■大阪で感じた無力感
居酒屋、焼き肉、スナックと、連なるネオンの間を人波が満たす。関西一の繁華街、大阪・ミナミ。やや町外れにある公民館に、私が通い始めたのは、2014年の春だった。
当時、記者になって9年目。どこか現場に根ざした長期取材をしたいと思っていた。ずっと、日本に住む外国人に興味があり、ネットで見つけた「Minamiこども教室」に電話をかけた。外国にルーツをもつ子どもの学習支援団体だ。取材を兼ねたボランティアへの参加を、お願いした。
教室ができたのは、その半年前。フィリピン人の母親が、地元の大阪市立南小学校に通う長男らとの無理心中を図った事件がきっかけだった。母親は仕事と育児の両立に悩み、市に生活相談をしていた。
南小の児童約170人の半数が、外国にルーツをもつ。日本語を学び始めたばかりの子、生活の苦しい家庭も多い。当時の校長は、大阪で外国人支援に携わってきた人々に助けを求め、一緒に教室を立ち上げた。
代表についた金光敏(キム・クァンミン、47)は在日コリアン3世。在日支援のNGOを15年前から運営してきた。「将来に希望をもてない子どもらの姿が、『在日に将来なんかない』って荒れてた自分の中学時代と重なって」
教室が借りる公民館には、毎週火曜の夜、小学生から高校生まで20~30人が集まる。フィリピンと中国出身の子が多く、1対1で学校の宿題や日本語を教える。近隣住民や学生にまじって通ううち、子どもや親とも顔なじみになった。
その一人が、小学6年のアヤ=仮名=だった。日本人の父とフィリピン人の母をもち、フィリピンの田舎で育った。母子家庭になって生活は苦しく、アヤが10歳の時に2人で来日。居候した知人宅がミナミにあった。
6年生の担当だった私は、よく宿題をみた。算数は問題文の日本語で詰まるが、説明するとすらすら解いて「私、天才やから!」と笑った。フィリピンで学んだ英語は、他の子に教えるほど得意だった。
母親はファストフード店でアルバイトし、生活保護でしのいでいた。居候先を出ることになった14年冬の夜、ボランティア7人で引っ越しを手伝った。わずかな荷物をバンに積み、ワンルームの新居に運び込んだ。アヤは「先生、来てくれたんや」と親指を立てて、笑っていた。
そのアヤは中2の後半から、教室には顔を出さなくなった。人づてに、単位制の高校へ進学したと聞いた。
人間関係ができてきた子が、来なくなることは時々あった。そんなとき、ふと無力感が頭をもたげる。ボランティアにどれほどの意味があるんだろうか──。そもそも週1日では、子どもの学習や生活に、大したことはしてあげられない。新聞で連載記事を書いた後もボランティアは続けつつ、その疑問を感じていた。
■持ちつ持たれつの関係
17年春からの2年間、会社を休んだ。英国・ロンドンの大学院へ留学し、「移民政策」について学ぶためだ。
私の入った修士課程には、欧米やアジアを中心に世界各地から36人の学生が集まった。国際機関やNGOで移民支援の経験をもつ人も多かった。
授業のなかで目からうろこだったのは、受け入れ社会からの視点で「他者」として描かれがちな移民を、もっと多様な視点から考えたことだ。国境を越える移動が、移民自身やその家族、移民を送り出した国や地域社会にどんな影響を与えるのか、徹底的に議論した。
その視点の根っこにあるのは、かつての植民地主義や、それがもたらした経済格差・紛争が、移民を生んでいるという認識。そして、離れざるを得ない土地に生まれたことは、その人に何の責任もないと考える、あたりまえの人道主義(ヒューマニズム)だった。
私が選んだ研究テーマは「移民の子どもの社会への受け入れ」。ミナミで感じた疑問を考えたかった。ふと、ロンドンでもボランティアをすることを思い立った。ちょうど大学で開かれていた、慈善団体が集まるフェアをのぞいてみた。そこで、難民支援団体のソールズベリー・ワールド(以下、SW)と出合った。
SWは、ロンドン北西部にある公立小学校の敷地内にある。周辺の公営住宅に移民が多く住み、小学校の児童約600人の4割が英語以外の母語を話す。SWの設立は1999年。コソボ紛争を逃れた難民家庭が急に増え、当時の校長が放課後の子どもクラブを立ち上げた。
