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公僕ポール・ボルカー氏死去、憂いていた「金融界のモラル」

グローバル教育考 更新日: 公開日:
米FRB元議長、ポール・ボルカー氏。2012年にインタビューした際の写真。当時85歳だった=ニューヨークのボルカー氏のオフィスで。坂本真理氏撮影

米国の金融政策を決める中央銀行のトップや財務次官を務めるなど、半世紀以上にわたって公的な仕事をし、国際的にも活躍したポール・ボルカー氏が12月8日、92歳で亡くなった。
筆者は2012年秋に、ボルカー氏にインタビューした。2008年のリーマン・ショック(金融危機)の後、ボルカー氏はオバマ大統領の諮問委員会の議長を務めたが、インタビューでは、金融界のモラルが回復しないことを憂慮していた。晩年には、政府の信用失墜を懸念し、教育にも関心を持っていた。
身長2メートルの「巨人」でもあった偉大な「公僕(public servant)」が世を去り、米国経済界で次の世代の精神的な支柱になる人物は見えてこない。当時のインタビューを振り返りつつ、「公のあり方」を考えたい。(朝日新聞編集委員・山脇岳志)

■「政治から独立した中央銀行」体現

ボルカー氏は、1927年、米東部ニュージャージー州で生まれた。ニューヨーク連邦準備銀行や民間銀行のエコノミストなどの経験を経て、財務次官、ニューヨーク連銀総裁を歴任。カーター政権下の79年には米国の中央銀行である米連邦準備制度理事会(FRB)議長に就任。レーガン政権の87年までの2期、議長を務めた。

財務次官時代は、金とドルとの交換停止(ニクソン・ショック)から変動為替相場制への移行という金融の激動期で、各国との調整にあたった。FRB議長に就任すると、当時の悪性インフレを抑えるため、産業界や労働組合などから反発を受けながらも、金融引き締め策を果敢に実施した。短期政策金利は一時20%にも達したが、インフレは抑制され、その後の米国経済の安定につながった。

政治的に独立した中央銀行が、物価安定を目的として金融政策を運営するという、その後の中央銀行の理念型は、ボルカー氏によって確立されたといっても過言ではないだろう。

■高すぎる報酬、複雑すぎる商品…金融界のモラル低下を憂慮

米国の金融政策を決定するFRB本部内の部屋=FRB提供

ボルカー氏からFRBの議長職を引き継いだアラン・グリーンスパン氏は、2000年のITバブルの崩壊後、長期にわたって超低金利政策を取る。そのことで、大規模な住宅バブルが発生した。ボルカー氏は、住宅バブルに米国が浮かれていた2005年の講演で、状況の危険性を警告し、金融危機に発展する可能性を指摘した。

2008年の金融危機後、2009年に発足したオバマ政権では、総合的な経済対策を練る諮問会議の議長に任命された。ボルカー氏は2010年1月、金融危機の再発を防ぐため、銀行による自己勘定での証券売買など投機的な業務を制限する規制(通称ボルカー・ルール)を提唱した。

筆者が、ニューヨークのマンハッタンにあるオフィスで、ボルカー氏をインタビューしたのは、2012年の秋だった。筆者も身長は高い方ではあるが、握手するときは2メートルのボルカー氏を見上げる形になった。座って向かい合ったとき、ほっとしたことを覚えている。「闘う人」であり、内には激しいものを秘めているはずだが、穏やかに話す人だった。

当時、金融界の「ボルカー・ルール」に対する反対は強く、2010年の金融規制強化法(ドッド・フランク法)には盛り込まれたものの、まだ細目が固まっていない状況だった。

ボルカー氏はインタビューで、複雑になりすぎた金融機関同士の結びつきが金融危機を招いたことや、大銀行幹部の報酬が多すぎることを批判した。「ボルカー・ルール」については、「反対しているのは、ほんの一握りの大銀行だけだ」と、その時だけは語気を強めた。

ボルカー氏は、顧客をだますことにつながりやすいデリバティブなど複雑な金融商品に批判的で、「最も成功した金融の技術革新はATM(現金自動出入機)だ」と発言したことでも知られる。

この発言について聞くと、「ATMは、ちょっとした皮肉だった」と言いつつ、「規制緩和が行き過ぎてしまい、金融当局は、住宅市場や金融取引での過度な投機を防げなかった」と話した。

銀行の役員報酬について、報酬が多すぎると認める銀行首脳が少ないのでは、と問いかけると、「一昔前には、銀行界のみならず、法律家や会計士などにも、資産を預かっている顧客に対する責任や配慮、今とは異なる倫理観があったが、その復活に期待するのは夢なのだろうか」と嘆いた。

