先進国に暮らす人々の多くにとって、感染症で命の危険を身近に感じる経験は初めてかも知れない。実際、世界保健機関(WHO)が、「高所得国」「高中所得国」「低中所得国」「低所得国」ごとに2016年の10大死因を調べたところ、高所得国での感染症は様々な病原体による下気道感染症(肺炎など)が6位に入るだけだった。
しかし、所得が少ない国になるほど感染症による死者は増える。低所得国では下気道感染症が最大の死因で、2位が下痢性疾患、4位HIV・エイズ、6位マラリア、7位結核と、感染症が目白押しだ。世界全体でみても、下気道感染症による死者は年間300万人で4位、下痢性疾患は140万人で9位、結核も130万人で10位に入っている。
感染症の歴史に詳しい長崎大学熱帯医学研究所教授の山本太郎さん(56)に、新型コロナウイルスをはじめとする感染症との間合いについて聞いた。
――人類と感染症の関係を歴史的に概観すると、どんなことになるでしょう。
人間は自然の中の一部である以上、感染症は古くからずっと一緒にあって、将来もそうだと思います。
しかし、第2次世界大戦後に抗生物質のペニシリンが広く実用化され、肺結核に効くストレプトマイシンも登場しました。それまでバタバタで亡くなっていた産褥(さんじょく)熱などいろんな感染症の患者が抗生物質で助かるようになりました。
1950年ごろからはウイルスの発見とワクチンの開発がどんどん進んで、大変だったポリオでもワクチンが大きな効果を見せました。人類は感染症をコントロールできるという機運が生まれ、その頂点が天然痘の根絶だったわけです。
しかし、そのころ実際に起きていたことは、エボラ出血熱など新たな感染症の登場や従来の薬が効かない薬剤耐性菌の広がりでした。感染症の制圧はやっぱり難しいんじゃないかと気づき始めたのが、21世紀の初めぐらいからではないかと思います。
――なるほど。
話は少し変わりますが、感染症は悪いのかという問題があります。感染症に対する免疫を持たない文明は自然に対して大変脆弱(ぜいじゃく)です。私たちが感染症に対する免疫を全く持っていなければ、生態系に出て行ったとき、感染症に阻まれたでしょう。逆に言えば、人類があらゆる環境に出て行くことができた一つの大きな要因は、感染症への免疫を持っていたことだったのです。
感染症への免疫を持っている社会が免疫を持っていない社会と出合ったら、すごく有利になります。その有名な例がコロンブスのアメリカ大陸再発見以後のスペイン人と南米先住民の出会いです。当時は感染症が病原体で起きることがわかっていなかったので、スペイン人の持ち込んだ感染症でいかにも奇妙なことが起きたわけです。先住民は自分たちの仲間だけがバタバタと倒れていく様子を見ることになりました。歴史家たちは「そこに神の意思を見た」というわけですが、それがなければ、たかだか700人ぐらいのスペイン人が数百万人もの先住民を征服することはできなかったでしょう。
そういう、いくつかの総合的な事実の中で、感染症は闘うばかりではなく、自分たちの中に取り込んでいくべきものかも知れないという感覚が少しずつ出てきたのが21世紀だと思うわけです。今回のコロナでも当初は闘うものと見ていたのが、徐々にみんな認識が変わってきたように感じています。
――感染症を敵とみなして絶滅することは難しいし、そもそもそれがいいことかということも含めて考え直されたということでしょうか。
そうです。二つのポイントがあって、一つはそもそも感染症を根絶するのは可能かという点、可能でなければ別の案を考えなければいけないということです。もう一つは少し長い目で見たとき、そこにある種の利点のようなものを見いだして、感染症で亡くなる人を減らすことができれば長期的な共存は可能ではないかということです。
――今回の先進国の対応はパニック的にも見えます。そもそも人は死ぬ存在だということが忘れられたり、死が遠くなったりしてしまったことが大きいのではないかと感じているのですが。
基本的に医学や医師は人の寿命をできるだけ長くして、その人の生を支えようとしてきました。それが逆説的に死を遠ざけてしまって、本来的な部分から目をそらしてしまった可能性はあります。
生を長くしようとしてやってきたことは悪いことではないけれど、人ってやっぱり死ぬんだということも含めて、もう一度生き物としての自分たちを振り返るっていうことが必要なのでしょう。
もう1点、当初から違和感があったのは、この問題を戦争だ、闘いだとした政治リーダーたちがいたことです。
