タイムズスクエアから地下鉄7番線に乗ると、30分少々で終点に着く。フラッシングと呼ばれる街だ。マンハッタンを出た地下鉄はイースト・リバーの川底に掘られたトンネルを走り抜けるが、乗車中はそんなことには全く気付かない。しかし駅から地上に出ると、マンハッタンとはまるで異なる空気に気付く。
中国語で書かれたカラフルな看板群と、商店街を行き交う人たちが交わす中国語が一斉に飛び込んでくる。マンハッタンのチャイナタウンがアパートメント・ビル群で成り立っているのと異なり、フラッシング・チャイナタウンの建物は多くが二階建てや三階建て。観光客はほぼ見当たらない。賑やかなのに、どこかのんびりと感じる理由だろう。
角地にある八百屋は軒先に新鮮な果物がぎっしりと並び、品定めする買い物客で賑わっている。狭い間口を見るだけでは何を売っているのか分からない店もある。通路を進むと奥は安い雑貨屋だ。レジの傍で店主の子供であろう幼児が遊んでいて、なんとなく日本の昭和の雰囲気も漂う。その一方、地元のイマドキな若者が詰め掛けるタピオカ・ドリンクの専門店やコスメの店もある。
大きなショッピングセンター、新世界商城(ニューワールド・モール)もある。人気があるのは地階のフードコートだ。手打ち拉麺、台湾料理、餃子、四川料理、フォー、韓国料理、アジアン・スウィーツなど30軒近い店が軒を並べ、平日も家族連れで混んでいる。
マンハッタンのチャイナタウンは中国本土からの移民が多く、広東語が使われる。台湾からの移民は普通語と呼ばれる中国語を話すため、広東語話者とは意思の疎通が難しい。そこで台湾系はフラッシングに住み始めた。1970年代のことだ。それから50年が経ち、今ではフラッシングはマンハッタン・チャイナタウンをはるかに上回る規模の中国系コミュニティとなっただけでなく、ニューヨーク市内の5大商業圏のひとつでもある。商店街の先には落ち着いた住宅地が広がり、周辺地区も含めると人口は18万人を超える。その多くがアジア系であり、移民一世と、米国生まれの二世や三世が混在している。
フラッシングもそもそもは白人の街だった。その名残りのカトリック教会やユダヤ教のシナゴーグ(会堂)がある。1970年代あたりから韓国系も流入し、今も商店街の一部にはハングルの看板が集中している。やがて中国本土出身者も増え始め、今ではヒスパニックやイスラム圏からの移民もいる。とはいえ、フラッシングが大きなチャイナタウンであることは間違いない。上記の由緒あるシナゴーグも信者の数が減り、今では中国系の進学塾に間貸している。
■台湾から9歳で移住
今はマンハッタンの高所得地区に暮らし、IT企業に勤めるジミー・リンさんは台湾からの移民だ。1980年代に家族と共にやってきた時は9歳。父親は台湾の米作地帯の出身だが、子供たちへの「チャンスを求めて」、つまり教育を与えるためにアメリカへの移住を決心した。ちなみにリンさんのように子供の時期に移住し、アメリカで教育を受けた人々は「1.5世」と呼ばれる。
リンさんの一家は、まずはフラッシングに隣接する地区に住んだ。そこも現在はアジア系が非常に多い地区だが、当時は人種混在の街だった。小学校では生徒の多くは黒人、ついで白人。アジア系は数えるほどしかおらず、しかも中国系の生徒は本土からの移民で広東語話者だったため、普通話を話すリンさんとは会話ができなかった。
「転入当初の友達は韓国人とロシア系ユダヤ人でした。3人とも英語を話さないのですが、友達になれました」と、リンさんは当時を懐かしむ。そんなリンさんが最も嬉しかったこととして覚えているのは移住して2年後、6年生の時に英語の先生に呼ばれ、ESL(英語を習得するための授業)終了を告げられたことだ。
「ジミー、おめでとう!君の英語は他のみんなと同じになったよ」
中学では白人の生徒が増えたが、英語に不自由しなくなったリンさんは多くの友達を作った。高校はクイーンズではなく、マンハッタンにあるスタイヴサント校に進んだ。市内トップクラスの公立高校だ。アジア系移民の親は教育熱心で、子供も親の期待に沿ってよく勉強する。当時、スタイヴサント校も生徒の4割はアジア系だった。移民街を出たことによって、リンさんのクラスメイトは初めて「ほとんどアジア系」となった。
「小学校、中学校ではアメリカ人になろうとしました。ハリウッド映画、ラップ音楽を好みました。ところが高校の友人が紹介してくれたサマーキャンプで台湾人の友人ができ、台湾文化に触れました。大学に入ってからも台湾のポップカルチャーに惹かれ続けました」
中国語の本を豊富に揃えたフラッシング図書館に頻繁に通ったのも、この時期だ。
「やがて妻と出会いました。あの頃、私はほぼ英語しか使っておらず、中国語はお粗末になっていましたが、妻の中国語は流暢で私の中国語も戻ってきました」
■アジア系大統領候補アンドリュー・ヤン
今、アメリカは2020年の大統領選で盛り上がっているが、リンさんは米国史上2人目、47年ぶりに登場した東アジア系の大統領候補アンドリュー・ヤンの熱心な支持者だ。ヤン候補がリンさんと同じ台湾系だからではない。それどころか「全ての米国市民に月1,000ドルのベーシック・インカム(最低所得保障)」を公約としているヤン候補を支持することなど、出馬表明時には到底出来なかったと言う。
「アジア人は勤労によって褒賞を得るのを良しとしますから」
働かない者や、逆にアマゾンCEOのジェフ・ベゾスのような億万長者にまで政府が月1,000ドルを払う政策など論外だった。しかし、リンさんとヤン候補は同じIT系のバックグラウンドを持ち、共に40代と同世代。ベーシック・インカムも「IT化による大量の失業者を見越して」など政策の詳細を知ると、納得できることばかりだった。以後、リンさんは家族や友人にヤン候補について説いて回っているが、反応はサッパリ。世論調査ではヤン候補の支持率は徐々に上がっているものの、「ヤンの支持層はアジア系ではありません」とリンさんは断言する。
9歳で台湾からやってきたリン少年は家庭では中国語を話し、学校では英語を使い、アメリカ文化に憧れながらも中国語の本を求めて図書館に通った。懸命に勉強してマンハッタンにある大学に進み、IT分野で成功したリンさんは、今は台湾系コミュニティを出てマンハッタンに暮らす。だが、娘に中国文化を学ばせるために頻繁にフラッシングを訪れた。週末だけの中国語学校に通わせ、その送り迎えをしたのだ。娘の授業中、リンさんは地元の人たちとバスケットボールをして時間を潰したが、中国系の仲間と過ごす時間がリンさんにとって貴重なものとなった。やがて他の習い事が忙しくなり、娘は中国語学校を辞めてしまったが、リンさんは今もバスケットボールのために一人でフラッシングに出向く。
リンさんに自分を中国人、それとも台湾人のどちらと思いますかと尋ねると、「中国と台湾、ルーツは同じなので文化的な意味で中国人と呼ばれても気にしません。しかし休暇前に『中国に帰省するの?』と聞かれれば、『いや、台湾に帰る』と言いますね」と答えた。そんなリンさんはIT分野を通してアメリカに貢献するアメリカ人でもある。中国、台湾、アメリカが交錯する街、それがフラッシングなのだ。
■連載「ニューヨーク:エスニック・モザイクの街を歩く」は月1回お届けします。次回はサウスブロンクスにあるプエルトリカン・コミュニティを訪ねます。