コーヒーショップに入っても、カードリーダーの横に「キャッシュフリー(現金お断り)」のプレート。近くのパン屋も、市場の花屋も、路面のホットドッグ屋も支払いはカードかスマホのアプリだけ。どちらもなければ、「現金を使える?」と聞いて回らないといけない。駅の券売機もキャッシュレス。現金で買うには窓口に並ぶ必要がある。観光客でにぎわう旧市街の土産物屋で、「ビザ」や「マスター」のマークの下に「キャッシュ(現金払い可)」と書かれたシールを見つけて少しほっとした。
街を案内してくれたゲーム会社に勤めるアンドレアス・タカナン(35)に財布の中を見せてもらった。数枚のカードと、夏に旅行したフィリピンの紙幣が3枚だけ。生活の大半はスマホアプリ「スウィッシュ」で済ませている。「カードやスマホで払うのが便利だから。この数年、ストックホルムでは現金を使ったことがない」と笑う。
スウィッシュが日本のICカードと違うのが、個人のお金のやりとりにも使えること。食事の割り勘も、子どもの小遣いもスウィッシュを使うのが当たり前だ。タカナンは1週間前、地下鉄の駅でホームレスの女性に「お金をくれ」と頼まれた。「現金はない」と答えると、電話番号を書いた紙を見せられ、「スウィッシュで送ってくれ」と言われた。女性は友人のアプリで受け取り、そこから現金をもらうのだという。
■現金は2025年に消える?
スウェーデンのキャッシュレス化を加速させたのが、2012年にサービスが始まったスウィッシュだ。大手銀行が共同開発した。電話番号と銀行口座をリンクさせ、相手の電話番号だけで銀行口座に送金できる。手数料は無料だ。利用者は710万人と人口の7割ほど。いまでは現金流通額がGDP(国内総生産)比で1%程度と、日本の約20%、欧米諸国の10%前後に比べて格段に低い。
使う側だけでなく、店側にもキャッシュレスの利点は大きいという。現金がなければ、レジを設置したり、現金を数えたりするコストを減らせる。現金を盗まれるリスクもない。中央銀行のリクスバンクの調査では、商店の5割が「25年には現金が使えなくなる」と回答した。
大手銀行SEBでスウィッシュを担当するローレンス・ウェスターラン(60)は「予想をはるかに超えてキャッシュレス化が進んだ。私の18歳の娘は現金を使ったことがない。現金を手にしたことがない娘に、お金の大切さを伝えるのは工夫が必要だ」と苦笑いしていた。
リクスバンクは1668年に設立された世界最古の中央銀行で、前身の銀行が世界初の銀行券を発行した歴史もある。そのお膝元で進むキャッシュレス。そうした変化に対応するため、リクスバンクはさらに歩みを進め、デジタル通貨「イークローナ」を発行する計画も進めている。
もっとも、急速なキャッシュレス化に取り残された人たちもいる。タカナンの祖母、グン・エリクソン(93)は「スウィッシュは好きじゃないので使わない。だって、お金が空を飛んでいくなんてバカげているでしょ」とぼやく。現金をおろして使っているが、最近、家の近くのATMがなくなった。「子や孫に手伝ってもらい、デビットカードで買い物をしている」。現金を持つ人があまりに減ったので、泥棒に狙われないかといった心配もあるという。
カードやスマホを使わない高齢者がいることから、「現金を使う権利」を求める署名が政府に提出されたこともある。すべての住民が25キロ圏内で現金を手に入れられるよう銀行は義務づけられている。停電などでシステムが止まれば、カードやスウィッシュが使えなくなる恐れもある。金融市場大臣のペール・ボールンド(48)は「災害などの非常事態に備えて、水や食料とともに現金も置いておくよう呼びかけている」と話した。