「通貨(お金)とは何か」。そんな深遠な問いを突きつけられる事態が相次いでいる。インフレとデフレ、バブルの発生と崩壊、金融危機、格差拡大……。そうした問題は、いまの通貨システムの限界が引き起こしていることなのだろうか。人間にとって便利な道具だった通貨は、次第にその存在自体が人間社会を振り回すようになってしまった。
通貨とは――。経済学の教科書的にいえば、①取引の決済手段②価値の保蔵手段③価値尺度、とされる。「お金がお金となるのは、他の人も受け取ってくれると予想するから、だれもが受け取るということで、深いところで信じ合っているからだ」。「貨幣論」で知られる東大名誉教授の岩井克人(72)は説明する。
つまり、通貨の価値を支えるものは「信用」にほかならない。
世界的な金融危機に陥った2008年のリーマン・ショック後、管理する主体を持たない仮想通貨ビットコインの構想が生まれ、ユーロ危機でその存在感が大きく増したのは、政府・中央銀行に対する失望の裏返しだ。通貨の信用を裏付ける国家権力への不安と不信が、インターネット上の暗号にすぎない仮想通貨を「通貨」に引き上げたといえる。
今年6月、フェイスブックが発表したデジタル通貨「リブラ」に対し、G7を中心に政府・中央銀行から一斉に批判の声があがった。リブラ協会の政策部門の責任者、ダンテ・ディスパーテは「我々は世界の中央銀行になるようなパワーを持っていない」と主張するが、戦後の通貨秩序を決めたブレトンウッズ会議で英国代表ケインズが提唱した国際通貨「バンコール」になりかねないとの警戒感がある。てんびんのラテン語「リブラ」と名づけたところにも、世界の「価値尺度」になろうという意思を感じる。実際、世界各国の中央銀行はその後、デジタル通貨発行の研究を本格化させている。
通貨は、国家の枠組みと切っても切り離せない関係だ。日本は円、米国はドル、中国は人民元を使う。その通貨を分かつ国境を取っ払ったのが、欧州の共通通貨ユーロだが、財政が異なるのに同じ通貨を使う歪みがユーロ危機を引き起こしたのは、記憶に新しい。
だが、いまは国境を軽々と飛び越える通貨が次々と生まれている。価値を保証する国家もなく、既存通貨への挑戦といえる。経済学者ハイエクは1976年の著書で、貨幣発行の自由化を提唱した。日銀出身で早稲田大教授の岩村充(69)は「さまざまな通貨が競い合う時代が到来する」と予想する。
そもそも国家が通貨発行を独占する制度が整ったのは、人類の長い歴史から見ればわずかな期間にすぎない。最古の中央銀行、スウェーデンのリクスバンクも、英国の中央銀行イングランド銀行も、もとは民間銀行からスタートした。英国の通貨はポンドで、金融政策はイングランド銀行が担うが、スコットランドと北アイルランドでは、イングランド銀行のエリザベス女王のデザインとは違う紙幣を、いまも民間銀行が発行している。
ビットコインが開けたパンドラの箱は、2000種類以上にのぼる仮想通貨を生んだ。そうした仮想通貨や、フェイスブックのリブラ、各国中央銀行が発行するデジタル通貨の中から、人々が自由に選択する時代が来るかもしれない。逆に、米ドル以上の強力な世界共通通貨をつくり、世界中のあらゆる情報を支配する存在が出てくるかもしれない。
通貨は力である。新たな時代の通貨覇権争いは始まったばかりだ。