ボストン郊外に住むアーサー・カンターさん(68)は、地域の成人教育コースで、スペイン語やライティングのクラスを楽しんでいる。「テストがあるし、たくさん単語を覚えないといけない。年をとってもちゃんと上達する。記憶力を鍛えるのにいいんじゃないか」
カンターさんは、自転車こぎや犬の散歩で積極的に体を動かし、地中海式ダイエットを心がけて野菜サラダを毎晩食べる。こうした生活習慣を守るのは、アルツハイマー病になるリスクを下げるのによいと聞いたからだ。
カンターさんの母親(93)は10年前にアルツハイマー病と診断され、現在は介護つきの集合住宅に住んでいる。新たに会った人を覚えることはできないが、カンターさんのことはわかる。
マサチューセッツホテル協会など業界や職業団体の代表を務めてきたカンターさんが2年前に引退した時、「仕事をしているとすぐにオフィスを抜けられないことも多い。これで、母に何かあった時はいつでも駆けつけられるようになった」と思った。1997年に77歳で亡くなった父親も診断は受けていないものの、認知症を患っていた。
ある日、「A4研究」と呼ばれる治験のホームページを偶然見た。大手製薬会社イーライリリーが開発した「ソラネズマブ」という薬で、アルツハイマー病を予防できるかどうかを調べる研究だった。家族の状況から、自分がアルツハイマー病になってもおかしくないと考えたカンターさんは、「行動しなければ何も始まらない。できることがあれば何でもやろう。これはいいチャンス」と思い、昨年、参加者となった。
A4研究は、Anti-Amyloid Treatment in Asymptomatic Alzheimer's Study(アルツハイマー病の症状がない人へのアミロイド治療の研究)の略だ。アルツハイマー病患者の脳で異常な蓄積がみられる二つのたんぱく質のうちの一つ、「アミロイドβ」に焦点をあてる。アミロイドβはアルツハイマー病の症状が始まる10年以上前から蓄積し始め、病気の引き金となるとされる。その後、もう一つのたんぱく質「タウ」がたまり始めると神経細胞が死んで、記憶障害などの症状が出るという説がある。
この「アミロイド仮説」をもとに、アミロイドβの蓄積を抑える薬が次々と開発された。その一つがソラネズマブで、期待は高かったものの、2012年、治験は失敗した。進んだ症状を抑えることができなかったのだ。だが、詳しく結果を分析すると、ごく初期の人に対しては、病気の進行を抑える効果がみられた。
症状が進行した時には、すでに多くの神経細胞が傷ついており、その時点で薬を使っても細胞は元に戻らない。だが初期なら、病気の進行を抑えられる可能性があると研究者たちは考えた。それを検証するのがA4研究だ。
「アミロイドβは適切なターゲットなのか、どの期間に使えば有効なのか、ソラネズマブが適切な薬なのかを調べる」と研究を主導する米ボストンのブリガム・アンド・ウィメンズ病院記憶疾患ユニット臨床研究部長のライザ・スパーリングさんは研究の目的をこう説明する。
研究の対象となるのは、65~85歳の健康で認知機能は正常だが、陽電子放射断層撮影(PET)と呼ばれる画像診断で脳にアミロイドβの蓄積が確認された約1100人。半数は治療薬、半数は偽薬を3年使い、認知機能の変化などを調べていく。
カンターさんは、PET検査を受けアミロイドβの蓄積があることを知らされたが、「ショックではなかった。覚悟していたから。この研究参加はいいチャンス。自分が失うものは何もない」と前向きだ。月に1回、病院に行き、20分程度、点滴を受ける。薬か偽薬かはわからない。「その間、新聞を読んでいられるし、副作用もない」
A4研究では、アルツハイマー病患者の脳にたまるもう一つのたんぱく質「タウ」についても、参加者の半分がPET検査を受け、タウとアミロイドβの関係も調べる。結果が出るのは2020年という。
症状が出ていない健康な人に薬を使う予防治療に踏み切るのは、大胆なパラダイムシフトに思える。だがスパーリングさんは「ほかの多くの病気はすでにそうなっている」と話す。例えば、まだ心臓病になっていない高脂血症の人が、心臓病になるリスクを下げるためにスタチンを飲んでいると説明する。
症状がない人に長い間、高価な薬を使うことについても「アルツハイマー病でコストがもっともかかるのは、晩期の養護施設に入ってから。発症を5年延ばすことができれば、コスト的にも見合うという推定がある」とあくまで前向きだ。
スパーリングさんの父親は、2年前にアルツハイマー病と診断され、今年2月に亡くなった。「本当に悲しかった。私の子どもや孫には、こんな経験を絶対にさせたくない」
アミロイドβをターゲットにした薬はソラネズマブだけではない。アリセプトで成功をおさめたエーザイも新薬開発に取り組んでいる。アミロイドβができるのを抑える薬と蓄積を抑える薬、それぞれの治験を進めている。
製薬会社はこれまでもアミロイドβを標的とする治験に挑戦してきた。だが、海外の製薬会社がたて続けに失敗し、業界全体に失望が走った。エーザイで開発を担当する小倉博雄部長は、「失敗の原因がわかり、長いトンネルの向こうに光が見えてきたような状態」と話している。