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大学探検部が存続できない窮屈な時代 「挑戦する若者」は育つのか 

アフリカの地図を片手に 更新日: 公開日:
宇山洞(岡山県)の洞口前で準備する部員たち=2019年6月(写真はすべて筆者提供)

「この島には、竪穴、横穴、その両方が組み合わさった立体的な穴など様々な洞窟があり、まだ発見されていない洞窟もあると思われます。初心者が洞窟探検の基礎を学び、その素晴らしさを知るのによい機会なので、希望者はぜひ参加してほしい」――。

7月中旬のある夜、私が教壇に立っている立命館大学の衣笠キャンパス(京都市北区)の学生会館の一室。探検部主将の磯野祐紀さん(法学部4回生)が、集まった10人ほどの学生を相手に今夏の洞窟探検合宿の意義を力説していた。

今回の合宿先は鹿児島県の沖永良部島。同島には無数の鍾乳洞があり、探検部員たちは8月16日から26日までの間、テントで寝起きしながら複数の洞窟に入り、測量、洞内を流れる地下河川への潜水、竪穴の昇降といった技術の訓練や、未発見の洞窟探しに挑戦する。

沖永良部島での合宿が終わり次第、磯野さんともう一人の部員は中国での洞窟探検へと向かう。9月初旬から10月末まで、およそ2か月弱の長期遠征となる予定だ。

この7月、私は探検部の顧問に就任した。前任者の退任後、引き受ける教員がいないまま空席になっていたために、大学から就任要請があった。

要請がきたのは、私が探検部のOBだからである。在学中の1991年に仲間と6人でサハラ砂漠の南側に位置するニジェールという国を訪れ、半砂漠地帯の村にテントを張って住み込んだ。下痢やマラリアに悩まされながら、農作業や祭りの様子を映像に収めてテレビ番組を制作したり、紀行文を執筆したりした。

この体験がきっかけとなってアフリカに関心を持ち始め、今やこうしてアフリカ研究をライフワークにしていることを思えば、大学探検部の4年間は私の人生を決めた時間となった。

大学探検部は1956年に京都大学で創部されたのを皮切りに全国の大学に広がった。立命館大学の探検部は7番目に古い1960年の創部である。60年代から70年代初頭のマレーシアの密林探検にはじまり、中国やインドネシアの巨大洞窟探検、ニジェール遠征など過酷な自然条件の中で様々な活動を展開してきた。

とりわけ洞窟探検の技術は全国トップクラスで、巨大洞窟の内部にカメラが入るNHKの番組収録に協力した実績もある。いまや「地図上の空白地」は世界から消え、ジャングル、砂漠、極地といった過酷な自然条件の下にある地域にも開発の手は伸びているが、学生たちは限られた能力と資力の範囲で常に挑戦を続けてきた。

土橋の穴(岡山県)で水が流れる竪穴を降下する部員=2019年6月

■存廃の危機、各地の大学で

そんな長い歴史を持つ探検部だが、顧問になり、近況を詳しく聞くと、部の存続が困難な時代であることを改めて痛感した。およそ30年前の私の学生時代には常に30人ほどの部員がいたが、今は部員がなかなか集まらない。

数年前から「〇〇大学は部員ゼロで休部」「××大学は廃部になった」という話を風の噂で聞いてはいたが、立命館でも現在はようやく10人に達するかどうか、という状態である。2年ほど前には、磯野さん1人という時期もあった。

部員減少の背景は何だろうか。私が学生時代にニジェールに遠征した際は、ほぼ2カ月にわたってテントで暮らし続けた。日本国内で実施したさまざまな合宿でもテント暮らしは当たり前で、港の倉庫街や町外れの公園で野宿したこともあった。アルバイトで貯めたわずかな金で様々な装備を買い、長期の遠征に出かけるには、今も昔もそうやって節約しながら活動するしかない。

そうした物理的に過酷な環境下で活動することを敬遠する今の若者の気質は、たしかに部員減少の理由の一つかもしれない。

だが、サラリーマン暮らしを経てほぼ四半世紀ぶりに大学の世界に戻った私は、部員減少の根源的な理由は別のところにあるように感じている。

権現洞(滋賀県)の洞内に集まった探検部員たち=2019年4月

探検部の活動場所は、国内であっても離島や山奥が多いので、短期の合宿であっても1週間程度の時間が必要になる。土日祝日を利用するのはもちろん、平日の通常授業をある程度欠席しながら活動するしかない。

