■気候が生んだ世界一の土
ウクライナは、土壌の6割がその黒い土だ。第2次大戦中、侵攻してきたナチスが土を貨車で運び出そうとしたという逸話が残るほどで、土の肥沃さは折り紙つきだ。
首都キエフから特急で5時間かけてたどりついたのは、東部の古都ハリコフ。そこからさらに車で1時間ほど走ると、寒風が吹きつける丘の上の畑に、真っ黒な土が広がっていた。ハリコフにある国立科学センター土壌科学・農芸化学研究所の試験畑だ。
畑の隅にはまだ雪が残っていた。一歩足を踏み入れると、雪解け水を吸った真っ黒な土が靴底にねっとりと絡みつく。想像していたよりも、はるかに重い。
「典型的なチェルノーゼムです。黒い土の層は1メートルほどあるでしょう」。同研究所のヴァディム・ソロヴェイさん(55)が教えてくれた。
土が黒いのは、枯れ草などの有機物を微生物が分解したあとに残る「腐植」という物質が多いからだ。腐植は養分を蓄える力を持っていて、土を豊かにする。おかげでウクライナは大麦、小麦、トウモロコシ、油の原料となるヒマワリの種などの世界有数の産地だ。
黒い土ができる大きな理由は気候だ。ウクライナの平均降水量は、日本の半分以下。雨が少ないので森よりも草原が多い。草の葉や根は秋になると枯れて土に戻るが、冬には雪が土を覆うために分解はゆっくり進む。冷蔵庫の中の食べ物が腐りにくいのと同じ理屈だ。おかげで土の中に養分が残りやすい。
「でも、宝物は黒い土の下にもあるんです」とソロヴェイさんは言った。それは、黒い土の下にある黄色い土。約1万年前まで続いた氷河時代に、氷河に削られた岩が風に飛ばされてきて降り積もった。カルシウムなどのミネラルを豊富に含んだこの土台が、豊かな黒い土を生んだのだという。
■疲れの見え始めた「皇帝」
ところが、世界で最も肥沃なチェルノーゼムが「疲れ」始めている。豊かな土地なので住民はこぞって農地にしたが、手入れが足りていない。
「ここも侵食を受けていますね」。試験畑に向かう車中では、ソロヴェイさんが時折、そう言って畑を指さした。ところどころ、幅数十センチの溝のようなものができている。傾斜地にできた畑では、うまく管理をしないと水で土が流れ出ていってしまうという。
さらに、風も敵になる。畑にしたまま土を風にさらしておくと貴重な表土が飛んでいってしまうからだ。このためウクライナでは伝統的に「シェルターベルト」と呼ばれる樹林帯を畑の周りにつくり、土を守ってきた。ところがシェルターベルトの中には手入れが不十分なところや、切り倒されてしまったところもあり、土がダメージを受けているという。
ハリコフの街中にある研究所に戻ると、所長のスヴィアトスラフ・バリュク(72)さんが迎えてくれ、土の現状について語ってくれた。「侵食に加えて、誤った施肥などにより、土が衰えました。スピードはゆるやかになっていますが、悪化は今も進んでいます」
研究所によると、ウクライナでも耕地の3分の1は風や水による侵食を受けている。さらに、十分な手入れをしないまま作物を育て続けてきたことで、土の養分も減ってきているという。最近では、土の力の衰えが、年間8000万~9000万トンの穀物生産のマイナスにつながっているという試算もある。
さらに、政治的な事情も絡む。紛争が続く東部のロシア国境付近では砲弾による汚染もあり、研究所は衛星画像による監視を続けている。
バリュク所長はこう言った。「いま、土の力が見直されています。農業に必要なだけでなく、土の中の炭素が温暖化にもかかわることが分かってきたからです。まずは劣化を止めなければいけません。私たちもそのために、土壌の監視システムをつくっているところです」
■「白い土」や耕作放棄地が
翌日に訪ねたのは、首都キエフの近郊。黒い土が失われて白っぽくなった農地や、すでに資材置き場などにされている元農地などが広がっていた。
「劣化しているとはいえ、もともと豊かだったために土はまだ肥沃です。しかし、だからこそ、農家は土の劣化にあまり真剣に向き合ってこなかったとも言えます」。案内してくれた国連食糧農業機関(FAO)ウクライナ事務所のミハイル・マルコフ開発プログラム・コーディネーター(50)が言った。
だが土が衰えれば、地域も衰えてしまうとマルコフさんは言う。土がやせれば収穫は減る。採算がとれなくなれば、農家は耕作をやめる。そこで新たな職を見つけられなければ、地域が貧しくなる。懸念しているのは、そんな負の連鎖だ。
ただし、うまく土を生かし、農業を持続可能なものに変えていければ、農業生産を大きく増やすポテンシャルも大きいとも言う。「世界の中には、明らかに農業に向いていない土地もあります。将来の世界的な食糧危機への懸念を考えてみると、私たちには土をうまく管理し、世界の食糧生産に貢献する責任があると思っています」
そこでFAOウクライナはいま、土を積極的に守る農法を広げようとしている。環境に貢献するプロジェクトを支援する投資ファンドなどから資金を集め、昨年から新たなプログラムを開始。今年からは、試験農場で地域の農業法人とともに土にいい農法のテストを始めた。うまくいった例を、各地の農家のモデルにしてもらうためだ。
「土を守ったほうが、長い目で見れば利益になると農家に分かってもらうことが大事なんです」。プロジェクトの責任者のオクサナ・リャブチェンコさんが言った。昨年には、ウクライナ中の関係者を集めた会議も開催。「農家、政府、研究機関、企業など、あらゆる関係者が同じ問題意識を持つことが重要なんです」
■農地売買の自由化も視野
すでに、土地の生産性を高めようと動き出している企業もある。キエフから南西に100キロほど離れた村に拠点を置く「KOLOS」は、有機肥料などを積極的に使っている農業企業だ。
4000ヘクタールの土地でトウモロコシなどを栽培。果樹の生産や畜産も手がける。飼育している500頭の乳牛のふんは、有機肥料に加工して使っている。
「最近は土の中の腐植も増えてきた。土が変われば、作物の味も変わるんです」。そう語る総責任者のレオニド・ツェンティロさん(52)が見据えるのは、市場の動きだ。
輸出先として期待する欧州では、作物の安全性や農業の持続可能性への関心も高い。作物をより高く売るためにも、いい土は欠かせない。
もうひとつ見据えているのが、農地改革だ。旧ソ連時代、農地はすべて国有。1991年の独立後は農家に分配されていった。2001年には農地の売買を可能にする法律もできたが、施行が見送られる「モラトリアム」が今も続いている。世界有数の土があるだけに「外国企業に土地が次々に買収される」といった不安も根強い。
それでも、ここ数年は毎年のように売買の自由化が議論されている。ツェンティロさんは「農地の売買は、遅かれ早かれ自由化される。そうなればよく手入れされている土が、高い評価を受けることになる」と話す。
4月の大統領選では、コメディータレントのボロディミル・ゼレンスキー氏(41)が圧勝するなど、政治的に不透明な状況が続くウクライナ。世界に誇る「皇帝」の未来は、そうした政治の旗振りにも左右されることになりそうだ。