戦争だったらたおすべき相手がいて、勝利の形の目標があります。でも、今回のパンデミックではたおすべき相手はいなくて、感染した人たちや感染対策で経済的社会的に影響を受けた守るべき人たちがいるだけです。だったら「守るべき人がいるから」と伝えるべきだったのに、戦争・闘いと言ってしまったために守るべき人のことを忘れて「勝つまで我慢しろ」となってしまいました。
――途上国でこれまで流行してきた様々な感染症の多くは見過ごされてきたのではないでしょうか。
途上国では感染症が以前も今もずっと健康上の一番大きな問題であり続けています。そのことに光が当たるのはとてもいいことだと思います。でも今度の新型コロナだけではなく、HIV・エイズや結核、マラリアといった感染症がたくさんあって、そうしたものにもちゃんと向き合って対策しなければいけないんだということが重要なメッセージです。
もう一つは社会的距離を取るといった対策は、豊かな国でしかできないんです。途上国のスラムで暮らして一番感染症の影響を受けやすい人たちは、社会的距離のためにコストを払う余裕はないわけです。とても脆弱(ぜいじゃく)で、それを何とかするには国際的な協力が必要です。
――社会的距離をとるというのは、日本でも豊かな人はできても、貧しい人たちは難しいという面があると思います。
先進国の中でも、国際的にも、同じ構図があって、世界の健康格差が浮き彫りになったわけです。社会的距離の中でその痛みに気づくこと、自覚的であることがとても重要です。
――日本では今のところ、死者数を抑えられていると思いますが、要因として考えられていることはありますか。
今の段階で評価するのはとても難しい気がします。二つ理由があって、一つは各国が何をもって感染者数と言っているのかがわからないということです。途上国で死者がゼロだといって、そこで対策がうまくいっているとは限りません。もう一つはスペインインフルエンザやペストの流行で、第1波の被害が少なかったところが第2波で大きな被害を受けたという歴史があるからです。
日本は今のところ比較的うまくいっているのかなと直感的には思いますが、まだ評価するのは早いでしょう。
――治療薬やワクチンについて、政治リーダーたちは人とお金を投入すれば開発できると楽観的なメッセージを出していますが、それは実現するでしょうか。
新型コロナに関してはわりと明確な目標があって、そこに向けて人とお金を投入していけば、薬もワクチンも開発はできる範囲のことではないかと見ています。ウイルスに対するワクチンは長い経験がありますし、ウイルスでは難しいと思われてきた薬もここ10年、20年でいろいろ開発されてきて、その戦略も方法論もいくつか確立されてきました。非常に無理なことをしようとしているとは見えません。
対策には医学的なものに加えて、社会的なものも考えていかなければならないと思います。
――ただ、ワクチンが開発できたとしても、広く使えるようになるまでには相当なタイムラグが生じるのではないでしょうか。
その通りです。ワクチンについては開発できるか、いつごろできるかという問題もありますが、たとえワクチンが開発されて1日100万人分生産されるようになったとしても、日本国民1億人分作るには100日、人類全体なら7000日、20年かかるわけです。
開発されたときに誰からどのように配っていくのかというのは、ワクチンを作ることと同じぐらいすごく重要な話で、しかも今からだって議論できます。
そのとき社会的距離をとることができて医療事情もいい先進国があって、一方で社会的距離をとることができなくて感染症のベッドも少ない途上国があるわけです。その割り振りはどうするのでしょう。当然、ワクチンが開発されるのは先進国なわけですよ。そういう話は今からできる話で、本当にいろんな問題を含んでいるのですが、それは議論しておかなきゃいけないと思いますね。
――世界保健機関(WHO)がその議論の舞台になるのでしょうか。
医学や医療を超えた議論だと思います。医療関係者だけでなく法律の専門家もいるでしょうし、宗教家だって倫理学者も必要でしょう。みんなが正解がない中で議論して、その中で決めていかなきゃいけないという覚悟を明確にして臨むべきだと思います。
やまもと・たろう
専門は国際保健、医療人類学。国際協力機構のジンバブエ感染症対策プロジェクトにも参加した。著書に「感染症と文明――共生への道」など。