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認知症でも変わらぬ暮らし 海外も注目の「富士宮モデル」とは

World Now 更新日: 公開日:
稲垣康次さん(左)と望月昌宏さん

――富士宮市が、認知症を抱える人の支援に力を入れ始めたのは、当事者が起点だったそうですね。

まず押さえて欲しいのが、富士宮市役所は、直営の地域包括支援センターにいる保健師や主任ケアマネジャーなどの専門職がすごく優秀なのです。とことん、住民と向き合ってニーズを掘り起こしています。

2008年2月、佐野光孝さん夫婦が市役所にやってきました。夫の光孝さんは前年、58歳のときに認知症と診断され、仕事に行けなくなりました。ご本人は「人間失格だ」とまで落ち込んでいたのを、奥さまが半ば強引に市役所まで連れてこられたのです。認知症の人が一歩、社会に出るのは、ある程度、強制的に連れて来られることが多いみたいです。

認知症の人が窓口に来たとき、市役所はまず介護保険サービスにつなぐことを考えます。でも、どうでしょうか。つい最近まで会社で働いていた60歳前の人に、利用者の平均年齢が80歳を超えているデイサービスの一覧表を紹介したら、ご本人を追い詰めるだけでしょう。窓口で最初に応対した久保田絵美子・保健師は、最初から介護保険のサービスを紹介するなんて考えていませんでした。

佐野さんの話を聞いて、元営業マンで人と話すのが好き、バイク好きで旅行が趣味、焼きそばを食べ歩いているといった話を聞いて、ひらめいたのが観光案内所のボランティア。その日のうちに、話をまとめてしまいました。

――事務職の稲垣さんが、当事者とどうつながったのですか。

久保田保健師が、「佐野さんと話をしてはどうか」と誘ってくれました。私は介護障害支援課にいて、包括の担当部署(福祉総合相談課)ではなかったし、事務職ですので普段相談には出ません。でも、久保田保健師が調整してくれたおかげで、3日後に佐野さんと初めて話すことができました。

――専門職は個人の支援が仕事ですが、事務職の人が関わると「市民はみんな平等なはず。個人を助けるのは公平じゃない」と言われませんか?

地域支援の課題は、個人の生活課題からしか見えません。目の前の人をどう支援するか、しっかり考えていく。これは、譲れない原点です。平等公平だけを唱えていたら、誰一人救えません。

ただ、事務職が市民一人の支援だけしていたら、えこひいきになってしまう。個人の支援に終わらせず、地域全体の課題に展開し、施策へと昇華させる必要があります。

――具体的にはどう進んだのでしょうか?

佐野さん自身も、一部の親族を除いて認知症のことをカミングアウトしていませんでした。その段階で、ただ観光案内所に話を持ち込んでもなかなかうまくいきません。

観光案内所は商店街のなかにありましたので、そこの商店主さんたちにも理解してもらわなければいけません。佐野さんをサポートしてくれる人と打ち合わせをしないといけない。ご夫婦への支援も継続していかなければならない。時間をかけて面的な広がりをつくる必要があります。

その過程では、常に問題が出てきます。実は4年たったところで、観光案内所の運営補助金が切れて、閉鎖されてしまいました。佐野さんは1年間、行く場所がなくなってしまいました。今もそうですが、「うまくいっている」という感覚は私たちにはありません。

それでも、専門職と事務職が一緒になって佐野さんの支援に動くなかで、「認知症の人が暮らしやすい街」というイメージが見えてきた。その中で、我々も成長できました。

――住民の協力が得られたということですか?

その感覚は少し違います。「住民が協力する」ではないのです。一般的に自治体職員は「認知症サポーターを養成し、活用する」と言いますが、この感覚はおかしい。サポーターは行政に養成されるものでも、活用されるものでも、協力するものでもないんです。

この地域に住んでいるのは住民です。認知症の当事者はすでにリスクを抱えていますが、他の高齢者だってあと10年たてば5人に1人は認知症になるリスクを負うわけですよね。そんなリスク社会で、「みなさんは、どうやって生活していくのですか?」という話。自分事として考えられるかどうか、なんです。

普通、認知症サポーター養成講座というと、「80種類の病気が関係していて、中核症状と周辺症状があって……」という講義になるじゃないですか。そうではなくて、「同じ地域に住んでいる人が認知症になったら、どうしますか」という課題を、行政と住民が一緒になって考えるということです。

たとえば、ある一人暮らしのお年寄りの家に通っているヘルパーが、冷蔵庫が卵でいっぱいになっているのを発見した。どうやら毎日、卵を買ってきているらしい。これに対して、近所の商店街はどう対応するか。商店街は毎週水曜日に会合を開いているから、役所から説明に来いとなる。で、行ってまず、問いかけます。

「みなさんは、この人は施設に入ればいいと思いますか、それとも、ここで生活し続けて欲しいと思いますか」

そのとき、「ここで生活し続けるなら、どうしたらいいんだろう」となったら、初めて「この人は認知症を抱えていて、こんなリスクがあるんですよね」という説明をし、その後に商店街全体を対象にしたワークショップを開いてもらう。そうすると、「その日のうちだったら、返品に応じるよ」という店主もいれば、「返品はムリだけど、一言注意をします」という人もいます。各商店がやれる範囲で考えてくれたらいい。

また、そうしたワークショップをしていると、タクシー協会から「お金をもってないお客様にたくさんの距離を走らされて困ったんだ」とか、清掃業者等から「認知症の人に車をぶつけられた」などの情報が入る。それを一緒に考えて、整理する姿勢が、大切だと思いました。「ここは自分たちでできるけど、ここは行政が動いてほしい」とかいう対話を通じて、行政の役割が見えてくる。

もちろん、すぐに課題が解決できることもあるし、長期スパンで取り組むこともある。そこは、行政パーソンだから、関係者で話し合って、事業計画に乗せて、単・中・長期で組み立てることが必要と感じました。

だから、行政が「養成する」とか「活用する」ではなくて、住民と一緒に「自分たちの地域で、自分たちが生きていくために、何が一緒にできるのか」を考えることが、「公共」というものだと思ったのです。

――「住民の皆さんにご協力をお願いしたい」ではないと。

僕らは「ありがとう」とは言いますが、「お願いします」とあまり言いませんでした。行政が「お願い」すれば、「行政の責任と負担を押し付けられた」と感じる方は多いと思います。

住民のみなさんは、同じ地域で一緒に暮らしている住民のために、何かしたいとは思っている。目の前の人が倒れたら、誰でも声をかけて助けるでしょ。ただ、人とつながれていないから、その気持を行動に移す機会がない。人をつなぐ機会を提供することも公的機関には必要だと感じました。

それと、プラスの情報をどんどん出すことが大事です。「みなさんのちょっとした活動のおかげで、認知症の人も、いま、こんな生活が送れています」とかね。