■神保町の一人メシ
――「孤独のグルメ」の漫画連載は、1994年にスタートしました。当時、一人でご飯を食べる、いわゆる「一人メシ」という発想は斬新だったのではありませんか?
僕は1981年に、泉昌之の名前で「夜行」という作品でデビューしました。それがそもそも、一人の男が夜行列車で一人で駅弁を食べるという漫画でしたから、「孤独のグルメ」についてもその延長の気持ちでした。(掲載誌の)編集者の方には、当時の(バブルを引きずった)グルメブームにもの申したいという気持ちもあったようですが、私自身はそんなことは考えたこともありません。
話は大学時代にさかのぼります。東京都内の大学に在学中、「美学校」という(美術や音楽などを学ぶ)学校に週1回ほど通っていました。それが神保町にあったんですね。昼間は実技で夜は講義という感じで、午後6~7時に食事の時間があって、パンや弁当を持ってきてもいいし、外食してもよかったんです。
僕は外に食べに出ました。それまで、外食をしたことはもちろんありましたけど、高校時代なんて学校帰りに友達と一緒に行くくらいでした。卒業したばかりの18歳、いきなり夜の神保町で一人どうしていいか分からない。それでも街に出たら、ラーメン屋さんとかギョーザ屋さんとかいっぱいおいしそうな店があって、一人で食べているひともたくさんいて。それで入った店がおいしくて、安かったんです。それで、ああこういう大人の世界もあるのか、と。そのときの経験が一人で食べる楽しさの元になってると思います。
――食事はみんなで楽しく会話するとか、ビジネスでいえば情報交換の場という考え方もありますよね。でも、主人公の井之頭五郎は必ず一人で食べます。本当に食べることを楽しみたいなら、一人の方が良いということなんでしょうか?
そういうことでもないんです。やはり、家族や好きな人と食べるのは楽しいし、気心のしれた友達と飲み食いするのは楽しいですよね。「孤独のグルメ」とは、そういうのとはまた違います。言ってしまえば、出先でトイレに行きたくなって、必死にトイレを探して入るのと同じなんです。だから井之頭五郎は、食べざるを得なくて食べているんであって、孤独を求めて食べに行っているんじゃないんですね。言うなれば、「緊急事態」です。誰しも食べない人はいませんからね。
■「一人でも孤独じゃない」台湾語版タイトル
――「孤独のグルメ」の人気は海を越え、世界10カ国・地域で翻訳されています。大勢集まって食事をする文化が主流の中国や韓国、イタリアなどでも受け入れられています。
僕はグルメ漫画を描いているつもりはありません。井之頭五郎という一人の男がおなかがすいて、知らない店に入って……という話を描いているのです。当初、イタリアの人に(作品中に出てくる)高崎の焼きまんじゅうの味が分かるかなと思いました。でも実際にイタリアの読者に会って聞いたら、分からないけどおいしそうだから食べてみたくなる、と言われました。
人がおいしそうに食べていると、だれでもおいしそうだと思うんですよ。一人で食べない文化の国がどうこうというのは関係ないんですね。井之頭五郎がおいしそうに食べていれば、それを見た人はおいしそうだと思うんです。それが一人であろうと、5人であろうと関係ない。ドラマでもそうです。僕は「孤独であること」を強調しているんじゃないんです。一人でも一人で食べることの喜びはあるでしょうし、そういう人を見ると、自分も食べたくなる。食べたくなる、というのは元気が出るということじゃないでしょうか。
ドラマのシリーズが始まってから、僕は中国・上海や韓国、台湾に足を運んで、向こうのメディアにもインタビューを受けました。中国の雑誌は「孤食」というテーマで大きな特集をしていました。彼らの取材を受けるうちに、もともと一人で食べる文化はなかったけれど、すごく変わってきているなと実感しました。そして、彼ら自身も変化を感じていました。
韓国の場合、最初はインターネットやテレビで「孤独のグルメ」を見ながら、家で一人で飯を食べると聞きました。井之頭五郎になった気持ちで。それで慣れてきたら、外で一人で食べにいくんだそうです。
3年ほど前に出会った20歳ぐらいの韓国人の青年がこう教えてくれました。「韓国では、一人で店に食べに行くと、店のおやじに嫌われる。一人だとあんまり食べない、おカネを落とさないから」って。そう聞いてびっくりしましたが、彼は日本の居酒屋は、一人で行ってもすごく楽しいって、言うんです。カウンターに一人で座るお客さんがたくさんいて、同年代の若者たちも店で働いているし、声をかけてくれて、隣の人も話しかけてくれる。そこで友達もできる、店員の人とも仲良くなれる。こんなの韓国にはまだ無いって。
同じ頃、中国・上海のコンサートの打ち上げで、日本そば屋に行った時のことです。日本人の店主さんがこう言っていました。最初は上海駐在の日本人商社マンが日本のそば屋が懐かしくて来た。けれど、中国人のお客さんが少しずつ増えて、いまでは中国人のサラリーマンも、一人できて、お酒を飲んで、しめにそばを食べていくようになってきました、と驚いていました。今後もそういう変化は進んでいくんだと思います。
