3月でまる9年になるシリア内戦は、関与国のトルコ、ロシア、イランが中心となり協議を進めているものの終結の兆しは見えない。それどころか、反体制派最後の砦とされるシリア北西部イドリブ県では、この1ヵ月でにわかに緊張が高まっている。
これまでは関与国がそれぞれのシリア国内勢力を支援する代理戦争の形を取っていたが、2月に入り、トルコ、シリア両軍が直接ぶつかる正面衝突となったのだ。ロシアが後ろ盾となっているアサド政権軍の攻撃でトルコ軍に死者が出たことを受け、アメリカはトルコ支援を表明。これまでの政治的解決への機運は、にわかに「軍事的解決」にシフトするかのように見える。このままエスカレートするのか、緊張は緩和されるか、トルコとロシアの動きに世界が注目している。(近内みゆき)
■イドリブで起きたこと
まず、この1カ月間にトルコ国境に接するイドリブ県で起きたことをざっと振り返ってみたい。
2月3日にはアサド政権軍による砲撃で、トルコ軍兵士ら8人が死亡。それに怒ったトルコは、ロシアとアサド政権に対し、2月末までに、イドリブ県一帯に設けた停戦監視ラインの外側まで撤退するよう要求。間もなくロシアとの話し合いの場が持たれたが、その間も攻勢はやまず、10日にはアサド政権軍の砲弾で再びトルコ軍兵士5人が犠牲になった。
これを受け、トルコはイドリブ県への兵力増強を進め、これまでに戦闘部隊を含む約1万5000人が送られた。しかし、アサド政権軍の進軍は続き、すでにイドリブ県の30%以上を支配下に収めた。
■驚きの痛烈なロシア批判
トルコ軍とアサド政権軍の正面衝突もさることながら、周囲を驚かせたのはエルドアン大統領の痛烈なロシア批判だ。歯に衣着せぬ物言いで知られるエルドアン大統領だが、ことロシアに対しては神経を使ってきたからだ。
「2月末までに撤退しなければあらゆる措置をとる」と、いわば最後通牒を突き付け、「アサド政権軍とロシア軍はイドリブで市民を虐殺している」とロシアの直接的関与を非難した。こうしたトルコの態度に、プーチン大統領は「トルコこそ両国間の合意を果たさずテロリストの拡大を許した。われわれがやっているのはテロリストの掃討だ」と訴え、情勢悪化の原因はトルコにあるとした。
トルコのロシア批判の裏には、さらなる難民流入と、「イドリブ後」への危機感がある。トルコは国内にすでに360万人以上のシリア難民を抱えており、もはや受け入れ能力は超えている。世論の反難民感情も高まっており、今や8割が受け入れに反対と言われている。国連は、昨年12月以降、イドリブでは約90万人が避難を強いられており、攻撃で病院や学校などが爆撃されていると訴えている。
トルコのもう一つの危惧は、「イドリブ陥落後」にアサド政権軍が、シリア北部でトルコが制圧した地域に攻め入るのではないかという点だ。そうなればトルコがシリアから全面撤退を迫られかねず、シリアの今後を話し合う上での政治的発言権を失うにとどまらず、シリア再興に向けた経済的利益までも取り損ねるとの危機感がある。
■反体制派の砦イドリブ
シリア内戦終結に向け、国連主導の協議が実のある成果を出せない中、シリアに既得権益を持つトルコ、ロシア、イランが中心となり2017年から進めたのが、3ヵ国会合「アスタナ・プロセス」である。
3ヵ国は2017年5月、シリア国内にイドリブ県を含む4つの「緊張緩和地帯」を設定することで合意し、この4地帯ではあらゆる戦闘行為を禁止した。その中でも最大面積をもつイドリブ県では、主に北部にトルコ、中部にロシア、南東部にはイランが勢力範囲を保ち、南西部でアサド政権と過激派反政府組織が対峙するという複雑な状況が続いていた。しかし合意後もアサド政権軍の攻撃は止まず、18年にはイドリブ県を除く3ヵ所の緊張緩和地帯が陥落。反体制派が敗走したイドリブ県が、最後の砦となった。
