1. HOME
  2. Learning
  3. 『COLD WAR あの歌、2つの心』 冷戦時代、亡命は人を変えた

『COLD WAR あの歌、2つの心』 冷戦時代、亡命は人を変えた

シネマニア・リポート 更新日: 公開日:
『COLD WAR あの歌、2つの心』の撮影をするパヴェウ・パヴリコフスキ監督

冷戦は東側から西側への亡命者を数多く生んだ。だが、一見自由に見える地へ亡命したからといって、必ずしも「自由」が得られるわけではない。28日公開のポーランド・英・仏映画『COLD WAR あの歌、2つの心』(原題: Zimna wojna/英題: Cold War)(2018年)は、そんな問いを投げかける。自身も事実上の亡命経験があるパヴェウ・パヴリコフスキ監督(61)に電話でインタビューした。(藤えりか)
『COLD WAR あの歌、2つの心』より

『COLD WAR あの歌、2つの心』は冷戦下のポーランド、東ドイツ、フランス、ユーゴスラビアでの15年にわたる物語。ソ連率いる東側陣営のポーランドで1949年、歌手をめざして民族歌謡舞踊団のオーディションを受けた若きズーラ(ヨアンナ・クーリク、36)が舞踊団のピアニスト、ヴィクトル(トマシュ・コット、42)と出会い、2人は次第に恋に落ちる。だが、ソ連の最高指導者スターリンを称える歌の披露を求められて舞踊団の政治利用が進むにつれ、ヴィクトルは政府の監視対象にもなり、パリに亡命する。舞踊団で脚光を浴び続けるズーラ。冷戦の進展とともに当局の思惑が忍び寄る中、2人は邂逅と別離を繰り返す。

『COLD WAR あの歌、2つの心』より

カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞、アカデミー賞では監督・外国語映画・撮影の3部門でノミネートされた。全編、モノクロ。パヴリコフスキ監督は一時はカラーでの完成も考えたが、第2次大戦で街が廃墟となってまもない当時のポーランドは、「色にあふれた国ではなく、田舎には電気もなく、人々は暗い色の洋服を着ていた。鮮やかな色で見せようとしたら嘘になる」としてモノクロ化を選んだ。確かに、色彩を抑えた映像は、冷戦下の東側をよりリアルに感じさせる。

「ズーラとヴィクトルの物語は、部分的には私の両親のストーリーだ。母は父と一緒に暮らし、国を出て、また出会い、けんかし、亡くなる時は一緒だった。それを繰り返した変わった夫婦だ。今作は彼らの物語そのものではないが、そこから着想を得た」。パヴリコフスキ監督は滞在先のギリシャで、電話越しに語った。

『COLD WAR あの歌、2つの心』より

実際、パヴリコフスキ監督の説明や今作のプロダクションノート、欧州メディアなどから両親の軌跡をたどると、今作を思わせるめまぐるしさだ。

母はバレエダンサーを経てワルシャワ大学で英文学を教え、父は医師。2人は母が17歳の頃に出会い結婚したが離婚し、母は1971年に14歳のパヴリコフスキ監督を連れてロンドンへ渡り英国人と再婚、母子ともに事実上亡命。父はポーランドの反ユダヤ主義の荒波の中でポーランドを去り、再婚しながらオーストリアや東ドイツで暮らす。両親はその後再会、それぞれの再婚相手のもとを去って再び一緒になる。そうして1989年のベルリンの壁崩壊前に相次いで亡くなるまで、約40年にわたって別れと再会を繰り返したという。

パヴェウ・パヴリコフスキ監督 ©Opus Film and Apocalypso Pictures

パヴリコフスキ監督の父方の祖母は、ユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所で殺されたという。一家の歴史は、ポーランドがたどった激しくも悲しい歴史の映し鏡のようでもある。

両親も、映画のズーラとヴィクトルも、スターリン主義の色濃い1950年代のポーランドで関係を深めた。「当時のポーランドは、ただ共産主義国だったというだけでなく、非常に徹底した恐怖政治が進んだ時期だった。同じような時代を経なければなかなかわかりづらいが、何に妥協する必要があるか知らなければならず、とても重苦しく抑圧的な環境だった」