英国では、コメディーの脚本家らが設立した「コミック・リリーフ」やBBCの「チルドレン・イン・ニード」といった財団が、一般から寄付を集め、慈善団体へ助成する活動が盛んだ。SWも年間予算約4000万円の大半を助成金で賄う。今は有償スタッフ10人に、ボランティア約100人を確保し、周辺の中学校での学習支援や、家族の生活相談にまで活動の幅を広げている。
年間予算200万円ほどのMinamiこども教室と比べ、規模は格段に大きい。ボランティアには荷が重い生活相談を常駐スタッフが「職業」として担えている点が、より安定的な支援を生んでいると感じた。
SWが週4日、事務所で開く放課後クラブには、各日20人ほどの子どもがやってくる。ボランティアの地元住民や学生ら数人が一緒に遊び、宿題も教える。
ロンドンでのボランティアは、大阪とは勝手が違った。なにしろ自分自身も「移民」だ。30歳を過ぎて学び直した英語は、とても人に教えるレベルではない。初日から、おやつの「cucumber(きゅうり)」の単語がわからず、子どもに笑われながら教わった。高学年の子たちがけんかになったときには、うまく英語で仲裁できず、「タローに訴えても無駄だな」と諦められた。
心の支えは、低学年の子どもたち。一番仲良くなったのは1年生だったカリム(仮名)だ。両親は09年に英国に来たイラン難民で、黒い巻き毛のおっとりした男の子だった。教室に来ると「ハイ、タロー」と静かに言って、学校や家での出来事を話す。英国流のじゃんけんや鬼ごっこを教わり、毎週一緒に遊んだ。ただ時々、感情がうまく抑えられず、他の子とけんかになることがあった。
迎えに来る父親も、親しく話しかけてくれるようになった。聞けば、家ではペルシャ語で育ててきたため、入学当初は英語で苦労したという。そのうえ、家族は英国内のイラン人とは交流を断っている。「イランの政権は本当に恐ろしい。移民の中にスパイがいることもあり得る」。真剣な面持ちで、父親は言う。
英国社会で孤立する父親の心配の種は、カリムが大人と接する機会の少ないことだった。「ここにはいろんな大人がいる。日本から来たあんたが遊んでくれることで、この子の考え方や振る舞いにいろんな影響がある。そのなかで成長していくことが、大切なんだ」。父親はそう言って、感謝を口にした。
しかし、感謝していたのは私の方だ。大学院での勉強はつらく厳しく、放課後にカリムたちと遊ぶことで、精神のバランスをとる。私にとっても、SWが大切な居場所になっていった。
同じ思いを、毎日一緒に働くスタッフのイレーナ・クムラ(41)からも聞いた。06年にポーランドからロンドンに来た。欧州連合(EU)加盟によって自由に行き来できるようになった2年後で、多くのポーランド人が英国へ渡っていた。英語学校に入ったが、「はじめは友達をつくるのも難しかった。イングランド人は、人との距離を近づけたがらないなって感じてた」と振り返る。
母国で美術教師の資格をもつイレーナは、ジュエリーデザインの仕事を立ち上げる傍ら、09年秋にSWでボランティアを始めた。それからちょうど10年。SWは「私にとってのコミュニティー」だという。「ここに居場所を見つけたおかげで、この国で孤立せず、自分のホームだと感じられるようになった」
放課後クラブでは頻繁に、子どもが「イレーナ」と呼ぶ声を聞く。子どもがけんかや悪さをしたとき、なぜそうすべきでないかを、イレーナはじっくり説明する。愛情と厳しさをもって接し、私の言うことは全然聞かない子たちも、彼女の言うことなら素直に聞いた。
イレーナが、SW代表のサラ・レイノルズ(57)に寄せる信頼は厚い。難民家庭が抱える問題、異なる文化への接し方、子どもの諭し方……。「たくさんのことをサラから学んだ」。それらは私がイレーナから学んだことだ。
当のサラは20代のころ、小学校の教師だった。バングラデシュ移民が集住する東ロンドンで教えるうち、「教室で学ぶより、もっと大きな影響を子どもに与えるコミュニティーの力」に興味をもった。南米チリでも教師をした後、03年からSWで代表に。子どもの支援を入り口にして、親たちの信頼を築き、地域社会へつなぐことで、多くの移民家庭を支えてきた。
