腑に落ちない日本政府の説明
新型コロナウイルスの感染が拡大し、3月頃から日本でも、スーパーマーケットで一部の食品が一時的に品薄になる現象が生じました。その際に農林水産大臣が、「食料品は、十分な供給量を確保しているので、安心して、落ち着いた購買行動をお願いいたします」とのメッセージを発しました。同省によれば、米は需要の190日分、小麦は70日分の備蓄があり、食料供給に問題はないとのことでした。
「落ち着いて行動してほしい」というのは、もっともなメッセージですし、我々としてもぜひそうしたいものです。しかし、個人的には腑に落ちない点があります。日本政府(農林水産省)は日頃から、「我が国の食料自給率は危機的に低く、しかも年々低下しており、このままでは日本の食料安全保障が危うい」と、散々強調してきたはずです。それが、コロナパニックになったとたんに、「食料供給は大丈夫です」と太鼓判を押されても、にわかには信用しかねます。
筆者は現時点では、コロナのパンデミックが原因で日本が「食料危機」に陥り、飢えるようなことは、まずないだろうと予想しています。特に、日本人が塩むすびだけ食べていればいいということであれば、何ら問題はないでしょう。しかし、世界の農業・食品産業は緻密なサプライチェーンで結び付いており、我々は世界中から様々な食材を輸入して、多様な食生活を享受しています。もし仮にコロナ危機がこれからさらに半年、1年と長期化したりすると、そのサプライチェーンが崩れ、「今まで買っていたものが買えなくなった」とか、「好きだったあの食べ物が品薄で高騰」といったことが起きる可能性は否定できません。
筆者の知り合いの国際経済学者は最近、菜園を借りて自ら農作物を育て始めました。筆者自身はそこまでするつもりはありませんが、政府の言うことを鵜呑みにするのではなく、自分なりに情勢を見極めて行動していかなければと思っています。
穀物輸出国として勃興するロシア
さて、かつて社会主義体制のソ連邦は、穀物の一大輸入国でした。ソ連自身も世界的な穀物生産国だったのですが、畜産に必要な飼料を国産だけでは賄えず、輸入に頼っていたのです。しかも、冷戦の敵国であるアメリカから大量に穀物を輸入していたというのは、有名な話です。当時のソ連は、輸入国として、世界の穀物需給に影響を及ぼしていました。
ところが、1991年にソ連邦が崩壊し、新生ロシアの時代になると、国の支援を失った畜産業が壊滅して飼料需要が減り、その一方で穀物生産は徐々に回復に転じていきました。その結果、ロシアは2001/2002年度(2001年7月から2002年6月まで)に穀物の純輸出国に転じ、近年はその輸出量を急拡大させていました。ついに、穀物の中でも最重要品目である小麦の輸出において、2017/2018年度にロシアは世界のトップに立ったのでした。また、同じく旧ソ連圏のウクライナとカザフスタンも、穀物輸出国として成長しました。
上の表は、ロシア・ウクライナ・カザフスタンのプレゼンスが大きい主要穀物とひまわり油につき、データが揃う最新の2018年を例にとり、世界の輸出国ベスト10を整理したものです。このように、ロシアやウクライナが穀物輸出国として世界の需給を左右するようになるとは、隔世の感があります。
ただし、ロシアやウクライナは、穀物輸出国としては、やや特殊なプレーヤーです。その主な販路は、中近東、地中海沿岸諸国などに偏っています。品質が安定していない両国産の穀物にとっては、価格・品質面で最もマッチするのが、中近東や北アフリカの市場だからです。また、両国の穀物はほとんどが黒海の港から出荷されるため、黒海からの輸送に便利な中近東、地中海沿岸諸国の市場が有利という要因もあります。ロシアやウクライナの穀物は日本にも多少入ってきていますが、我が国では基本的に家畜の飼料用であり、小麦粉やパンとして皆さんの口に入ることはまずありません。
ロシアに取り憑く「食料安全保障」の強迫観念
同じ「食料安全保障」という言葉を使っていても、日本とロシアでは、その方向性が大きく異なります。日本で「食料安全保障」と言えば、生産者を守るために輸入を制限するという議論になりがちです。それに対しロシアの「食料安全保障」は、国内消費者への供給を維持するために輸出を制限するという発想になることが多いと思います。
もちろん、2010年にロシアが採択した「食料安全保障ドクトリン」を紐解いても、主要食品の国産比率を高めることが目標に掲げられています。しかし、ドクトリンの主眼は、自給率を高めること自体ではなく、あくまでも国民に安全な食品を充分に提供することにあり、国内生産はどちらかと言うとそのための手段と位置付けられています。