パヴリコフスキ監督が生まれたのはスターリン死去後だが、ポーランドはなお激動を経た。パヴリコフスキ監督が幼い頃、家に住み込んでいたメイドによって一家の一挙手一投足が政府に密告された形跡もあったそうだ。父は、当時発禁対象だった西ドイツ(当時)のシュピーゲル誌をこっそり読んでいたが、置いてあった誌面がいつの間にかなくなったりした。当局に問題視されそうな内容の手紙を父がうっかり捨ててしまい、夜中に家族でゴミ捨て場に探しにいったことも。学生たちの民主化運動が弾圧された1968年の「3月事件」では、市中心部が催涙弾に包まれる中、母の教え子が血だらけで自宅に運び込まれるのもパヴリコフスキ監督は目の当たりにしたという。

『COLD WAR あの歌、2つの心』より

だが、そうした時代を生きながらも、映画のズーラとヴィクトルの場合、抑圧国家への考え方が根本的に違う。

パヴリコフスキ監督いわく、「ヴィクトルは教育を受けた中間層で、ジャズ音楽を愛している」。米国発祥のジャズは「帝国主義の音楽」として、当時のポーランドで公開演奏が禁じられた。激しく進むスターリン化は、西側の音楽にも親しんだ才あるヴィクトルには耐えがたいものだっただろう。

『COLD WAR あの歌、2つの心』より

一方、「ズーラは貧しい層の出身。彼女にとって共産主義はさほどの災厄ではなく、万事うまくいっていて、国を出るほどの理由もなかった。2人は生き方が違っている」とパヴリコフスキ監督は解説する。「誰だってもろい。過ちを犯したような人は、国家やスターリン主義者の脅しを受けやすい。ズーラは問題を抱えていたから、その過去やプレッシャーゆえに、彼らと協力しなければならなかった」

ただ、当初はまっすぐに見えたヴィクトルも、亡命を挟んで変わってゆく。

『COLD WAR あの歌、2つの心』の撮影をするパヴェウ・パヴリコフスキ監督

「ヴィクトルは友を裏切り、故国を出て、自尊心を失った。亡命中は社会的な役割も違ってくる。自信がなくなるし、気の利いた感じになったり魅力的になったりしていられなくなる。はっきりしない自分の立場のために、闘わなければならない」

「2人は国外で再会したが、これも大変なことだった。ヴィクトルはパリの暮らしになじもうと努力したが、ズーラからすればヴィクトルはもはや、ポーランドで見たような人物ではなくなっていた。ポーランドでの彼はすばらしい男性だったのに、パリでは気味の悪い男になったとズーラは感じる。一方のズーラは劣等感の塊。だから傲慢になり、酒に溺れることで対処しようとした。亡命は、恋愛関係にとって大きな障害だ」

『COLD WAR あの歌、2つの心』より

亡命を経験したパヴリコフスキ監督が語るだけに、説得力をもって響く。

冷戦がなければ、ズーラとヴィクトル、あるいはパヴリコフスキ監督の両親はどうなっていただろう。そう水を向けると、パヴリコフスキ監督は「わからない。世界大戦やスターリン主義の時代がもたらす要素が、彼らの人格形成に不可欠なものとなっている。『なければどうなっていたか』を考えること自体、無理な話だろう」と話した。

パヴェウ・パヴリコフスキ監督

長く英国で暮らしたパヴリコフスキ監督だが、2013年にワルシャワに戻った。「ポーランドはすっかり変わっていた。誰かが何かを決定すれば従わなければならなかったのが、そうではなくなった。とても民主的で、選挙もある」とパヴリコフスキ監督。「ただ、今は平等にはなっても、暮らしとしてはそこそこ。選挙自体に慣れていなかったところへ投票するようになり、人口10万人に満たない小さな町村では昔を懐かしむ懐古主義が出て、右派に票が集まっている。社会は真っ二つに分断されている。他の多くの国もそうだけれどもね」