――アメリカの調査機関ピューリサーチセンターが今年2月に発表した調査では、34カ国で平均52%の人々が、うまく機能しない自国の民主主義に「不満だ」と答えました。日本も53%に上ります。今、代表民主制というシステムが、うまく機能していないように見えます。
選挙で選んだ誰かに政治を託す。それが代表制というものですが、これは「欠点」をいくつも抱えています。油断すると、選ばれる人が固定化し、利益集団を代表して資産が流れ込みやすい。二世、三世の議員も多い。自民党の世襲率は4割弱に上ります。こうしたことが積み重なって、自分たちの意見がくみ取られていないと不満が高まってしまう。政治に参加しても報われたという感覚が持てない、つまり政治学で言うところの「政治的有効性感覚」をくじかれてしまうわけです。
本来、みなで顔を合わせて議論して決める直接民主制が理想として望ましい、と私は思います。歴史をひもとけば、約2600年前、古代ギリシャで民主政治とはもっぱら直接民主制を意味していました。奴隷制に支えられた「市民」が、アゴラという公共の広場で主張する。人々がいる目の前で雄弁に話し、じかに議論する。代表を立てずに、みんなで決める。つまり、自分で自分を代表していたのです。でも、これは時間がかかる。古代ギリシャのアテネでは、全市民が月4回集まっていたと言われています。しかも、その場で即興的に主張する人が多かったため、意見もころころ変わり、ポピュリズムが横行しがちでした。
そもそも、じかに語りかける形で議論ができるのは、顔の見える範囲、つまり「数万人程度」が限界だと言われています。フランスの思想家モンテスキューも、民主政治を「人民全員が最高権力を持つ体制」と見なし、全人民の政治参加が可能な「小さな領土」においてしか可能ではない、と主張していました。それでも、直接民主制は古代ギリシャから、ローマ共和制を経て、7世紀にはヴェネツィア共和国に引き継がれ、18世紀末まで続きました。それに憧れたチューリヒやジュネーブなどの共和国も取り入れました。
――え、18世紀まで? ずいぶん長い間、人類は直接民主制とともに歩んできたんですね。私たちになじみ深い「代表民主制」が主流になるのは、いつごろからなんでしょうか?
ヨーロッパでは、フランス革命などの近代革命を経てからのことです。その後、1832年に始まる5回の英国の選挙法改正以降で有権者の数が爆発的に増えました。大衆社会では直接民主制は難しくなり、代表制が民主政治の地位を獲得していきます。ただ、「女性の権利」を訴えた英国の開明的な功利主義哲学者ジョン・スチュアートミルですら、投票権をいきなりすべての階層に開放するのではなく、段階的に行うべきだと主張しました。「有権者はそう簡単に賢くならない」という考えからでした。実際、英国の選挙法改正は1928年まで計5回、約100年かかっています。代表制が人々の意識に定着するのにそれだけ長い時間を要したということです。そう考えると、代表民主制は定着してまもない新しい制度とも言えるかも知れません。
――代表制といえば、議会を思い浮かべますが、代表制と議会制はまったく別の出自であると五野井さんは説いていますね。
そうです。近代議会は、13~14世紀の中世ヨーロッパで発達した身分制議会が起源でした。たとえばフランスの三部会は貴族、聖職者、平民などの諸身分からなり、今日のように立法機能を果たすものではなく、国王が戦争や課税に意見を求める場でした。議会制はもともと、市民の平等が前提となる民主政治とは無縁の身分制的な制度として発達したのです。
ナチスのイデオロギーにも影響を与えたドイツの政治学者カール・シュミットは、民主主義と議会制は必ずしも結びつかないと主張したことで知られています。彼は、著作『現代議会主義の精神史的位置』や『大統領の独裁』の中で、議会は議論ばかりで何も決まらない、議会は「ひたすら喝采(acclamation)せよ」と訴えています。プラトンなどの哲人王論者は、この一般大衆(polloi)による古代ギリシャのポリスにおける議会での喝采や拍手を軽蔑していましたが、古代ローマの共和政では民意を表すものとして、評価されるようになります。最近、中国共産党がこのシュミットに敬意を表し、彼の論を盛んに引用しているのは、とても興味深いことです。
こうした議論は古くからあって、17世紀の清教徒(ピューリタン)革命から王政復古期に活躍し、共和主義の名著『オセアナ共和国』を記した英国の政治哲学者、ジェームズ・ハリントンは、議会はいっさい議論をしないで、議員は自分の確固たる意志のもとに投票せよ、と説いています。議論をすると、意見が妥協してしまうから、かえってよくない、そう考えたのです。政治は互いの意見をすりあわせるものではなく、対立するものだ、妥協するな、というわけです。彼らにしてみれば、議会は時間ばかりかかる「妥協の産物」ということなんでしょう。合意形成をめざすために相手とじっくり話して意見や選好を変容させる熟議民主主義ではなく、意見対立を重視する考え方は、現代でもシャンタル・ムフなどの闘技民主主義(agonistic democracy)を説く政治哲学者に受け継がれています。
その後、英国で1688年に起きた名誉革命で、議会の決定が国王に優越するという議会主権の原則が確立しました。さらに18世紀、アメリカで代表制を是とする植民地議会が誕生し、身分制が廃止され、現在にもつながる議会制民主主義の原型となったのです。
――なるほど。私も日本の若者たちの話を聞いていて、国会での議論が「自分事」に感じられないという意見をよく耳にしました。直接制と代表制、どっちがいいのでしょうか?