「一番大切なのは」と、ある時サラが言っていた。「ここにみんなが集って、交わることで、異なる外見や背景をもっている人々の間にも、共通するものがたくさんあるって知ることだよ」
私が今年1月に日本へ帰国する際、スタッフと子どもたちが小さなお別れ会を開き、寄せ書きをくれた。私自身もこのコミュニティーの一員になれたのかな、と感じた。
しかし、英国はいま、EU離脱(ブレグジット)に揺れる。EU離脱派の主張の柱は、移民・難民の受け入れ反対だ。留学中、「ロンドンはイギリスではない」という言葉をよく聞いた。世界中から多様な民族・文化が集まるロンドンの風潮は、他の都市とは別の国のようなもの、という意味だ。だとすると、より排他的な町々で、SWのようなコミュニティーは存在しうるのだろうか。
■分断の町、壁に穿った穴
7月、イングランド北東部の町ミドルズブラを訪ねた。3年前、人口に占める難民申請者の割合が、英国内で最も高い自治体として、メディアを騒がせた町だ。
英政府は2000年以降、難民がロンドンなど都市部に集中しないよう「分散」政策をとる。難民申請中は、政府の委託業者が国内各地で借り上げた家に住むことを義務づけられる。業者のコスト削減のため、住宅価格が安いミドルズブラに難民が集中した。
特に難民が多く住む町中心部のグレシャム地区で「業者が、斡旋した難民向け住宅のドアを、赤色にそろえている」という疑惑がもちあがった。赤いドアを目印に石や卵を投げられたと難民が訴え、政府の緊急調査に発展。「意図的にそろえたわけではない」と結論づけたが、難民問題を抱える町として名が知れた。
グレシャム地区を歩いてみた。古びた2階建て住宅が長屋状に連なり、アフリカ系、アラブ系の人たちが、あちこちで立ち話をしている。エスニック食材店も多い。薬物事件が多発しているという報道もあり、地元の人から「夜は歩かない方がいい」と忠告された。
この数十年間、昔ながらの白人住民は南部の郊外へ移り住んでいった。バスで南へ走ると、庭付きの一軒家が立ち並び、中心部と対照的な風景が広がる。
日曜日、町中心部のキリスト教会を訪ねた。白人の高齢者ばかり20人ほどが集まっていた。礼拝後に話を聞くと「この辺りは何もかも変わった」と口をそろえる。郊外から車で通う70代の男性は「私らはもう街中に関わることがない。教会と銀行に来るぐらい。みんな郊外に目を向けて生きてるよ」と言う。
そんなミドルズブラにも、難民の支援団体はある。この教会を拠点に活動する「メソジスト・アサイラム・プロジェクト」だ。町に難民が増え始めた01年、教会の活動から始まった。年間約500人の難民が参加する、町で最大規模の支援団体だ。
約90人のボランティアが古着や生活用品を配り、サッカーや合唱で交流する。6年前から代表を務めるエルサ・アダムソン(53)は「この町に着いて数日目という人も来る。だから、ボランティアたちがここで『人工的』なコミュニティーをつくっているんです」という。
毎週金曜に教会で開く英会話クラスに行ってみた。人種も多様な約60人の難民たちが八つのテーブルを囲み、ボランティアと英語で会話する。日曜とはうって変わって、騒がしいほどにぎやかだ。「一番の目的はソーシャル・インタラクション(社会的相互交流)だから」。忙しく動き回りながら、エルサは言う。「彼らが『自分は人間なんだ』と感じられる場所にしたい」と、昼食も用意し、みんなで食卓を囲む。
驚いたことに、地元の高齢者ばかりのボランティアのなかに、日本人女性がいた。夫がミドルズブラ出身の野見山幸子(43)。6年前から町の郊外に住む、2児の母だ。
移民との分断が進むこの町で、ボランティアの存在は希望の光なのだろうか。そう尋ねる私に、彼女は「こういう活動に参加しない人は、移民と全く関わりをもたないんですよね」という。「こっちに住んで、白人社会だというのはすごく感じます」。街で若者の集団から「チャイニーズ?」「ニーハオ」とからかわれることがあるという。私も町に滞在中、同じ経験をした。