トルコは3ヵ国合意に基づき、2017年10月から、イドリブ県を囲むように停戦監視のための12の監視塔を建設した。一方、ロシアとアサド政権軍にとっては、反体制派が一カ所にまとまることは、将来的なイドリブ奪還に向けた好条件となった。
2018年9月には、トルコとロシアが、ロシアのソチでイドリブ県に関するいわゆる「ソチ合意」を締結した。主な内容は、イドリブ県の反体制派とアサド政権軍との間に幅20㎞の「非武装地帯」を設けるべく、トルコがその地域からテロリストを一掃するとともに、同地域の安全を確保するというものだ。だが、計画通りには進まず、合意は形骸化した。
その頃、トルコ南東部のシリア国境付近では、アメリカが支援するクルド勢力による越境砲撃が相次いでおり、トルコの関心は国内治安に直接影響を及ぼすその地域に向かっていった。
■深化するロシアとの関係
イドリブ情勢をめぐってトルコが強いロシア批判をくり返していることが驚きをもってみられているのは、ここ数年、トルコは「最もロシアに近いNATO加盟国」と呼ばれるほどロシアとは関係を深めてきたからだ。
話は2015年にさかのぼる。ロシアのシリアへの本格介入が始まって間もない2015年10月、ロシア軍機によるトルコ領空侵犯が頻発、トルコは再三抗議したが収まらず、ついに11月、撃墜するに至った。
領空侵犯を否定するロシアの怒りはトルコの想像以上で、間もなくロシアはトルコに対する厳しい経済制裁を課した。トルコにとってロシアはドイツに次ぐ2番目の貿易相手国であるだけに、トルコからの農産物輸入禁止措置や、年間500万人近い観光客をトルコに送り込んでいたチャーター機の運航中止などは、直接的にトルコ経済を打ちのめし、その損失額は80億ドル以上と試算された。
経済界からの強い要望を受ける形で、エルドアン大統領は2016年6月、プーチン大統領に公式謝罪。その後、制裁は段階的に解除され、同年7月の政府転覆を狙ったトルコのクーデター未遂事件時は、プーチン大統領が真っ先にエルドアン大統領に電話をかけ支持を表明。事件の背後にはアメリカがいたと噂されており、こうしたロシアの態度に世論もなびき、いわば「雨降って地固まる」形となった。こうした背景の中で、アメリカやNATOから猛反対を受けたロシア製地対空ミサイルシステム「S400」購入の議論も進められていた。
■米の懸念とトルコへの接近
最近のロシアとの関係悪化の一方、アメリカとは距離を縮めつつある。2月11日にはシリア特使が来訪し、「NATOの一員として」のトルコへの支援を強調。その後の両首脳電話会談では、トランプ大統領はイドリブにおけるトルコの人道危機回避努力に謝意を伝えた。
アメリカの支援表明は、この地域で拡大するイランの影響力拡大への懸念がある。イランは2011年の内戦ぼっ発時からアサド政権を支援。シーア派民兵を多数送りこみ、湾岸地域からイラク、シリア、レバノンに至る「シーア派の三日月」と呼ばれる地域での影響力拡大を狙っている。イドリブは地中海へのアクセス地点としても要衝である。こうした野心を警戒するのは、シーア派民兵がこの地域で勢力を増せば、アメリカの盟友イスラエルへの脅威にもなるからだ。
懸念はそれだけではない。シリアのユーフラテス川東側地域では、これまでのトルコ対アメリカの構図が、今やロシア対アメリカの様相を呈している。昨年10月にトランプ大統領が突然シリアからの米軍撤退を宣言した後、米軍勢力範囲だったこの地域はロシア軍に明け渡された。その後アメリカは再び政策を変更、一部部隊の駐留が続いているが、北東部の要衝カミシュリの空軍基地を含む複数の基地もロシアに引き渡され、ロシアはそこから偵察機やドローンを頻繁に飛ばすようになった。検問所などでの両国間の小競り合いは徐々に増えており、アメリカは神経をとがらせている。
「イドリブ後」を懸念しているのはアメリカも同様だ。ロシアとアサド政権軍がこの地域に向かってくると危機感を抱いている。「過激派組織イスラム国からの防衛」目的の油田地帯も、「ロシアとアサド政権軍からの防衛」になるのは時間の問題とみられている。
