黒田氏によれば、「寄り合い」の起源は、村の実態が資料で把握できる鎌倉時代後半から室町時代までさかのぼる。「当時の社会状況では、個人だけではとうてい生きていけませんでした。血縁者、つまり家族関係が最も頼りになり、地縁的な村が基本的な社会の最小単位だったのです」
なるほど。戦国時代と聞くと、戦国大名が領民を従えて「独裁者」のように振る舞っていたイメージがあるけど、領民との関係はどうだったんでしょうか?
黒田氏は言う。「当時は身分制社会ですから、大名はいわゆる王様です。領民の意見を聞くわけではありませんでした。ただ、村を豊かにしておかないと、きちんと納税はされないし、人手不足に陥ります。その辺をうまくやらないと、たいがい家がつぶれてしまいます」
名だたる戦国大名の中でも、領民をうまく統治していた代表例として黒田氏が挙げるのが、北条早雲を祖とし、関東一円を支配した北条氏だ。「家訓として、主君が領民から過度に租税を取り立てることを戒めました。3代目の氏康のときには、村から直接訴状を受け付けました。村同士の紛争を解決しておかないと、対外戦争ができないという事情がありました」
そんな独裁国家の色彩が強い領地を構成していた「村」が、「民主的」に物事を決めていたというのは、なんだか不思議な感じがするけど……。
例えて言えば、現代の「学級会」みたいな雰囲気だったのではないか、と黒田氏は語る。当時、一般的な村の成人男性は最大1000人程度で、そのうち寄り合いに参加できるのは家長だけ。租税を納めていることが条件で、夫が早世した女性家長の出席が認められることもあったという。「多くても300人程度の会議で、立場はみな平等でした。ただ、原則は反対する人がいなくなるまで、話し合いがずっと続きます。ときには、三日三晩、酒を飲みながら、ということもありました」
え、三日三晩? そんなに長いんですか?! それじゃあ、疲れたから、もういいや、なんていうことになりそうですね?
寄り合いに来なければ、罰金を科す規定もあった、と黒田氏は言う。「それだけ徹底的に話し合うわけです。政治交渉など急ぐ場面では多数決もありましたが、しこりを残したくないので意思統一が基本でした。大変だったと思います。だからこそ、いちど決まったことは絶対だったのです」
「寄り合い」の仕組みは江戸時代もほぼ変わらなかったことが、明治初期の聞き取り調査などから分かっているという。一方で、江戸時代になると、名主など村の上層部の中で代表者を「投票」で決めていたと言われている。初期の頃は選ばれるのに、それなりの「財力」が求められた。「村の年貢が足りない分を、代表者が立て替えなくてはいけなかったからです。当時、一つの村で年貢は、今のお金にして1000万~2000万円にも相当しました。それが不足した際、手っ取り早く補うには、有力者に立て替えてもらうことだったのです」と、黒田氏。
ただし、村のために年貢を立て替えても、必ずしも返してもらえたわけではない。「融通」と見なされ、最終的に踏み倒されてしまうことが多かったという。「江戸時代の前半は、にっちもさっちもいかなくなって、家がつぶれしまうこともしばしばでした」
明治維新以降、西洋由来の民主主義が徐々に浸透し、第2次世界大戦の敗戦を経て、1945年に20歳以上の男女すべての国民が選挙権を持つようになる。だが、西洋と日本では、民主主義のとらえ方が根本的に異なる、と黒田氏は説く。「西洋では王政に替わる国家の管理システムとして民主主義が採用され、個人の人格に政治的な権能を認めるという意識が強い。しかし、日本の場合は集団の意思決定というとらえ方をしていると思います」
なるほど、メンバー全員の一致を前提とする「寄り合い」は、長い時間をかけて、多くても数百人の合意をとればいい。そんな文化に慣れ親しんできた日本では、国家全体という大きなスケールで意思決定をするのにまだ慣れていないということなのかもしれない。
黒田氏は言う。「寄り合いが姿を変えた集落や町内会といった中間団体が、しばらく国家と個人を政治的につなぐ役割を果たしてきました。それが今ようやく解体し始めています。これから、個人が民主主義とは何かを考えなくてはいけなくなってきたと思います」
くろだ・もとき 1965年、東京生まれ。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著作に『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)など。