「ハワイは勉強に集中できる場所でした。もしニューヨークに留まっていたら、学業でこれほどの成果は納められなかったと思います」
ラモナ・フェレイラさんは学生時代を振り返ってそう語った。ニューヨーク・サウスブロンクスで、低所得者用公団アパートの環境改善を求める地域活動家だ。マンハッタンにある刑事司法専門の公立大学を卒業した後、ハワイの大学院に進んで外交と軍事史を学んだ。だが、サウスブロンクスに家族を残し、フライトで10時間かかるハワイに一人旅立つことを決意するのは容易ではなかったと言う。
「弟が4人いて、母を助けるために大学在学中もずっと働いていました。家族のために責任を負うのは大きなストレスでした」
とは言え、家族はフェレイラさんにとって最も大切なものだ。その家族との暮らしの基盤となるのがサウスブロンクスの公団アパートであり、精神的な支えはキリスト教カトリックへの信仰とともに、祖国ドミニカ共和国の文化と歴史、それを伝えてくれた祖先との繋がりだ。
■サウスブロンクスはなぜ荒廃したか
今、フェレイラさんはサウスブロンクスのモット・ヘイヴン地区にある公団アパートに暮らしている。ブロンクスはニューヨークを構成する5つの区のひとつだが、「治安の悪さ」と「貧困」が枕詞のように染み付いてしまっている。
実際にそうした問題を抱えているのは区内の南部、フェレイラさんが住むサウスブロンクスだ。1970年代以降、いくつもの事象が合わさり、徹底的に荒廃してスラム化した。事態を重くみた時のカーター大統領が自ら徒歩で視察に訪れたほどだった。
ブロンクスという名は、17世紀に一帯の土地を所有していたオランダ人入植者、ジョナス・ブロンクに由来する。19世紀になるとその一角を、発明家にして工業家のジョーダン・モットが買い取った。そこにモットは自分の名を冠した村を作り、モット・ヘイヴン(モット安息地)としたのだった。
モット・ヘイヴンもかつては白人の多い中流、さらには中の上流地区だったため、名称どおりのヘイヴンだった。当時の名残の高級建築は今も残っている。しかし第2次世界大戦後に大規模な都市計画が発動され、高速道路と大量の公団アパートが建設された。皮肉にもそれがコミュニティとしてのサウスブロンクスを破壊した。高速道路建設のために多くの住人が立ち退かされた。道路完成後は街が分断され、道路の手前と向こうに住む住人の往来ができなくなった。
公団アパートも本来は労働者階級のために作られたものだが、やがてニューヨークからあらゆる業種の工場が撤退し、大卒でなくとも安定した生活を賄えていた労働者階級が消滅した。ニューヨーカーは高学歴のホワイトカラーと低学歴のブルーカラーに二極分化し、公団アパートに残ったのは貧しい黒人と、カリブ海の島々からの移民であるヒスパニックとなった。
1980年代に入るとクラックと呼ばれる粗悪な麻薬が大流行し、そもそも貧しかったサウスブロンクスを壊滅状態に追いやった。アパートの大家は家賃を払えない住人を次々に追い出し、火災保険を得るために人を雇って放火させた。サウスブロンクスが毎晩何件もの火事に見舞われ、「ブロンクスは燃えている」という、今も人々の記憶に残るキャッチフレーズが生まれた理由だ。
こうした凄まじい歴史を持つサウスブロンクスの中でも殊更に貧しい一角がモット・ヘイヴンだ。サウスブロンクスで公団アパートが最も密集している地区でもある。
■公団アパートの改善に取り組む
フェレイラさんが住むミッチェル・ハウジスと呼ばれる公団アパートは17~20階建の10棟からなり、住宅公団局の資料では入居者4,000人となっている。しかし低所得者は親戚縁者を頼って仮住まいすることが多く、フェレイラさんは「もしかするとその2倍の人が住んでいるかも」と言う。
1960年代半ばに造られた公団アパートは住宅公団局の予算不足が理由で十分な修理改装がなされず、非常に劣悪な住環境となっている。ネズミやゴキブリが出、壁やパイプから汚水が染み出し、壁がカビで覆われ、バスルームの天井が突然に崩れ墜ちる事故が起きている。エレベーターの頻繁な故障もあり、高齢者や障害者は部屋に幽閉状態となる。全室のお湯と暖房は地階のボイラーによって賄われるが、これも真冬に故障し、住人は部屋の中でダウンコートを着て寒さをしのがなければならないこともある。これが21世紀のアメリカの実情なのである。
フェレイラさんはこうした環境の中で長年懸命に働き、子供を育て、今は引退しているシニア住人を支援している。一人ひとりに人生の来し方を聞き、写真を撮影し、来年のカレンダーを作って当人たちにも配る予定だ。今よりもさらに治安も悪く、困難の多かった時代に誰からも注目されることなく、コツコツと生きてきた彼らこそが、モット・ヘイヴンを支えてきたのだとフェレイラさんは考える。
■ドミニカ共和国移民の歴史
モット・ヘイヴンの住人の7割以上をヒスパニックが占める。メキシコ系の多い西海岸と異なり、ニューヨークではカリブ海系ヒスパニックが多勢を占める。フェレイラさんもドミニカ系二世だ。
30年以上にわたってドミニカ共和国を圧政した独裁者、ラファエル・トルヒーヨが1961年に暗殺された数年後に、フェレイラさんの祖母は仕事を求めて単身ニューヨークにやってきた。労働者を低賃金かつ劣悪な労働条件で働かせるスウェットショップと呼ばれる工場で懸命に働き、島に残してきた娘、つまりフェレイラさんの母親を10年後にようやく呼び寄せている。渡米時、すでに20代となっていたその母親からニューヨークで生まれたのがフェレイラさんだ。
島からの移民の多くは学歴がなく、そもそも就労ビザを取得できないケースもある。低賃金で長時間の単純作業に就き、英語を学ぶチャンスもない。ゆえに幾多の苦労を重ねるが、アメリカ生まれの二世は教育を受け、親よりも高収入となる。子供は英語が不得手な親や祖父母の通訳を務め、成長後は経済支援をしなければならない。これがフェレイラさんがハワイ行きを躊躇した理由だ。
■祖国の文化をベビー服に託す
ハワイで10年過ごした後、フェレイラさんは病気を患った。仕事を辞め、実家に戻らざるを得なかった。だが、公団アパートの一室でじっとしていられる質ではなかった。公団アパートの改善運動に乗り出し、同時に生後2ヶ月で髄膜炎に罹った甥の看病役を申し出た。
ある日、フェレイラさんは甥っ子のためにドミニカ共和国やヒスパニックの文化を表したベビー服がないかとネットで検索した。これはと思うものは何も見つからず、それどころか"Bad Hombre"(bad=英語で「悪い」、hombre=スペイン語で「男」)と書かれたものが出てきた。トランプ大統領が選挙戦中にヒスパニック男性を貶めるために言い放った言葉だ。
怒り心頭に発したフェレイラさんはドミニカ共和国の先住民、タイノ族の文化にインスパイアされたベビー服のブランド"Ojala Threads"を立ち上げた。フェレイラさんの夢枕に現れた、今は亡き祖父の思い出に寄るデザインもある。カリブ海に何千年も暮らした祖先タイノ族の歴史と文化が、ニューヨーク・サウスブロンクスのモット・ヘイヴンで生まれ、重病を乗り越えてたくましく育つ幼い甥っ子へと受け継がれていくのである。
■連載「ニューヨーク:エスニック・モザイクの街を歩く」は月1回お届けします。