――海外では、「孤独のグルメ」のタイトルを翻訳する際に、ニュアンスが微妙に異なっているそうですね。
中国語では、「孤独的美食家」と翻訳されたこともあります。それはそれですごく日本語に近い訳し方だとは思いますが、翻訳としては間違えているんじゃないかと感じています。ちなみに、台湾で翻訳されたときは、「美食不孤単」というタイトルになりました。これは「おいしいものがあれば、ひとりでも孤独ではない」という意味に近いものです。これは素晴らしい。作品の内容をきちんと考えたうえでのタイトルで、僕が考えている「孤独のグルメ」の正しいコンセプトに近いと思います。
韓国や中国でも近い将来、ふつうに一人で食べる文化になっているかもしれませんね。おそらく10年とかからないでしょう。いまはテレビやネットで拡散するのは早いですからね。
■「下戸で、女優の元カノ」なぜ?
――ファンの一人として、主人公・井之頭五郎のキャラ設定がとても絶妙で、面白いと感じています。お酒を飲めなくしたのは、どうしてなんでしょうか? お酒を飲めちゃうと、話が長くなって連載の枠に収めるのが難しいからという説もあるようですが。誰かモデルがいるんでしょうか?
モデルはとくにいません。下戸については、まあいろいろな見方がありますけど、漫画的には主人公、ヒーローには必ず弱点があった方が面白いというところから来ています。食べることで弱点はなにかと考えたときに、酒だったわけです。
――五郎は作品中で、店の前に並んで食べるのを嫌がります。久住さん自身もそうですか?
そうですね、作品中で五郎に言わせていますが、僕も店に並んで食べるのが嫌というより、食べている時自分の後ろに並ばれているのが嫌なんです。早く食べなくちゃ悪いなとか、気を遣うのが。やっぱ、リラックスして好きに食べたいです。あと、五郎が注文するときに段取りを誤って、たくさん頼みすぎたりしますが、そういう失敗は僕もやります。
――作品中、五郎がひとりつぶやくセリフが印象的です。原作第12話『東京都板橋区大山町のハンバーグ・ランチ』では、アジア系の従業員を怒鳴り散らす店主を見て、食欲をそがれた五郎がこう言います。「モノを食べる時はね 誰にも邪魔されず 自由でなんというか 救われてなきゃあ ダメなんだ 独りで静かで 豊かで……」。このセリフに込めた久住さんの思いがあるんでしょうか?
いえ、とくにありません。井之頭五郎という男が、どういうやつなのかなというのを考えていくなかで、こういうことを真面目に言ったら面白いかなと考えて。ただ、この回で描いている、食べている人の前で店主がバイトの店員さんを怒るというのは、僕も個人的にすごく嫌いです。食べているときにそういうことをされると食べる気がなくなるなあ、と。そういう自分の思いもあって、五郎ならそういう場面でどう言うかなあというので、ああなりました。
――五郎には、パリで出会った女優の元カノもいますね。
あれも漫画として面白くする意味からです。僕は漫画はやはり絵だと思うんです、こんなに広く外国でウケているのは、(作画を担当した)谷口ジローさんの絵が魅力的だというのが一番だと思います。五郎は本当においしそうに食べるし、とても魅力的です。とてもリアルで細密なのに、わかりやすくて軽い。それが外国で人気を得ている大きな要因だと思います。
谷口さんの描いた主人公・井之頭五郎ができたときに、それを見てこの人物だったら、こうした方がいいなとか、こう言わせようとか、後からだんだんイメージがわいてきたんです。五郎は貿易商で外国で仕事をしているから、こういう人と付き合うことになったとか、そういうことを谷口さんの絵からインスピレーションを受けて、ストーリーもセリフも作っていったというのはありますね。テレビドラマの場合は、主演の松重豊さんをイメージして原作を書いています。言葉も松重さんが言ったら面白いように。
――谷口ジローさんが2017年に他界された後、久住さんは「孤独のグルメ」は漫画ではもうやらないと宣言していますね。
もう漫画ではできないと思っています。谷口さんのあの絵があってこそなので。もうひとつ未発表の話があるのですが、下書きぐらいのときに谷口さんが亡くなったので、披露する予定はありません。ストーリーは完全にできていますが、谷口さんの絵にならなければ意味がない。谷口さんが描いてこそのこの漫画であって、ぼくは原作でしかありません。谷口さんに向けて書いた原作を、他の人に見せたても仕方ないし、見せたくない。
■だれかの評価より、自分の好み
――「孤独」な空間を楽しむ「ぼっちてんと」という商品が日本でヒットしています。「おひとりさま」ニーズにこたえ、日本では一人になるための間仕切りを設ける飲食店も珍しくなくなってきました。今と昔で「孤独」に対する思いや考え方が変わってきているのでしょうか?