こうした状況の中で、中東への関与に否定的で、これまでも突然の政策変更を表明してきたトランプ大統領の反応に、関係者は気をもんでいる様子だ。
■反応の鈍いNATOとの関係
アメリカの歩み寄りの一方、NATOの反応は鈍い。シリア内戦悪化により、NATOはトルコの要請に応じ2013年にトルコ南東部の計3か所にミサイル防衛システム「パトリオット」を設置。だが、アメリカとドイツが担っていた2か所は、2015年末に「配備場所の再編」(アメリカ政府)、「現在の脅威はミサイルを保持していないイスラム国」(ドイツ政府)などの理由で撤去された。
当時、NATO内には、ウクライナとロシアの緊張を受け、東ヨーロッパへのミサイル配備を重視すべきとの声も多かった。また、ロシアとの関係改善以降、トルコは制空権を押さえるロシアから事実上の「承認」を受ける形で、シリア北部で単独軍事作戦を行ったり、ロシアからのS400購入を決定したりすると、NATOとトルコの距離が離れていった。
ロシアのタス通信は2月17日、NATO加盟国外交官の話として、「トルコ軍兵士の死は悲劇だが、トルコの単独軍事行動で起きたもの」とし、NATOとしてのトルコ支援に否定的な見方を報じた。
■全面衝突は回避か
トルコ政府は2月末までに、ソチ合意に基づきトルコが設置した12の監視塔の外にアサド政権軍が撤退することを求めているが、主要幹線道路など重要拠点を制圧し続ける今、政権軍が大幅な撤退に応じることは見込めないだろう。トルコはロシアとアサド政権軍の攻撃で深刻な人道危機が発生していることを訴え、国際世論を味方につけようとしているが、思うように支持は広がっていない。一方のアサド大統領はイドリブ県での進軍継続を明言。トルコとの全面衝突も辞さない姿勢を示している。
トルコは戦闘部隊を含む約1万5000人の兵をイドリブに投入したものの、制空権を握っているのはロシアだ。シリア国内でロシア空軍の拠点であるラタキアの基地にはS400も配備されており、その南部タルトゥス海軍基地ではロシア軍艦がトルコ軍機の領空侵犯を見張っている。モスクワで行われていた両国間の今月2回目の会合は、成果を出せないまま18日に終了した。
シリア情勢を巡ってトルコの通貨リラの下落圧力も高まっており、トルコはこれ以上のリラ安を防ぐべく、ロシアとの全面衝突は回避したい。エルドアン大統領の「越境攻撃は時間の問題だ」などとする威勢のいい発言はトルコ国内向けであり、ロシアとの落としどころを見つけるべく躍起になっている、と見る識者もいる。
一方のロシアもNATO加盟国トルコとの全面戦争は望んでいないとみられる。また、内戦終結後はシリア再建の中心的存在になることをもくろんでおり、トルコと連携して進めてきたアスタナ・プロセスの成果は維持したい。
ロシアとトルコの間で停戦合意に至るとすれば、現状に近い形で行われるとみるのが現実的だろう。トルコ国境と、イドリブを南北と東西につなぐ2つの主要幹線道路に囲まれた地域を安全地帯とし、トルコ管理の下で国内避難民を集める、一方で、ロシア、アサド政権軍がその外で過激派相手に対テロ掃討作戦をするなどのシナリオがありうる。
劣勢挽回が見込めない中、トルコとアメリカとの交渉では、パトリオット配備についても協議されているとみる専門家もいる。トルコ国境に配備することで、両国がそれぞれ抱く「イドリブ後」の懸念も緩和される。だが、アメリカからは具体的な支援策について、いまだ聞こえてこないのが現状だ。
エルドアン大統領の設定した期限まであと1週間。今週、両国間の第3回目の協議が行われる。同時並行でアサド政権軍の進軍は続くとみられ、既成事実が重なっていくほどトルコの選択肢は狭められていく。
トルコ9代目大統領スレイマン・デミレルは、かつてこう言った。「トルコの政治にとって、24時間という時間は長すぎる」。2020年も、この言葉を実感する1年となりそうだ。