坂本真理氏撮影

金融危機を経ても、金融界のモラルが回復しないことへの憂慮が、ひしひしと伝わってきた。

当時、インタビューしながら思い出したのは、1982年にジェラルド・コリガン氏(後にニューヨーク連邦準備銀行総裁)によって書かれた有名な小論文だった。タイトルは『銀行は特別な存在か(Are Banks Special?)』。1980年代は、証券会社が預金と同じような商品を取り扱うようになり、銀行の存在意義が揺らぎ始めた時代だった。

ボルカー氏の問題意識は、結局のところ「銀行は特別な存在である」ということに尽きるように思えた。

銀行は、中央銀行から資金を供給してもらえる。預金保険制度という特殊な制度もあり、一般企業と同じようには倒産しない。

つまり、銀行には公共的(public)な側面がある。政府や中央銀行という信用をバックにした存在であり、規制は受けるが守られてもいる。

なのにバブルに浮かれて投機に走り、経営危機となると政府に救済された。幹部によっては年俸10億円を超す高額報酬をもらったまま逃げるように辞め、お金は返さない。

1980年代後半から90年代前半の米国の貯蓄貸付組合(S&L)危機でも、大量に中小金融機関が破綻した。このときには多くの金融機関の経営者が訴追され服役したが、2008年の金融危機後、大銀行の経営者は訴追もされなかった。

一方で、バブル崩壊と金融危機によって住宅ローンを返せなくなり、差し押さえにあって家を失った米国の庶民は数限りない。

宮沢喜一副総理兼蔵相と会談するボルカー氏(左) =1987年12月、朝日新聞社撮影

ボルカー氏は、政府や中央銀行の幹部として、共和党と民主党両方の大統領に仕えた。その意味では党派的な人物ではない。

しかし、住宅バブルとその崩壊で、米国で広がってきたあまりの貧富の格差、金融界のモラルハザード(道徳的退廃)を深刻に憂慮した。オバマ大統領に請われて、諮問会議の議長になり、銀行から「投機」を分離しようとしたのはそのためだった。

その後、「ボルカー・ルール」はさまざまな細則が設けられてオバマ政権下で施行されたものの、金融界からの批判はやまず、トランプ政権になって一部は緩和された。

■政府の信用失墜に危機感、NPOを立ち上げ

ボルカー氏の懸念は、金融界にとどまらず、米国政治のあり方や政府の信用失墜などにも広がっていた。

2018年のニューヨーク・タイムズのインタビューでは、「中心的な問題は、富裕階級による統治(plutocracy)が進んでいることだ」と発言。金持ちになったのは自分が賢いからだ、と考える富裕層が多いこと、そうした富裕層が政府を好まず、税金も払いたがらない風潮を嘆いた。

若きボルカー氏が政府に入ったころは、政府に良いイメージがあった時代だった。だが、今はロビイストらによって、ワシントンの政策は大きく左右される。ボルカー氏はハーバード大ケネディ行政大学院や、プリンストン大ウッドロー・ウィルソン公共政策大学院などエリートを養成する教育機関の名を挙げて「新しい世代の公務員を教育することに失敗している。彼らはどうやって政府を運営するかを教えておらず、軍や政府の高官と政策について議論しているだけだ」とインタビューで痛烈に批判している。

やはり2018年秋に出された回顧録「Keeping At It」でもボルカー氏は、大学に対して多くの寄付が行われ、教育や国際協力といった課題について政策面の議論が行われているが、「どんなに素晴らしいものだとしても政策を着想しただけでは、実行したことにならない。つまるところ、よい政策は、よいマネジメントができるかどうかにかかっている」と記している。

そのために、ボルカー氏は、2013年、NPOを立ち上げ、パブリック・マネジメントの研究を支援したり、活躍している公務員や学者を招いて、連邦政府や地方自治体などが効果的で効率的な行政ができるような新しいアプローチを発展させることを目指していた。高齢になっても、バスに乗ってオフィスに通う。質素な生活をし、「公共」のために私心なく尽くす姿は、米国で、世界で、広く尊敬を集めてきた。

幅広い関心を持つボルカー氏だが、金融政策のことは最後まで気にかかっていたようだ。後継者であるグリーンスパン議長やその後の議長を名指しで批判することは避けてきたが、インフレ・ターゲット(中央銀行がめざす物価上昇率の目標)を2%にして硬直的に運用することには批判的だった。トランプ大統領が中央銀行の独立性を踏みにじる発言を繰り返していることも批判していた。

主要なセントラルバンカー(中央銀行の幹部や幹部経験者)らが年に2度集まる「G30」の名誉議長も務めていた。約1年前、ニューヨークでの会合の食事会前のレセプションに、ボルカー氏は出席した。出席者によれば、セントラルバンカーたちは一人一人、車椅子のボルカーに近寄って感謝の言葉を述べ、これが最後の別れになることを予感していたようだったという。交流のあったセントラルバンカーの一人は、「あのように尊敬され、愛された『公僕』は、もう二度と出てこないかもしれない」と、その死を悼んだ。