顔をつきあわせてじかに議論した方が、民主主義の「質」は高い。でも、人口が増えれば、全員で集まることが不便になり、代表を選出して自分たちの代わりとせざるをえないわけです。代表制は、政治参加の「量」で直接制に勝るわけですが、他人を介する分どうしても意思は反映されにくくなる。「質」をとれば、「量」を犠牲にしなくてはならない。その逆もしかり。民主主義の歴史は、この「質」と「量」のトレードオフでした。
民主主義は長い間、その二つを併せ持つことをずっと夢見てきましたが、昨今のテクノロジーの発達が、その「夢」を可能にするかもしれません。デジタル・デモクラシーを前提とした「液体民主主義」など、新たな形態の登場です。
――液体民主主義は一見、テクノロジーを駆使した、とても便利で革新的な方法のように言われていますが、五野井さんは懐疑的な見方をしていますね?
はい。液体民主主義は、直接民主制と代表民主制の両方の良いとこ取りをするシステムと言えます。自分の1票を信頼する者に委任することができる。しかも、委任した者が期待したような判断をしなければ、その委任を撤回、あるいは一部を保留するといったこともできる。デジタルをプラットフォームとしてますので、時間も節約できるし、選挙もお金がかからない。極論すれば、家でもどこからでも、スマホで政治参加ができてしまう。現代社会に生きる我々のライフスタイルに非常にフィットするわけです。
ただし、大変危うい側面もあります。まず、インターネットなどの情報通信技術を利用できる者と利用できない者との間の格差、つまりデジタルディバイドの問題があります。また、本人確認、買票、透明性の確保やプライバシー保護などの問題をどう克服するのかといった問題もあります。
そして、何より問題なのは民意が瞬時に伝わってしまう分、ポピュリズムの危険をはらんでいることです。昨日決めたことが今日には違う結果になってしまう可能性もあるし、みんながその時にOKなら、それでOKとなってしまう危うさがあります。それも説得されたOKではなく、何となく雰囲気でOKということになってしまう。本来は熟考すべきことですら全てがすっとフロー化して流されてしまうかもしれない。プラトンも、のちにプラトンを受け継ぎつつ共和主義と人民主権の関係を再構成したルソーも、ともにこれを危惧していました。
――現状の民主主義のシステムにすぐ取って代わる段階にないということですか?
これまでのような一定の場所と期間内での投票という民主主義のあり方が変容を迫られている。それは認めますが、まだ私たちの主権者意識は、その便利なツールを使いこなすまでに高まっていない、私はそう思います。現状では、議会制民主主義をサポートするツールにとどめておくべきではないでしょうか。たとえば、自治体が何かを決める際に、議会での多数決の結果はこうですが、一方で住民全体の「民意」はこういう傾向ですといった具合に、議会での意思決定をする際の予備投票などに使うことはできると思います。
他方、私たちが政治を「サービス」と勘違いしていることが問題の根底にあります。資本主義社会においては、お客様であること、サービスを受けることが当たり前になっていますが、政治とはそもそも、「お客さま」として待ちの姿勢でいてはダメで、自分たちから積極的に関わっていくべきものです。政治のサービス化が起きると、いったいどうなるか。自分や身の回りの問題さえよければ、国全体のことなんてどうでもいい。そんな非常に近視眼的な視座にたってしか、政治を考えられなくなってしまいます。サービスを提供されるように、政治家や行政から民主主義を提供されていくわけです。しかもテクノロジーが発達すると、マーケティングの手法でそれが非常に早いレスポンスで提供されるようになります。よく言えば、twitter等の「民意」を可視化してぶつけることで政治家を脅すこともできますが、悪く言えば、政治家にその時々で顔色をうかがわせるような状態になってしまう。政治があまり国民に向いていない現状では効果があるかもしれませんが、長い目で見れば健全とはいえません。
――うーん。古代ギリシャで原型が登場して2600年も経つのに、いまだに完成しないなんて、もしかして、民主主義というシステムそのものがオワコン(終わっているコンテンツ)なんじゃないか、そんな気もしてきますが……。
いえいえ、まったく終わっていません。民主主義はオワコンだという人はたしかにいますが、それは使う側の問題だと私は考えます。そもそも、民主主義がダメだと言う前に、ちゃんと使いこなせているのか、すべての可能性を試したのか、そう問いたい。たとえば、代表民主制といえば、すぐに選挙を思い浮かべるかもしれませんが、自らの主張を政治的に訴えていく方法は実際それだけではありません。デモやストライキ、請願、リコール、住民投票、国政調査権……民主主義や憲法で保障されている様々なツールを、多くの人々はまだほとんど試みたことがない。使っていない機能、眠っている機能はないか。可能性を試しきっていないのに、うまくいかないからと民主主義をばっさりと切り捨ててしまうのは、「産湯とともに赤子を流す」ようなものです。それと並行して、新たな民主主義の可能性を模索していく。それが重要なのではないでしょうか。
■ごのい・いくお 高千穂大学経営学部教授、国際基督教大学社会科学研究所研究員。専門は政治学・国際関係論。おもに民主主義論を研究。著書に『「デモ」とは何か――変貌する直接民主主義』(NHKブックス)など。