候補による選挙戦になった。合併時、最後の村議会議長を務めた塚田久俊さん(79)は振り返る。「市になったし、出たい人が出ればいい。村内もそういう雰囲気だったので、『寄り合い』での調整はありませんでした」
その4年後、08年の市議会選では人口減に伴い、旧井口村の定数は1に減らされた。その後、南砺市全域の大選挙区制になって割り当てはなくなり、16年の選挙で旧村出身の唯一の現職が落選した。当時、旧井口村の有権者は1021人、投票率は81・18%。それでも当選ラインに48票届かなかった。「椿塾」現塾長の高崎直和さん(49)は言う。「もし仮に、昔のように旧井口村で代表を決めて選挙に送り出したとしても、村の全員が投票したって当選する保証はないんです」
長く続いた「井口主義」の意味を、山崎さんはあらためて考える。自分の父は歴代最長の24年間、村長を務めた。6回の村長選はすべて無投票だった。「無投票でいいのか、任期が1期でいいのか、正直それは分かりません。それでも、少なくとも村の慣習は、多くの住民が広く村政に関われる機会を与えてくれた。その意味では、民主的なシステムだったと言えるのではないでしょうか」
旧井口村は農業が主要産業で、大企業はない。住民数は7月末時点で1144人。合併時から230人以上減った一方、65歳以上は39%を超える。地方交付税頼みの村財政を考えれば、周辺町村と合併するほかに生き残る道はなかった。
それでも、と元村議会議長の塚田さんは言う。「昔は寄り合いで一人ひとり発言して、じゃあみんなで頑張ろうという一体感があった。民主主義を肌で感じることができた。今は、市の大きな問題の前では、小さな村は切り捨てられる。選挙戦になっても、俺らの意見は聞いてもらえない。どっちがよかったんだろうか」
誰かを投票で選び、その人に政治を託す。世界で最も採用され、近代日本も導入した代表民主制。それが今、機能不全に陥りつつあるといわれる。世帯ごとに代表を出し、「寄り合い」で決める旧井口村の「慣習」が、けっして民主的とは言わない。けれど、関心の薄い人も応分に政治に関わる「井口主義」は、村独自のやり方を残しつつ、押しつけられた民主主義へのささやかな抵抗を試みたのではないか。21年経って、私がいま導き出せる結論である。
富山から帰京して数日後、山崎さんからメールが届いた。私の取材を受けて自分なりに考えた末、今年11月に予定される南砺市議会選への立候補を思い立った。けれど、現実的に準備が間に合わず断念した。そう綴られていた。「今回わたしがダメでも、4年後に誰かが出るかも知れない。そのときこそ、その人を支えて、井口をもう一度盛り上げたいと思います」