それはあると思います。「孤独のグルメ」の連載が始まった当時、まだまだ女性が一人で立ち食いそば屋に行くとか、牛丼屋に行くとかいうのはなかったですね。いまはどこでもありますけど。
でも、それは「孤独」なんでしょうか。僕は「孤独のグルメ」という作品を書いていますが、「孤独なグルメ」とは言っていない。二つは全然違うことだと思います。「孤独のグルメ」は、他人とは関係ないんです。「孤独な」はすごく寂しいイメージですが、「孤独の」は、井之頭五郎がおいしいとか、まずいとか自分の価値観を軸にして言っているのであって、他人がどう感じるかは関係ない。そういう話なんです。
一方でこうも思うんです。「ぼっちてんと」といった商品をあえてセンセーショナルに取り上げるのは、マスコミがよくやるくだらない話題作りなんじゃないでしょうか。昔から一人で釣りに行く人はいるし、一人旅も古くからある。「ぼっちてんと」も、そういう名前で売り出したから話題にはなっているのかもしれないけど、そういうのはじつは以前からありますよね。そういうジャンルを作れば楽になるというか、まねしやすくなるというか、売りやすくなるというか。バリエーションとして、「一人で」というのが一般的になってきた。選択肢が増え、一人用の商品も様々に売られてようになった、ということじゃないかな。
――私自身、90年代の学生時代を振り返ってみると、一人で学食で食事をしていると恥ずかしいと思った記憶があります。自意識過剰だったと思いますが、今の若者はそういう感覚はないんでしょうか。
なんか今、携帯を見てお酒を飲んでいる人とかいるじゃないですか。あれは「独り」なんだけど、リアルタイムでだれかとつながっている感があるのかもしれません。それは良いとも悪いとも思いませんが、そういう時代なんでしょうね。たった今をここにいない複数の人間と共有しているというか。で、だから携帯の充電がゼロになると、すごく孤独感を感じる。20年前にはなかった感情ですよね。ネット社会はそういう新しい孤立感を生んでいるような気がしますね。
ただ、初めてお店に入った人がネットの評価サイトにどうこう書くのは、僕は非常にイヤな傾向だと思います。だって、何十年もやって頑張ってきているお店に、いきなり来た客が、汚いとか値段の割に高いとか、そういうのを言うのは失礼だと思うんです。お店、特に個人店には、1回来ただけじゃ分からないことって、いっぱいあると思います。初めて入ってきた客が、いろいろ偉そうに書き込むのはほんとに無礼な行為で、僕はネット社会で最も嫌な風潮の一つだと思います。
――いわゆる、お店への「リスペクト」がないということでしょうか?
僕は「リスペクト」って言葉もあまり好きじゃないです。安易にその言葉を使うのは、ずるいと思います。それはだんだんに生まれてくるものですから。ネットの評価に関係なく、一人で食べる、つくる、個人の価値観をもって生きて行くのは大事だと思います。いまはそういう自分の価値観がなくて、ネットでなんて言われているのか、「いいね」がいくつ付いているのか、そういうことが現代人を無駄に自意識過剰にさせているんじゃないでしょうか。そして、誰もが店を探すとき、みんなの評価がどうなっているかを見てからになってしまう。
そうじゃなくて、一人でも、いいと思ったらまったく知らない店でも入って、ここでは何を食べるべきかを考えて、おいしかったり、失敗したりすることをつみ重ねて、自分の味覚や好みを鍛えていったらどうかと思います。自分の好みがはっきりしてきたら、一人であろうとみんなでいようと、他人の評価なんて、気にならなくなると思います。