そして、基礎食品を国内に安定供給することを最優先するロシア政府は、「輸出は余力に応じて許容する」というのが基本姿勢です。革命、世界大戦、旱魃、ソ連時代のモノ不足、1990年代の経済的混乱といった苦難をくぐり抜けてきたロシア国民には、「まずは国内供給を優先し、輸出は二の次」という価値観が、DNAレベルで染み付いている印象があります。今や穀物の生産や輸出が世界に冠たる規模になっても、潜在的には不安を抱えているのです。
その表れとして、2000年代以降、不作や内外価格差の拡大で国内の穀物供給に懸念が生じた際に、ロシア政府は穀物の輸出制限措置を発動しました。たとえば、2010年が凶作だったことを受け、2010年8月から数ヵ月間は穀物輸出を禁止し、その結果2010/2011年度の輸出はごくわずかに留まりました(下図参照)。このような前歴があるので、いくらロシアが小麦の輸出量で世界一になっても、「ロシアは当てにならない穀物供給国だ」というイメージが抜けきらないことになってしまいます。
ここ数年は、良好な作柄が続いたこともあり、ロシアが穀物輸出を制限することはありませんでした。さらに、2018年5月に発足した第4期プーチン政権は、輸出促進を目玉政策に据え、穀物はその一翼を担う商品として期待されるようになります。かつてのように、ロシアが「食料安全保障」の強迫観念に取り憑かれ、輸出を制限するようなことは、もはや起きないのではないか。そのような安心感が広がりかけていたところに、突如降って湧いたのが、今般の新型コロナウイルス危機だったのです。
不可解なロシアの輸出制限
新型コロナウイルスの感染拡大による需要減と、OPEC+の減産協議が物別れに終わったことなどから、今年に入り石油価格が大幅に下落したことは周知のとおりです。それにつられるように、石油以外の商品価格も、軒並み落ち込んでいます。そうした中、穀物はそれとは異なったパターンを示しています。穀物も、3月上旬までは他の商品と同じように値を下げたものの、世界各国で食料不安が生じ、それ以降は値上がりに転じたのです。
こうした中、一部の国が国内供給を優先し、輸出を制限する動きに出ました。ロシアは3月31日付の政府決定で、4~6月期の穀物輸出の上限を700万tとする輸出割当を設定(対象品目は小麦、ライ麦、大麦、とうもろこし)。なお、ロシアを中心とする経済同盟であるユーラシア経済連合域内の輸出は制限の対象外となります。また、カザフスタンは、3月22日、小麦粉、ひまわりの種およびひまわり油、ソバの実、砂糖、じゃがいも、一部の野菜の輸出を禁止する緊急措置を発令。さらに、3月30日には穀物の輸出に月ごとの割当量を設定することを決めました。他方、ウクライナもロシアの動きに触発されて、穀物輸出の制限を検討しましたが、充分な供給量があるとの判断から、導入は見送っています。
ロシア国内でコロナパニックが広がる中で、商店でも食品の品薄が生じていましたので、一見すると、ロシア政府の輸出制限はそれに対応したもののようにも思えます。しかし、実はロシア農業省は昨年秋頃から、穀物輸出に上限を設けることを提唱していた経緯があります。筆者には、ロシア農業省がコロナパニックを口実として、以前から画策していた穀物輸出への割当導入をごり押ししたように思えます。
今年初め頃、農業省の穀物輸出割当の案が明るみに出ると、関係者は一様にその真意をはかりかねました。2019年のロシアの穀物収穫は非常に高いレベルにあり(上図参照)、輸出が過熱して在庫が払底するようなことも別段ありませんでした。国内の穀物需要家から、輸出規制を求める声が上がっていたわけでもありません。それなのに、なぜ輸出を規制する必要があるのでしょうか。これだけ政策が意味不明だと、「農業省は誰かの利益のために動いているのではないか?」などと疑いたくなります。農業省の案には戸惑いが広がり、いったんそれが消えかけたところに、コロナ騒動が発生し、不可解な政策へのお墨付きが与えられた形です。
今回ロシアが設定した6月までの輸出割当は、ロシアの穀物輸出を大幅に削減するような内容ではなく、実際の影響は小さいかもしれません。しかし、本来は価格で調整されるべき国内向け・国外向けの供給量に、政策的に枠をはめるという悪しき前例が出来てしまいました。ロシアが安定した食料供給国として国際市場で信頼を築くためには、明らかにマイナスでしょう。
「食料安全保障」という言葉には、特有の抗いがたさがあります。我々は、特に今日のようなパニックに陥りやすい状況下では、それが政治によって恣意的に利用されないよう、注意したいものです。