夫のマーティン・レニック(52)を自宅に訪ねると、さらに強く断言された。「ボランティアに参加する人は例外。町の99%の人は難民と話したこともない。メディアを通して、難民の負のイメージを膨らませてしまってる」
マーティンはグレシャム地区のそばで生まれ育った。東京で英会話学校の教師をした後、家族で帰郷。町が運営する難民向けの英語学校で、6年前から教師をしている。
学校には約200人が通う。通学することが難民向け給付金の受給条件になっており、英語を学ぶ気のない生徒、失業して何度も学校に戻る生徒もいるという。公金が使われることを、快く思わない住民もいる。
マーティンについて町を歩くと、学校の生徒や卒業生から次々と声がかかる。彼はその度に立ち止まって、握手し、話し込む。
卒業生の家へも同行させてもらった。シリア難民のモハメド・アタ(29)は内戦を逃れ、1年半かけて欧州を渡り、3年前に英国に来た。今は妻、1歳の娘と、町中心部の小さな借家で暮らす。
シリアで石油の技術者だったモハメドは、英語学校で勉強し、マーティンの支援を受けて町内の大学に入った。シリア人の友人は多いが、地元民と知り合う機会は少ないという。「もっとこの国の文化の内側に入っていきたい。だからマーティンと出会って、一番の友達になれたことをすごく感謝してる」
マーティンのもとには、仕事外でも生徒から相談の電話がしばしばある。妻の幸子は「みんなの人生背負って疲れてるみたいで、ちょっと心配ですけどね」と苦笑いする。
町が英語学校に使うビルの玄関には、ほほえむ生徒一人ひとりの顔写真が、名前や来歴を添えて掲示されていた。マーティンが始めたという。「彼らをただ『ミドルズブラの難民』と呼ぶことはしたくない。それぞれが自分の物語をもってるってことを表現したかった」
マーティンは仕事の範囲を超えて、難民と関わり、支えになっている。それは「ボランティア」とは少し違う。支えられる移民と支える地元民、という関係を超えて、互いに「いいやつだから」つながる人間関係。それが、この町で移民と地元民を分断している壁に、小さな穴を穿(うが)っているように思えた。
■地域の一員として楽しむ
今も大阪・ミナミでボランティアを続けている。ただ、「子どもたちに何をしてあげられるか」ということは、あまり考えないようにしている。ロンドンでそうだったように、自分がMinamiこども教室というコミュニティーの一員として、楽しめばいい。そのくらいの気持ちでいる。
加えて、今春帰国した際、教室の子どもたちが暮らす島之内地区に部屋を借りた。ミドルズブラでのマーティンのようにはいかないが、近所で教室の子どもに出くわすと「火曜日、教室おいでや」と声をかける。
6年前から教室に通うメイ(16)=仮名=という高校2年の女子がいる。日本人の父、タイ人の母の間に生まれ、6歳のとき、タイから島之内に移り住んだ。父子家庭で育ったが、その父親が今年5月、入院してしまった。
メイは生活の全てを切り盛りしながら、助産師になる夢のため、大学進学を目指す。私とは小学生のころからの顔なじみ。家が徒歩2分のご近所でもあり、教室がある火曜の夜は、うちで夕食をたべるようになった。テストの結果、部活の悩み……。妻も交えてたわいもない会話を楽しみ、食器を洗って帰る。
何ということはない生活の一部。けれど私にとっては、ボランティアをきっかけに生まれた、大切な人間関係だ。
他の教室スタッフも、高校や区役所での手続きなど、いろいろ世話を焼く。メイがうちでぽつりと言った。「島之内にミナミ教室があってよかった。しんどい時にみんなが助けてくれて。なんかここには、地域みたいなのがあって」
日本は今春、5年間で最大35万人の働き手を、海外から受け入れる制度を始めた。長い目でみれば、日本で家庭を築き、根付いていく移民は確実に増える。
どうしても分断へと向かいがちな、移民と地元民。その接点になりうる数少ない役割が「ボランティア」だと今は思う。そこに生まれるコミュニティーの一員になることを楽しみつつ、個人と個人の関係を育む。「共生」というお題目は、そんなことからしか、形になってはいかないだろう。(文中敬称略)