だから探検部には、大学を4年間で卒業できず、5回生、6回生……と留年する部員がしばしば現れる。それでも歴代の卒業生たちは、そこそこの就職実績を残し続けてきた。活動のユニークさが企業の人事担当者たちに面白がられ、それなりに評価されるケースが多いということを、自らが企業で働く側になってから知った。

私が仲間とニジェールに遠征したのは1991年の2~4月だったが、2~3月の春休みでは時間が足りず、帰国したのは新学期が始まって1カ月が経過した4月末だった。このため1カ月分の全ての授業を欠席したうえに、期限内に受講登録ができなかった。

しかし、当時の大学の教職員たちは「君たちは授業より大切な経験をしてきた」と笑って出迎えてくれ、ゴールデンウィーク明けの受講登録を特例として認めてくれた。

それから30年近い時間が経過した現在、大人たちの温かいまなざしの中で半ば命がけの挑戦が許された学生生活は、もはや「古き良き時代」の思い出でしかない。

■授業もバイトも目いっぱい

昨年4月に母校の教授に就任して驚いたことがあった。それは、今や土曜日や祝日まで通常授業が実施されていることである。

文部科学省は現在、ひとつの科目につき15回の講義を実施することを大学に厳しく求めている。同省はさまざまな助成金や研究予算を通じて全国の大学に絶大な影響力を行使できる立場にあるので、大学は頭が上がらない。ご機嫌を損ねないように授業回数を厳格に順守しようとやりくりした結果、現場では次のようなことが起きている。

例えば2019年度の立命館大学の学年歴をみると、世間では「10連休」が半ば常識になっていた4月27日(土)から5月6日(月)までの中で、4月29日(みどりの日)と30日、5月2日の3日間は通常授業であった。

5月3から6日は4連休だったものの、そこで休んだ分の授業時間を確保するために、5月11日(土)と5月18日(土)は通常授業だった。要するに、学生には連休など事実上なかったに等しいのである。

7月15日は祝日(海の日)だが、この日も通常授業。10月12日~14日の3連休も、12日(土)は通常授業、14日(体育の日)も通常授業、11月4日(文化の日の振り替え休日)も通常授業だ。

さらに、教員が学会や調査出張のために休講した場合、必ずいずれかの土曜日に補講を実施して、学生を登校させなければならない規則が定められている。

このように今の大学は、我々の学生時代とは比較にならないほど目いっぱい授業を詰め込んでいる。また、親の所得が低下傾向にある中、学費は高騰し続けてきたので、多くの学生にとってアルバイトは遊ぶ金のためではなく、生活費の一部を捻出するための方策になっている。

こうして相当数の学生が授業とアルバイトに追われて慌ただしく3回生の夏を迎え、昔とは比較にならないほど早くから始まる就職活動に駆り立てられた挙句に卒業している、というのが拭い難い実感だ。

沖永良部島での合宿について話し合う部員たち=2019年7月

■「探検部が存在しにくい世の中は……」恩師の至言

コンピューターのシステムによって学生の受講登録が管理されている現在、授業を休んで長期遠征に参加した学生の受講登録を特例で認めてくれるような粋な計らいがあるはずもない。一年中、土曜や祝日にまで授業を強要されている現代の学生にとって、探検部などという非効率でリスキーなクラブ活動は論外というのが実情だろう。

大学探検部が日本から消えたところで、困る人はほとんどいない。親のすねをかじりながら遊んでいる学生集団など消えてしまえばよい、という見方もあるに違いない。

しかし私は最近、学生時代にお世話になった当時の探検部顧問の言葉を思い出している。既に退官し、今年75歳になるその先生は、こんなことを言っていた。「授業に出席せずに探検ばかりやっている君たちのような人間が増えたら、世の中は困る。でも、探検という行為は新しい世界への挑戦だ。だから探検部が存在しにくい世の中というのは、それはそれで怖い世の中だ。大学探検部というのは、社会のリトマス試験紙みたいな存在なんだ」――。

毎年、全国の入学式や入社式で、組織のトップが若者に向けて「挑戦する心」や「常識にとらわれない発想」や「既成の枠組みを打破する行動」の重要性について訓示している光景を目にする。だが、各地の大学探検部が存続の危機に直面する現状をみていると、現代日本のエスタブリッシュメントたちが、社会の既成の枠組みから外れてチャレンジする若者の存在を本気で歓迎しているのか、分からなくなる時がある。