性善説か性悪説か。誰もが皆人生のどこかでこの議論にはまる。6年前、『Utopia for Realists』(『隷属なき道』、野中香方子訳、文芸春秋)でベーシックインカムについて美しく書き、一躍ベストセラー論客となったオランダ出身の若き歴史家ルトガー・ブレグマンは前者をとった。
本書『Humankind』は世界の息苦しい「現実」を変えるための処方箋(せん)であり、そこでなされるのが、人間は基本的に利己的で攻撃的だという「神話」の破壊である。難しげなテーマの460ページの本がベストセラーになった秘密、つまりは読みやすさの秘密は、著者が自説─本来人間は愛他心に満ちた善的存在である─を証明するために、大変興味深い逸話や秘史(といっても人類学、社会学、歴史など真面目な分野の)を次々に繰り出す手腕にある。ページを繰るときの心のたかぶりは、良質なサスペンスを読むときの興奮に似ている。驚くべきエピソードの代表例は、第2次世界大戦に従軍したアメリカ人歴史家による戦闘後の兵士への聞き取り調査だ。太平洋戦線、欧州戦線のいずれでも、実際に敵に向けて銃の引き金を引いたのは全兵士の25%どまりだったという。人殺しへの抵抗感が最後まで拭えないらしい。戦死者のほとんどが空爆や迫撃砲などによるもので、敵の顔が見えないところから遠隔殺戮(さつりく)されていたのである。
感動的なエピソードの一つは、第1次世界大戦開始後最初のクリスマスに塹壕にこもっていた独軍が「きよしこの夜」を歌い出し、その返事に英軍が「牧人ひつじを」を歌い、最後に「神の御子は」を両者ラテン語で合唱したという話だ。ただし独軍側には「戦時中にふさわしくない!」と激怒する兵士がいた。アドルフ・ヒトラーという青年だった。
こうして著者は、人間の本来の優しさや友愛を思い起こさせ、悲観的になりがちな現代人に解毒剤として投下してゆく。現実を見ろとか現実的になれ、という命令は非情になれという命令を含意している。それこそが人間本来の「現実」に反した非現実な命令だ、と言う。著者は温情をベースにした北欧での教育、監獄システムをこれからの「現実」として称賛する。その詳細を書く余地はないが、暗くなりがちなコロナの時代にあって、ポジティブな息吹の詰まった良書である。
■『くまのプーさん』を思わせる、動物たちの人生訓
『The Boy, the Mole, the Fox and the Horse』は、8歳から80歳までを対象にした絵本だと言う。宣伝文句だからまじめに取る必要はないが、中学生から40歳くらいまでの、ある層の人々の心をとらえるであろう絵物語風ゆるめの箴言(しんげん)集、というのがより正確なところだと思う。
少年がモグラに出会い、旅を始めた2人は途中でキツネに出会い、さらに旅を続けてウマに会い、そのままてくてくと歩いてゆく。著者はひとこと、これは「友情についての本」と言う。つけペンで描いたモノクロの絵は「クマのプーさん」を想起させる、とても英国的なスケッチだ。
少年とモグラが木の枝に乗ってする会話。
少年「一番むだな時間の使い方ってなんだと思う?」
モグラ「自分を他人と比べること」
少年がひとりごつ時もある。
「習ったことをぜんぶ捨てられる学校があったらな」
全部が全部「考えさせられる」話ではなく、主軸はモグラとキツネとウマがそれぞれの個性をにじませながら進行する、ほのぼのとした旅である。モモタロウの物語から主従関係を抜き、鬼退治という目的意識を抹消し、愛とは依存であることをしんみりと感じさせる物語、と言い換えてもいい。年末にはクリスマス・プレゼントとして再度ベストセラーにあがってくるだろう。
■他人の靴を履いてみよう
「相手の立場に身を置いて考えよ」という助言は大事だけれど、どうしたらいいのかわかりにくい。英語だと“put in someone’s shoes(他人の靴をはいてみる)”という表現になって、この方がピンとくる。和室での会食のあと他人の靴をまちがって履き、五、六歩よろめいたあとの違和感。かかとのかたむき、中敷きの有無、甲を圧迫する具合、それらが全然違う。この感覚こそが、相手の立場に身を置くということの真骨頂なのであるが、本書『Me and White Supremacy』は「白人優越主義」にさらされている黒人が何をどのように感じているのか、その実感・体感を味わわせるべく順を追って痛いところ、まごつくところを突きながら「私」になまなましく感じさせる仕組みである。
本書が一義的に想定する読者は白人だ。タイトルの『私と白人優越主義』の「私」とは、これから本書を読む読者のことなのだ。(1)白人優越主義をふりかざす、(2)あるいはふりかざさぬにしても白人優越主義に守られた、(3)あるいはそこから無意識に利益を得ている、(4)あるいは白人優越主義などとは無関係でわたしはむしろ黒人の味方だ、という白人たちを想定している。しかし(1)に属する確信犯的白人はこのような本は読まないだろうから、実質的対象は(2)(3)(4)でありかつ読書を促したい順序は(4)(3)(2)となるだろう。
といっても本書は糾弾の書ではない。宣戦布告の本では毛頭ない。ひとことで言えば「蒙(もう)を啓(ひら)く」の書。歴史に深く根をおろし社会機構の一部になっている構造的な黒人差別システムを、あまり歴史を蒸し返すことなく、今現在無窮稼働している生々しい、空気のようで目には見えないが頑として存在しているメカニズムを、加害と被害、搾取と被搾取、利用と被利用という力学を生むものとして解説してゆく。いろいろな意味で本書は真実に近づき、真実を暴く本である。真実を突かれると人は戸惑い、ときには逆上する。著者はこのあたりも心得ていて、黒人は幼い頃からずっと戸惑わされ、逆上させられ、身体的損傷を受けさえしてきた、と白人読者をなだめる。本1冊で「傷ついた」などとやわなことを言うな、と。
本書の形式は4週、28日間の講習。例えば1日目は「あなたと白人特権」、2日目は「あなたと白人のもろさ」、3日目は「あなたとトーンポリシング(tone policing=議論ずらし話法)」。そして「白人の沈黙」「白人の例外主義」など、黒人問題を語る場合に必須となる諸要素が検討されてゆく。以上は入門編だが、日を追うにつれてテーマは濃厚になり読み手の心をえぐるようになってゆく。26日目は「あなたとあなたの価値」、27日目は「あなたが特権を失うということについて」。
さて、黒人差別問題を扱う本書は日本人にとってどういう意味を持つだろう? “Black Lives Matter”以降世界をゆるがしている問題として、基本的人権の問題として、基本的知識として黒人問題(というのは実は白人問題なのだという根本的構造)を理解することは重要だ。近隣アジア人に対する差別を理解するための補助線としても有効だろう。
ところで、ここまでの文章に出てきた「白人」という単語を「男性」に、「黒人」を「女性」に置き換えてみると、違和感なしに読めてしまう。日本社会にとって優先度の高い女性問題(というのは実は男性問題なのだという根本的構造)ないしは家父長的体制というものも、欧米における黒人問題と構造的には共通する部分が多いことの証明と言える。
著者はアフリカ系黒人であり、女性であり、ムスリムである。被差別三重苦を背負った存在と言ってもいい。彼女が本書を著したのは「良い祖先」になりたいからだと言う。「私の死後にやってくる人々に変革と治癒と新しい可能性をもたらすような種をまきたい」というのが彼女の切なる願いである。
英国のベストセラー(ハードカバー、総合)
7月12日付The Sunday Times紙より
1 The Boy, the Mole, the Fox and the Horse
Charlie Mackesy チャーリー・マッケシィ
少年とモグラとキツネとウマが旅する哲学的な絵物語。
2 Women Don't Owe You Pretty
Florence Given フローレンス・ギブン
21歳のファッション・インフルエンサーが父権制社会を生き抜く知恵とガッツを授ける。
3 The Unwelcome Visitor
Denise Welch デニーズ・ウェルチ
著者はテレビ番組のセレブ。30年にわたる鬱(うつ)と共生の日々を赤裸々に語る。
4 The Room Where It Happened
『ジョン・ボルトン回顧録 トランプ大統領との453日』(朝日新聞出版、9月18日発売予定)
John Bolton ジョン・ボルトン
前米大統領補佐官ジョン・ボルトンがトランプ政権の内幕を暴く。
5 Me and White Supremacy
Layla Saad レイラ・サード
白人向けに書かれた、白人至上主義を理解するためのワークブック。
6 Hinch Yourself Happy
Mrs Hinch ミセス・ヒンチ
清掃で不安とストレスを払拭。片付けセラピストによる技術指導。英国版こんまり。
7 Lancaster
John Nichol ジョン・ニコル
ナチス・ドイツを爆撃に行った英空軍爆撃機ランカスターをめぐる歴史。
8 Humankind
Rutger Bregman ルトガー・ブレグマン
人間の善良性を世界中の逸話や秘史で裏づけ、性善説によって現実を打破する。
9 My Hero Theo
Gareth Greaves ガレス・グリーブス
警察犬調教師が、いくつもの人命を助けてきた勇敢なシェパード、スィーオの半生を語る。
10 Becoming
『マイ・ストーリー』(集英社)
Michelle Obama ミシェル・オバマ
プリンストン大とハーバード法科大学院を出た英才、オバマ前米大統領夫人の自伝。